市場へ
朝の市場は、いつも騒がしい。
野菜を積んだ荷車が石畳を揺れながら進み、魚売りの怒鳴り声と豚の鳴き声が混じり合う。どこかで香辛料が燃えている匂いがして、琉架は思わず鼻をすすった。
「いつも港はにぎやかなんですよ!活気があって良いですよね」
隣を歩くトッドが、眩しいくらいの笑顔で言った。爽やかな顔に朝日が当たって、まるで観光パンフレットみたいだ。
(陽気なやつだな)
琉架は心の中でツッコみながら、手元の羊皮紙に目を落とした。ゴルバに頼まれた市場調査の概要が書いてある。「取引先の財務状況を把握する」というのが名目だが、要するに「共同出資に乗ってくれそうな商人を探せ」だ。
「まず薬草商のオルドさんのところに行きましょう」とトッドが言った。「顔が広いので、情報が集まりやすいんです」
オルドの店は市場の北側にあった。入口に乾燥ハーブの束が吊るされ、独特の青臭い匂いが漂っている。店主のオルドは六十がらみの小柄な老人で、指先が土で黒ずんでいた。
「トッドか。ゴルバの旦那はお元気かね」
「ええ。今日はこちらの方をご紹介に。琉架さんといいます」
琉架は軽く頭を下げた。
「帳簿の人だね。噂は聞いとる」
(もう広まってるのか、この異世界。口コミ速度だけは前の世界と変わらない)
ひとまず話を続けることにした。
「少し教えていただきたいんですが、在庫の管理はどうされていますか」
「在庫?」オルドが首を傾げた。「売れる分だけ仕入れて、売り切ったらまた仕入れる。それだけじゃが」
「では、今この店に積んである薬草の量を、金貨で換算するといくらになりますか」
「そんなこと考えたこともなかったな」
琉架は羊皮紙を出した。
「在庫も資産です。今持っている薬草は、いつか金貨に変えられる価値があります。たとえば棚のその乾燥ルーベリン草、相場は一束で銀貨三枚。あそこに三十束あるとすれば、それだけで銀貨九十枚――金貨に換えると九枚分の資産です」
オルドが目を細めた。
「言われてみると、そうじゃな」
「火事が起きたり、盗難があったとき、どれだけ損をするか分かりますか。今は分からないはずです。でも在庫を資産として記録しておけば、何かあったとき正確に把握できます。それだけじゃなく、どの薬草が売れ筋でどれが滞留しているかも見えてくる」
オルドはしばらく無言で棚を見回した。それから、ゆっくり頷いた。
「……教えてもらえるかね」
「もちろんです」
琉架はこの世界に帳簿を広めることには、それなりの意義があると思っていた。
午後になって、トッドが「次はマルセさんのところへ」と言った。
布地商のマルセは、市場の中でも一目置かれた存在だった。四十代、小柄で目つきが静かな男で、派手さはないが話す言葉には重みがあった。店の奥には整然と布が積まれ、それだけで几帳面な性格が伝わってくる。
「トッドさん、お久しぶりです」
挨拶を交わし、話題が南方航路に及んだとき、マルセの目が微かに動いた。
「南方の絹は?」
「船さえあれば、確実に取引できます」琉架は言った。「ゴルバさんは南方に取引先を持っています。船を共同で持つことができれば、布地商さんにとっても新しい仕入れ先になりえます」
マルセは黙って考えている。
「……詳しい話を聞かせてもらえますか」
「もちろんです。ただその前に」琉架は羊皮紙を取り出した。「少し帳簿の整理をさせていただけますか。一度財務の状況を可視化してから話した方が、お互い判断しやすくなります」
マルセが少し目を細めた。
「面白い順序です。今まで色んな商人に会って来たがそんな提案をした人はいませんでした。ただ私だけではその帳簿とやらを作れん。また明日来てくれますか」
「わかりました。また明日お伺いいたします」
帰り道、トッドが弾んだ声で言った。
「マルセさんが乗り気になってくれてよかったです!」
「まだ乗り気になったとは言っていません。話を聞くと言っただけです」
「でも前向きでしたよね?」
「……まあ、悪くはなかった」
琉架は認めた。マルセは確かに優秀だ。話が早い。数字を見せればちゃんと反応する。
その日の夕方、ロンドの店に立ち寄ると、珍しく奥さんが笑顔で出てきた。
「琉架さん!今日、ゴルバさんへの返済を一週間早く払えたんですよ!」
ロンドが照れくさそうに頭を掻いた。
「帳簿つけてたら、どこに金が残ってるか見えてきてな。貯められた」
「ロンドさんすごいじゃないですか!毎月の収支が管理できるのはとても凄いことですよ」
(これだ)
琉架はじんわりと思った。数字を見える化するということは、判断できるようになるということだ。ただ、「見えた」だけ。それだけで人に判断の精度を大幅に向上する。
「残高も着実に減っていますね」
ロンドがにやりと笑った。
「あと少しだな」
琉架は空を見上げた。夕焼けが、石畳の市場を橙色に染めていた。
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