石壁の魔法使い
石壁の上は、戦士たちが戦う音に包まれていた。
「はあっ!」
ライガーが石壁の縁から跳んだ。十メートル下の平野に着地した瞬間、地面が揺れた。向かってきた魔物の群れのうち、先頭の五体を拳一振りで吹き飛ばす。衝撃波が土埃を巻き上げ、残りが怯んで足を止めた。
ライガーはそのまま笑っていた。
「ほら来い! もっと来い!」
怯んだ魔物たちが、ふたたび殺到する。ライガーは一歩も引かなかった。踏み込み、薙ぎ、叩き、投げる。大ぶりに見えて、無駄がない。十二年の牢獄生活で、この男の戦の感覚が鈍ったという証拠がどこにも見当たらなかった。
壁の上から、アーシュリがそれを見ていた。
「ほんとに化け物じみてる。どっちが魔物なんだか」
呟いて、両手を前へ広げた。
「魔法部隊、前へ! 横の群れを潰すよ!」
六人が一斉に前に出た。アーシュリが炎を一点に絞り込み、放つ。石壁の外壁を舐めるように走っていた翼型の魔物の群れが、一条の炎に飲み込まれた。
「左翼、続けて!」
ミーナが指示を出す前に、部下の二人が氷を展開していた。地面を這う小型の魔物たちの足元が凍りつき、動きが止まる。
「右は風で吹き飛ばして! そのまま壁際まで押し込む!」
アーシュリが叫んだ。
こういうことができるようになったのは、レオナール王になってからだ。以前は王命で魔法部隊は王都に縛り付けられていた。ここで魔法を使うのは、こっそり非番の日に来た時だけだった。それが今は、堂々と前線に出ている。
(やっと。やっとここで戦える)
アーシュリは次の炎を絞り込みながら、腹の底に熱いものを感じていた。
一時間後、魔物の波が引いた。
壁の上に静寂が戻り、兵士たちが肩の力を抜いた。ライガーが石壁の外から跳び上がって戻ってくる。全身に魔物の体液が飛んでいたが、本人はまるで気にしていない。
「楽しかったな」
無邪気に言った。
アーシュリが眉を上げた。「楽しかったって……普通そう言う?」
「楽しくなかったか」
「……まあ、あたしも楽しかったけど」
ミーナが二人の横に並んだ。「お疲れ様でした」
三人は壁の内側の通路に腰を下ろした。
「ところで」ミーナが言った。「訓練所の話が出ていましたけど、どう教えるかを考えておく必要がありますね」
「そう言われてもなあ」ライガーが首の後ろを掻いた。「俺はずっと自分でやってきた。感覚でやってる部分がほとんどで、言葉で説明しろと言われてもどう言ったらいいかわからん。そもそも若い奴は鍛え方が足りん。あれでは前線に死ににくるようなものだ」
「あたしも同じ」アーシュリがあっさりと言った。「魔法の感覚って、言葉にならないんだよね。こう、魔力が体全体に集まって放出する感じ?——って、伝わる?」
「伝わらない。一体何を言っている」とライガー。
「でしょ。だから私に教えるの無理なんだよな」
ミーナが少し間を置いた。
「……素人が前線に立てるようになるまでの、一貫した道筋を作る必要があります。感覚だけでなく、段階を踏んで誰でも学べるように。みなさんみたいに感覚ですぐにコツを掴める人たちだけが集まるとは限りません」
「そういうの、あたし苦手」
「知っています」
「そもそもさ、努力できない人の気持ちって、あたしにはわからなくて。なんでやれないのかな、って思っちゃうんだよね。やればできるのに、みたいな。ていうか、やらないと死ぬわけじゃん?」
ミーナが、ため息をついた。
長い、深い息だった。
「……アーシュリ、そういうところです」
「え、なに」
「アーシュリのそういうところが、部下の教育ができない理由です」
アーシュリが押し黙った。
「あなたができるのは、才能があるからです。努力の仕方が本能的にわかるからです。でも、それがわからない人間が世の中のほとんどで——」ミーナは続けた。「師匠が私たちにしてくれたことを思い出してください。何度つまずいても、道標を示してくれた。時に厳しく、時に優しく、私たちに寄り添ってくれました。それ今度は私たちが次の世代にやる必要があります」
「……そうだけど」
「そうです」
アーシュリは壁に頭をもたせかけた。反論する言葉が出てこなかった。
ライガーが二人を見渡して、ふと言った。
「一つ聞いていいか」
「なんですか」とミーナ。
「なんでミーナはアーシュリに敬語なんだ。ミーナの方が年上だろう」
アーシュリが「そうなんだよ」と身を乗り出した。「タメ口でいいって何回言っても」
「隊長になってから、仕事中は敬語にしようと決めました」ミーナが真っ直ぐ言った。「上官ですから」
「そんな他人行儀な」
「私一人がタメ口で話すわけにはいきません。規律というものがありますから」
ライガーが少し考えてから言った。「なんでアーシュリが隊長なんだ。ミーナの方がよっぽど向いてそうだが」
沈黙が落ちた。
二人の間に、ひどく気まずい空気が流れた。
「……あたしも正直そう思ってる」アーシュリが観念したように言った。「隊の管理とか、記録とか、部下への指示とか、全部苦手で。ずっと魔法のこと考えてたいんだよね、あたし」
ミーナが複雑な表情になった。
「師匠が決めたことなので」
「ドヴァンが決めたのか」
「……はい」
それ以上、ミーナは言わなかった。アーシュリも口をつぐむ。
ライガーは何かを察して、それ以上掘り下げなかった。
その時、石壁の上に角笛の音が響いた。
低く、長い一吹き。次いで短く三回。
壁の上で見張りをしていた兵士が叫んだ。
「第三警戒! 北東、魔物の群れ再接近! 数多数!」
アーシュリが立ち上がった。
「全員持ち場に戻れ!」
二度目の戦闘は、一度目より規模が大きかった。
しかし終わった後の壁の上の空気は、清々しかった。
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夜、石壁の内側に焚き火が並んだ。
兵士たちが思い思いに座り、鍋を囲んでいた。杯が回り、笑い声が上がる。
ライガーが大杯を傾けながら、火を眺めていた。
「くー、戦の夜の酒は格別だな」
大きな杯を豪快に空にし、叫んだ。牢の中で鬱屈とした十二年を過ごしたライガーにとってはなににも変え難いひと時だった。
「ライガー様」
隣から声がかかった。若い兵士だった。年は二十を少し過ぎたくらい。真っ直ぐな目をした、名をカルロという。
「一緒に戦えて、光栄でした」
「お前、前線に来てどれくらいになる」
「三年になります」
「三年か。腕はまずまずだな。もう少し鍛えろ。重量級の魔物が来たら太刀打ちできんぞ」
「はい、日々精進します」カルロは少し俯いてから顔を上げた。「今度、稽古をつけていただけませんか」
ライガーが大杯を煽りながら言った。「加減はしないぞ。それでもいいか」
「はい。覚悟の上で」
「なら、いいだろう」
カルロが目を輝かせた。
「前線、最近は随分変わりましたよね」別の兵士が口を挟んだ。「レオナール王になってから、補給が安定して、魔法部隊が正式に前線に出るようになった。数ヶ月前とは比べ物にならない」
「ああ」カルロが頷いた。「以前は数が足りなくて、一人で何体も相手にしなければならなかった。今は連携が取れるようになってきてる。魔法部隊の遠距離攻撃もある」
「それで命拾いした奴が何人もいる」
ライガーは黙って、杯を飲み干した。
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深夜、テントの中でミーナは羊皮紙に向かっていた。
ランプの灯りが羊皮紙を照らしている。書き込まれているのは、細かい文字と図だった。
「ミーナ、まだ起きてたの」
入口の布が開いて、アーシュリが顔を出した。
「アーシュリ、宴はもういいのですか」
「うん、ライガーが酔ってうるさいから逃げてきた。何してるの?」
「魔法使いの教育課程を考えていました」
アーシュリが中に入り、羊皮紙を覗き込んだ。びっしりと書き込まれていた。
「座学、基礎訓練、応用……これ全部考えてたの?」
「魔法使いを増やすには、才能がある者が勝手に育つのを待つだけでは足りません。知識のない状態から、前線に立てるようになるまでの道筋を、誰かが整えないと」
アーシュリは羊皮紙を見たまま、黙っていた。
「……ごめん」
「え?」
「これ、本当はあたしがやるべきことじゃん。隊長なんだから。でもミーナにずっと任せっきりで。今日のライガーの話じゃないけど、あたしって隊長の仕事、全然できてないよね」
ミーナは筆を置いた。
「アーシュリ」
「なに」
「あなたは、手のかかる妹みたいなものです」
アーシュリが顔を上げた。
「今までもそうだったでしょう。師匠のところにいた頃から、あなたが考えるのは魔法のことだけで、他のことは大体あたしが——」
「……それは」
「文句ではありませんよ」ミーナが続けた。「あなたが全力で魔法に向き合っているから、部隊全体の力が上がる。隊長が隊でいちばん強ければ、部下はついてくる。それはあなたにしかできないことです。人にはそれぞれ役割がある」
「でも」
「あなたは、得意な魔法でより多くの魔物を倒してください。それが魔法部隊の士気を上げる一番の近道です。管理のことは私に任せてください」
アーシュリはしばらく黙っていた。
「……ありがとう。」
「いえいえ、今日は随分素直ですね」
「ミーナって面倒見がいいよね。師匠に引き取られた時もそうだったじゃん。あたしが夜に泣いてたら、隣で黙って寝ないで付き合ってくれてた」
ミーナが少し目を伏せた。「お互い様でしょう。私だって、最初の夜は怖かった」
「前線で親を亡くしたばっかりだったもんね」
「……ええ」
二人は少しの間、黙って座っていた。ランプの火がゆらりと揺れた。
「師匠は厳しかったけど、ちゃんと育ててくれた」とアーシュリが言った。
「だからあなたも、次にやらないといけない」
「……わかった。私も考えてみる」
「ええ、あと喋り方ももう少し変えるといいと思いますよ、せめて目上の人には敬語を使いなさい」
アーシュリが苦い顔をした。「はいはい」
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翌朝、夜明け前に警戒の角笛が鳴った。
壁の上の見張りが叫ぶ声が聞こえた。
「第四警戒! 全軍集合! 北、大群接近! 数、これまでの比ではありません!」
壁の上に立った時、アーシュリは息を呑んだ。
平野が黒く埋まっていた。地平線の手前まで、魔物の群れが蠢いている。先頭がすでに走り出していた。
「全員——撤退! 壁の内側に下がれ!」
アーシュリが叫んだ。
「隊長! 我々は!」
「魔法部隊も下がる!巻き添い喰らいたい?」
兵士たちが撤退しだす。
ライガーが、前に出た。
「俺が正面を」
「ダメです、ライガーさん!」
周囲の兵士三人が反射的にライガーの腕を掴んだ。全員で引っ張っても、びくともしなかった。
「離せ。一人で片がつく」
「一人で片がつく数じゃないんですよ!」
ライガーが平野を見た。群れの後ろがまだ見えない。
「……多いな」
「だから下がれって言ってんの!」アーシュリがライガーに向かって叫んだ。
ライガーが舌打ちして、一歩引いた。
全員が石壁の内側に下がった。
アーシュリが壁の上に一人残った。
両手を広げた。
魔力が集まり始めた。炎が指先に生まれた。それだけではなかった。指の間から光が走る。足元から冷気が這い上がり、腕に巻き付く。三つの属性の魔法が同時に体を覆った。魔力の密度が上がるにつれて、空気が変わった。
前線に立ち始めたばかりの若い兵士が、壁の内側から見上げていた。魔法部隊の隊長が、石壁の縁に立っている。風が金髪を揺らしていた。
(……女神のようだ)
誰かが小さく言った。
アーシュリが腕を引き絞った。集めた全てを、前に向けた。
「食らえ」
光と炎と氷の刃が、一斉に解き放たれた。
無数の刃が群れに向かって走り、弧を描き、広がり——轟音が平野を揺らした。
砂煙が晴れ、視界が開けると魔物の群れが、消えていた。
前線の兵士たちが、壁の内側で顔を見合わせた。誰も最初は声が出なかった。
それから——一人が叫んだ。
次の一人が続いた。
歓声が石壁を揺らした。
アーシュリは壁の縁に立ったまま、平野を見ていた。煙がゆっくりと晴れていく。
隣にミーナが上がってきた。
「……お見事でした」
「へへ、すごいでしょ」
アーシュリは鼻を高くし、それから少し笑った。
アーシュリとミーナの過去について、今回少しだけ触れました。二人が前線で親を失い、ドヴァンに引き取られた経緯は、今後もう少し詳しく描ければと思っています。次回もお楽しみに!




