店の奢りと一抹の恋模様
次の会合まで、まだ数日あった。
琉架は朝から帳簿と向き合っていた。リベルタ王国の税収の全体像を、ベルーナから借り受けた記録と突き合わせながら整理している。農業に回せる予算はどこから捻出するか。訓練所の初期費用、維持費はいくらになるか。数字を並べれば並べるほど、次の問いが生まれる。
また地獄の決算期のようなことを、と琉架は心の中で小言を言った。かつて何日も終電を逃した経理部時代を琉架は思い出していた。
「琉架さん」
扉が開いた。トッドだった。
「今日もずっと帳簿見てたんですか」
「........国の王様に見せなきゃならないからな。中途半端なものを作るわけにはいかない」
「根詰めすぎですよ。たまには息抜きしないと。昨日も夜遅くまでやってましたよね」
「まあ、そうなんだが.......」
トッドは少し間を置いた。「今夜、飲みに行きませんか」
琉架はペンを止めた。
「……どこへ」
「酒場のリュースさんのとこです。最近いい酒が入ったって聞いてて」
トッドは笑顔だった。いつもの、まっすぐすぎる笑顔だった。
(まあ、たまに飲むぐらいはいいか)
「一杯だけだぞ」
「もちろんです!」
返事が、少し早かった。
--------------------------
夜になって、二人は酒場へ向かった。
石畳の路地を抜けると、暖かな光が漏れる扉が見えた。中に入ると、厨房から煮込みの匂いが流れてきた。玉ねぎと肉の脂が混ざった、琉架の朝から何も食べていなかった腹に訴えかける匂いだった。
奥の厨房ではリュースが動き回っていた。大きな鍋をかき混ぜながら、片手で別の鍋の火加減を調整し、同時に何かを刻んでいる。白髪交じりの短髪、厚い手のひら、前掛けに染み込んだ長年の油の香り。店を開いて何十年という空気が、その背中ににじみ出ていた。
厚い木のカウンター。壁には年季の入った酒瓶が並んでいる。一番上の棚のものは、おそらくもう何年も動いていない。常連が思い思いの席に座り、グラスを傾けている。笑い声が心地よく、店全体に溶けていた。
空いた席へ向かおうとしたとき、若い女の子が近づいてきた。
「いらっしゃいませ——あ、トッドさん、また来てくれたんですね」
明るい声だった。栗色の髪を結んだ、愛嬌のある顔立ちの子だった。
「フィアちゃん、今日もかわいいね」
トッドの声が、少し上ずった。
「また〜、みんなにも同じこと言ってますよね。こちらへどうぞ」
席へ案内しながら、フィアはにこりと笑った。トッドはその後ろをついていきながら、鼻の下が伸びていた。
座って向かい合うと、琉架はトッドを見た。
「……なるほど」
「なにがです?」
「何でもない。乾杯しよう」
グラスが合わさった。
一杯飲んだあたりで、琉架はトッドを問い詰めた。
「一人で何回来たんだ」
「え?」
「フィアさんに。『また来てくれたんですね』って言ってたぞ」
トッドが目を泳がせた。
「……三回、ぐらい」
「俺を連れてきた理由、正直に言え」
しばらくの沈黙があった。
「……一人で何度も来ると、怪しいかなって」
「そういうことか」
「すみません」
トッドはしゅんとしながらグラスを傾けた。それからすぐに顔を上げ、フィアが別の卓に料理を運んでいるのを目で追った。
しばらくして、店の混み合いが落ち着いてきた。
厨房からリュースが出てきた。手で前掛けを拭いながら、琉架の席へ歩いてきた。
「いやあ、ついに来てくれましたな。琉架さん」リュースが腰を落として目の高さを合わせた。「国を救ったお人から金は取れませんよ。今夜はご馳走です」
「そりゃありがたい!」トッドが即座に言った。「じゃあもう一杯——」
「払います」
琉架が言った。
トッドが固まった。リュースが目を丸くした。
「いや、そんな遠慮しなくても」
「遠慮じゃないです」琉架はグラスを持ったまま言った。「この店が好きだからちゃんと払います」
「……好きだから、払う?」
「そうです」
リュースは首を傾けた。トッドも傾けた。
琉架はグラスを置いた。
「タダにしてもらうのは嬉しい。でもこの店の食材や酒は、タダになっても仕入の費用がかかってますよね」
「まあ、そりゃそうですが」
「ご馳走してくれると、売上が立たない。売上が立たないと、その仕入れ値が原価として計上されるだけです。商品を出してもお金が入ってこないなら、その分は丸ごと損になります。それはこの店の利益が減ることに直結します」
リュースが少し考えた。
「……そうか」
「俺はこの店に長く続いてほしい。今日の料理もとても美味しかったです。だから、便益を受けた分はちゃんと払います」
リュースはしばらく琉架を見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかりました。いただきます」
リュースが厨房へ戻っていくのを見ながら、トッドが小声で言った。
「俺もう一杯頼んでいいですか」
「自分で払えよ」
「えー、奢ってくださいよ」
三杯目が空いたころ、トッドの目がいい具合に緩んでいた。
フィアが空いたグラスを下げに来た。
「フィアさんってさ」トッドがグラスを傾けながら言った。「どんな人が好きなの」
琉架の傾けていたグラスが一瞬止まった。
フィアは少し考えて、にこりと笑った。「うーん、真面目で誠実な人がいいですね」
「俺、誠実だよ」
間があった。
フィアの笑顔が、少しだけ固まった。
「……トッドさんの噂、聞いたことがあって」
「噂?」
「街でいろんな女の人に、手当たり次第声をかけてるって」フィアが申し訳なさそうに言った。「市場でも港でも、けっこう有名で……そういう人は、ちょっとな、って」
トッドの顔から、血の気が引いた。
「……そんなに知られてるの」
「かなり」
琉架はグラスを傾けながら言った。
「身から出た錆だ」
「ルカさん、それ今言います?」
「フィアさんの言う通りだ。少しは節操を持て」
トッドはしばらく卓を見ていた。それからゆっくりと顔を上げ、フィアに向かって言った。
「……俺、これから誠実な男になります。誓います」
「はい」フィアは優しく微笑んだ。「応援してます」
フィアが離れると、トッドはグラスに口をつけたまま黙っていた。目が、じわりと赤くなっていた。
「泣くなよ。慰めないぞ」
「泣いてないです」
「目が赤い」
「泣いてないです!」
トッドはグラスを飲み干した。
「俺、本当に変わります。今日から誠実な男に生まれ変わります。絶対」
「そんな簡単に変われるかね〜」
「本当です。……もう一軒行きませんか」
「さっき誓ったばかりだろ」
「誠実さと飲み歩きは関係ないんで」
琉架はしばらくトッドを見た。
「……まあ、確かにそうか」
-----------------------
翌朝。
二人が仕事を始めたのはいつもより二時間遅かった。顔色は石壁と同じくらい白く、足音が自分で頭に響いているのが傍目にもわかった。
ティスが腕を組んで待っていた。
「いい歳して何やってんだ」
「いや、その」
「二軒目まで行ったのか」
「……三軒」
「三軒!」
ティスの目が吊り上がる。
「仕事があるんだから加減しろよ」
ゴルバがお茶を持ってきた。
「まあ、たまにはいいだろう」
ティスが振り向いた。
「こいつらを庇うんですか」
「若いころにそういうことも経験せんとな。ティス、お前もたまにはハメを外せ。ただ、お前たち」ゴルバはトッドと琉架を順番に見た。「仕事はちゃんとしろよ」
トッドが力なく頷いた。
琉架はお茶を受け取り、一口飲んだ。頭の奥がまだじんじんしている。
悪い夜ではなかった、と思いながら昨日の余韻をお茶と一緒に流し込んだ。
ルカとトッドの飲み歩き回でした。次回もお楽しみに!




