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故郷

トワ。

その名前は、お母さんが決めてくれたと聞いている。

ずっと、健康で、幸せに生きてほしい。

そんな願いが込められている。


私はお母さんの顔を写真でしか知らない。

私を産んですぐに亡くなったからだ。

だから、お父さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、私が寂しくないように、たくさん愛してくれた。


友達がいて。

海があって。

山があって。


私は、この街が好きだった。


――その景色が、ゆっくりと炎に包まれていく。


◇◇◇


視線の先には、崩れかけたコンクリートの天井があった。

所々から、細い光が差し込んでいる。


まただ。


ここは、どこなのだろう。


硬いベッドから背を起こす。


その瞬間、胸元から結晶のようなものが転がり落ちた。

あの紅いルビーのような結晶だった。


剣に貫かれた瞬間が脳裏をよぎる。

制服と下着の左胸には、大きな穴が開いていた。

それなのに、私の胸には傷一つ残っていなかった。


ベッドから立ち上がった。


布のようなもので周囲が仕切られている。

仮設の病室のような場所だった。

壁際には、私のコートが掛けられている。


それを手に取る。

穴の開いていたはずのコートは、誰かが丁寧に縫い直してくれていた。 


とにかく寒い。

私は急いでコートを羽織り、震える指でボタンを閉じた。


一度、深く息を吐く。

私は再びベッドに腰を下ろし、制服のポケットからスマホを取り出した。


電源ボタンを長押しする。


……何も映らない。


もう一度押す。

それでも、黒い画面は沈黙したままだった。


その時だった。


部屋を仕切る布の下から、革でできた丸い球が転がってきた。

ころころと転がるそれを、思わず拾い上げた。


「うわ、やべー! ここ、巫女様が寝てるんだろ? タロ、お前のせいだ!」


「えぇ!? コウ君のパスが悪いからだよ!」


外から、子どもたちの声が聞こえる。

やはり、知らない言葉なのに、意味だけははっきりと分かった。


私はボールを持って外へ出た。


そこは、地面の大きな裂け目を利用して造られた、小さな集落だった。

岩肌には布が張られ、私がいた場所のような簡素な部屋がいくつも並んでいる。


どうやら、この子たちのボールらしい。

五、六歳くらいの子どもが二人立っていた。

一人は灰色の髪。

もう一人は黒髪の少年。


二人とも、私の見たことのない服を着ていた。

粗い布を縫い合わせただけのような、質素な服だった。


「はい、ボール」


私は黒髪の少年にボールを渡した。


「あ、ありがとう!」


少年はそう言うと、もう一人の子へボールを蹴った。

少しぎこちない足取りで追いかけ、二人は笑いながら駆け出していく。


その姿は、私の知るサッカーだった。


改めて、辺りを見渡す。

岩肌に張られた布。

剣を背負う人々。

粗末な服をまとった人々。


まるで、ゲームの中に迷い込んだような光景だった。


何も分からない。

ここがどこなのかも。

けれど、少し勇気を出して辺りを歩いてみることにした。


やはり、変わった格好の人しかいない。

妙に人の視線を感じる。

制服という、ごく普通の格好のはずの私が、この場所では浮いているように思えた。


結局、どうしていいのか分からず、その場に立ち尽くしてしまう。


その時だった。


「巫女様、目覚められたのですね」


突然、聞き覚えのある声が響いた。

私は声の方へ視線を向ける。


灰色の髪。

背が高く、がっしりとした体格。

革の鎧に毛皮を羽織った男だった。


……確か、あの時「ダン」と呼ばれていた。


「皆、不死鳥の巫女が目覚められたぞ!」


ダンの声が集落中に響き渡った。


布の向こうから次々と人が姿を現した。

老人も、子どもも、武器を持った男たちも。

その誰もが、私を見つめていた。


私は状況をまったく理解できず、ただ唖然と立ち尽くしていた。


◇◇◇


ダンに連れられ、少し大きめのテントへ案内された。

私は黙って彼についていくしかなかった。


テントの中も寒い。

暖房器具らしきものは見当たらず、照明もなかった。

今は天井の裂け目から差し込む陽の光で明るい。

けれど、夜になれば何も見えなくなるのではないだろうか。


「目覚めたのかい?」


狭く薄暗い空間に、女の人のかすれた声が響く。

素材も分からない簡素なベッドから、小柄な老人がゆっくりと身を起こし、コンクリートブロックを椅子代わりに腰を下ろした。


その顔には、所々に黒い石のようなものが皮膚に食い込むように浮かんでいた。シミとは明らかに違う。


彼女は私の顔をじっと見つめた。

そして、何かを察したように、静かに口を開く。


「千年、過ぎたのさ。あんたが生きていた時代からね」


私には、その意味が分からなかった。

知らない言葉だからではない。

その言葉を、現実として受け止められなかった。


千年という時間を人が生きられるわけがない。


「あたしらは、先祖が交わした約束を律儀に果たしただけさ。こっから先、あんたがどう生きるかは自由だ。」


しゃがれた声が静かに響く。


「族長。彼女の力がなければ、我々は火を……」


「何言ってるんだい。そんなの、ただの迷信さ」


「ですが……事実、千年後の盟約の日に彼女は目覚めました」


「偶然だよ。ただの強力な異能持ちだろ」


「ですが、あの傷がたった一ヶ月で完治するほどの力ですよ。千年前の異能者ならば、必ず我々の希望になります」


目の前の二人は言い争っていた。

私の扱いについて話していることだけは、分かった。


そんなやり取りがしばらく続いていた。

その時だった。


「族長! リザードマンだ! かなりでかい奴まで入ってきた!」


若い男の声がテントへ響いた。


銀髪に黒い瞳。

二十歳にも満たなそうな青年だった。

腰には剣を提げ、使い込まれた革鎧の上から、フード付きの布のマントを羽織っている。


「そうかい……」


族長は難しい顔で目を伏せた。


「私も討伐に出ます」


ダンはそう言うと、一瞬だけ私を見た。


今、この場所に危険な生き物が入り込み、人々の命が脅かされている。

そのことだけは私にも理解できた。


ダンと、伝令に来た青年はテントから飛び出していった。

私と族長だけが、その場に残った。


「……そろそろ、この場所も限界かもしれないね」


彼女は静かに口を開いた。

私は何も答えられなかった。


「あたしらの先祖は、かつてここであんたに命を救われたそうさ。

その時、約束したんだよ。

千年後、目覚めるあんたの力になるってさ。

……まぁ、ここに伝わる、ただの伝説さ」


「私が……?」


思わず声が漏れた。

私は、あの日まで普通の高校生だった。

そんなはずはない。


「近頃は、この辺りも魔物が増えてきてね。

こうやって拠点が襲われるのも、日常さ。

あんたとの約束も果たした。」


テントの外から、人の叫び声と剣が打ち合う音が聞こえてくる。

戦いが始まっているのだと、それだけは分かった。


私はもう戻れないのかもしれない。

あの街へ。


「ここが、あなたの故郷なんですか?」


「ああ」


テントの外で、誰かの悲鳴が響いた。

続いて、剣が激しくぶつかり合う音が耳を打つ。


「……また、帰って来られますか?」


何故そんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。

ただ、この人たちに故郷を失ってほしくなかった。


「一度逃げたら、もう戻って来られない気がしてね。だから、ここまでしがみついて来たんだよ」


彼女は静かに目を伏せた。


その顔を見た瞬間、私はテントを飛び出し、走り出していた。


何故だろう。

何もできないのに。

何かしたい。


山と海。

家族。

友達。

私が生きてきた、あの街の景色が脳裏をよぎる。


息を切らし走った。

集落の中心らしい開けた場所へでた。


そこには、逃げ惑う人々がいた。

そして、その向こうではゲームの中でしか見たことのない、二足歩行の巨大なトカゲが、刃こぼれした剣を構えていた。


魔物の黄色い瞳に、私の姿が映る。


魔物がゆっくりと私へ近づく。

刃こぼれした剣が、高く振り上げられた。


次の瞬間。


ギィンッ!!


振り下ろされた剣が、寸前で弾かれた。


「何やってんだ!」


あの銀髪の青年だった。

全身には傷が刻まれ、首元には、あの黒い結晶のようなものが食い込むように生えていた。


青年と魔物は何度も剣を交えた。

押し込まれながらも、激しい剣戟の末、青年はなんとか魔物を斬り伏せた。


「こっちだ!」


青年が叫ぶ。

私は慌ててその後を追った。


◇◇◇


青年の背を追って走る。


やがて、地上へ続く裂け目が見えてきた。


「俺はカイ! あんたの名前は!」


「神代……トワ。」


「トワ! お前をここから逃す!親父の決定だ!」


カイは息を切らしながら叫ぶ。

その言葉に、私は足を止めた。

私が動かないことに気づいたカイが振り返る。


「おい、何やってんだ! 早く来い!」


私は足を止め、振り返った。

崩れかけた拠点を、じっと見つめる。


「……あなたにとっても、ここは故郷なの?」


「ああ。」


カイは振り返ることなく、静かに頷いた。


その時だった。

視界の端を、黒い影が駆け抜ける。

鈍い衝突音が響いた。

振り向く。


カイが岩肌へ叩きつけられていた。


目の前では、全身を黒い鱗に覆われた、先ほどの魔物よりも二回り大きなトカゲの魔物が、巨大な戦斧を振り上げていた。


「……トワ、逃げろ……」


カイの掠れた声が響いた。

魔物は瓦礫を踏み砕き、ゆっくりと私の前へ近づいてくる。

一歩ごとに、地面が鈍く揺れた。


私は、その巨体を見上げることしかできなかった。

足が動かない。


魔物は巨大な戦斧を、私へ向けて振り上げた。

そして、確かに、その斧は振り下ろされた。


――パリン。


紅い光が弾けた。

何かが砕け散る音が響く。


次の瞬間。


私の身体は、凄まじい衝撃で叩き飛ばされていた。


……生きている。

何が起こったのかは分からない。


私は瓦礫の中で、なんとか身を起こした。


視線の先では、カイが剣を杖代わりに立ち上がり、私を庇うように前へ出ていた。


魔物はゆっくりとこちらへ歩み寄る。

そして再び、巨大な戦斧を振り上げた。


カイは剣を構えた。

だが、その足は震え、一歩も前へ出なかった。


斧が振り下ろされる。


私のために、この人が死んでしまう。


私は――


何をしたかったのだろう。

何もできないのに。


そう思った瞬間だった。


時が、ゆっくりと。

ゆっくりと流れていく。


どこからともなく、声が響く。


「――不滅の炎。

私の還る場所。」


長い、長い眠りの中で聞いた、悲しげな声。


「左の翼、永久の炎。盟なき者を焼き尽くす。」


誰なの?

貴方が私をこの時間へ連れてきたの?


「右の翼、永遠の炎。契りし者の命を繋ぐ。」


何も返ってこない。


ただ、一つの言葉が胸に残った。


――永遠の炎。


私は自然とその言葉を、なぞるように口にしていた。


その瞬間。

右手が、熱を帯びる。

まるで眠り続けていた炎が、静かに目を覚ますように。


私は右手をカイの背へ向ける。

そして、左手でその手首をそっと支えた。


右手のひらから、白紅の炎が放たれる。

炎は音もなくカイを包み込んだ。


彼の傷が、ゆっくりと塞がっていく。

時そのものが、静かに巻き戻っていくようだった。


やがて、白紅の炎が消えていく。


ゆっくりと流れていた世界が、本来の速さを取り戻した。


炎の一部がカイの右腕を伝い、握られた剣を紅く染めたていた。


剣戟が響いた。


魔物の巨体は、戦斧ごと真っ二つに焼き斬られていた。

その向こうには、カイの背中があった。

右手に握る剣には、紅い炎が静かに揺らめいている。


「……不死鳥の伝説は、本当だったのか……」


カイはそう呟くと、一瞬だけ私を振り返った。


「トワ、地上へ急ぐぞ!」


カイは駆け出した。

私はその背を追う。


積み上げられた石段を駆け上がり、地上へ飛び出した。


傾き始めた陽の冷たい光が世界を照らしていた。


そこに広がっていたのは、見たこともないほど巨大な廃墟。

崩れた高架。

木々に呑まれた鉄骨。

遠くで錆びた何かが風に鳴る。


遠くに聳える山と潮風だけが、どこか懐かしかった。


あの炎が、確信させた。


――ここは、千年後の世界なのだと。

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