癒しの宴
謁見の間に立つレオナールは、謁見の間を見回した。
かつて王であった男の残骸は、どこかで見た彫刻の複製のように現実感を欠いていた。砕けた窓から風が流れ込み、カーテンが緩やかに揺れた。
レオナールは部屋の惨状を見渡しながら、不思議なほど静かな気持ちでいた。
一人ずつ、確認するように視線を向けた。
ライガーを。ゴルバを。アーシュリを。それから——ティスを。
「レオナルド」
名前を呼んだ。ただそれだけだった。
ティスの肩が、小刻みに揺れた。
ティスという名前で過ごした時間がどれほど長いか、レオナールには想像しか出来なかった。レオナールは十二年、自分の本当の名前を人に呼ばせることなく生きてきた弟を視界に納め続けた。名前というものが、その人間の本質を指し示す固有の記号であるとすれば、ティスはその記号を意図的に捨て、別の記号をまとって別の人間として存在し続けてきたことになる。彼の何かを、静かに殺し続けたのかもしれなかった。
レオナールはそっと目を閉じ、弟が過ごした十二年に思いを馳せた。
「ピコを繋いでくれ。国民に話がある」
ティスはしばらくの間、兄の顔を見ていた。十二年という時間が刻んだ皺を。それから、何も言わずに懐へ手を入れた。
ライガーは、動けなかった。
十二年、待った。その待望の姿を噛み締めるように、ライガーは両方の目でレオナールの姿を捉え続けた。
「……」
声が出なかった。
ライガーの頬を、一筋の熱いものが伝った。まさか自分の目から流れるとは思っていなかった液体を手の甲で拭い、天井を向いた。かつての主君のことを思い出した。仕えた日々を思い出した。今はもういないその人の顔がレオナールの顔に重なった。
ピコが青白く光った。
「聞こえているか」
レオナールの声は、思ったよりも静かだった。それは緊張のためではなかった。どう話すべきか、ではなく、何を話さねばならないか——その重さが、声を落ち着かせていた。
「私はレオナールだ。先王エドモンの長子。十二年、この国を離れていた」
衛兵が互いを見た。謁見の間は、息をするのも憚られるほどの沈黙に満ちた。
「この国がどのような状態にあるか、私はゴルバが届けてくれた手紙によって知っていた。毎回が届いたわけではない。北の海を渡る便は不確かで、どれだけが途中で失われたか知れない。それでも届いた言葉の中に、この国のことが記されていた。税が民を喰っていることも。本来守るべき前線よりも王宮の警備が厳重だったこと。兵が、愚かな王のためにその忠誠を誓わなければならなかったこと知っていながら、すぐには戻れなかった。その非は私にある。この国の王族が十二年にわたってしてきたことを、私が謝罪することで償えるとは思っていない。ただ——言わせてくれ。この国をもう一度立て直すために皆の力を貸してほしい。」
謁見の間で、廷臣の一人が視線を床に落とした。溢れる思いが抑えられず、謁見間に咽び泣く声がこだまする。
「この国をかつてエドモン王が統治していた、素晴らしい国に戻したい。今まで搾取しておいてと思う者もいるだろう。だが、エドモン王の子として、このままこの国を廃れていくのを傍観することはできない。皆の力が必要なのだ。私もこの身の全てをかけて、この国をよくしていくつもりだ。皆の、民の一人一人が国なのだ。そなた達の力を、私に貸してはくれないだろうか。そなた達の子に、またその子にも、偉大な王だったと、言ってもらえるような王になるとここに誓う。私の人生をかけてそれを証明しようと思う。」
レオナールの声が少しだけ震える。
「どうかもう一度だけ、王族に力を貸してくれないだろうか。もう一度だけ。必ず皆の期待に応えて見せる」
ピコの光が、消えた。
広間に静寂が戻った。しかしそれは最初の静寂とは種類が違っていた。
アーシュリはただ天井を見ていた。目の端が、かすかに赤かった。
人払いをした後、ゴルバがレオナールの傍へ来た。
「ゴルバ、手紙を定期的に送ってくれたこと感謝する」
「届いたり届かなかったりで」とゴルバは答えた。「役に立ったかどうかも」
「届いた分で十分だった。この国の状態を知らせてくれた、それで十分だった」
ゴルバは何も言わなかった。
レオナールはゴルバの横顔を見た。白くなった髪。深くなった皺。しかし背筋だけは、十二年前と変わっていなかった。
「老けたな」
「レオナール様は随分父上に似てきましたな」
二人からかすかに笑いが漏れた。
琉架の前に立ったとき、レオナールは少し躊躇った。
「ルカ、だったか」
「はい」
「この国のために動いてくれたと聞いた。帳簿で——数字で、腐敗した仕組みごと、暴いてくれたと」
「商人ギルドの皆がいたので」
琉架はまじまじとレオナールを見た。エドガーとは違い、目に輝きがあり、その表情には相手を包み込むやさしが垣間見えた。
「礼を言う」
頭を下げた。
「……頭を上げてください」琉架は少し困った顔をした。「慣れていないので」
「では、もう一つだけ」レオナールは顔を上げ、静かに言った。「今後も、この国に力を貸してほしい」
琉架はすぐには答えなかった。しばらくの間、特定のものを見るわけでもなく、ただ宙の一点を見ていた。
「……考えておきます」
------------------
その夜、宴が開かれた。
レオナールが言い出したことだった。国民の苦労を労うために、城下には食事と酒が振る舞われ、王宮の大広間にも卓が並べられた。衛兵も廷臣も、今日戦った者もそうでない者も、この夜ばかりは区別なく、同じ酒を飲んだ。
広間の奥に、円卓が二つあった。
レオナール、ゴルバ、琉架、ティス、そしてベルーナが囲む卓では、杯が一巡したころにレオナールが切り出した。
「琉架。この国の財務を、正式に任せたい」
琉架は杯を置いた。
「....いきなりですね」
「要らぬ押し問答が嫌いでな。すまぬ」
「本当にまっすぐな方なんですね。——私は商人ギルドの方が合っています。それに、まだ拾ってくれた恩をゴルバさんに返せていない。ゴルバさんに儲けという形で今までの恩を返したいんです。」
レオナールは不服そうな顔をしたが、黙ってうなづいた。
「ゴルバは」
「私も同じです」ゴルバは言った。「商人ギルドをもっと大きくすることが、この国を動かす一番の近道だと思っています。長らく剣も置いていました。もう前線には戻れません」
レオナールはしばらく黙った後、ティスを見た。
「レオナルド。お前はどうする」
ティスは少し間を置いた。
「俺は」と彼は言った。「王族として生きてきた時間より、商人として生きてきた時間の方が、もうずっと長い。このままここにいる。こいつらが——知らない間に俺の家族に、居場所になっていた」
ゴルバが小さく頷いた。
間があって、琉架が静かに手を上げた。
「……一応俺もそこに入ってる?」
「黙れ」
ティスが恥ずかしそうに即答した。琉架は両手を上げた。ベルーナが口元を押さえた。ゴルバの肩が揺れた。
レオナールは、ゆっくりと息を吐いた。
「レオナルド、いい仲間ができたな。」
しばらくして、もう一度、琉架に向かって言った。
「王宮仕えにならないとしても——定期的に意見を聞かせてほしい」
「クロヴィスのことを、考えている」と彼は続けた。「あの男が去り際に言ったことは、脅しではないだろう。帝国の大群がこの国へ来ると言った。それは、近い将来に現実になると思っている。備えが要る。そなたの力が必要だ。この国の発展のために力を貸してくれ。そなたのような男を手放せという方が無理な話だ」
琉架は杯の底を見ながら答えた。
「……定期的に、でいいなら」
「十分だ」
隣の円卓では、トッドとキーンとアーシュリとミーナとドヴァンとライガーが座っていた。
アーシュリとミーナは、十二年ぶりに向かい合ったドヴァンの前で、妙に姿勢が正しかった。かつて恐怖の対象だった師が酒の席で前に座っている。かつての修行の日々が身体に染み込んでいるからだった。
その斜め向かいで、キーンが骨ごと肉を頬張っていた。
「キーン」とトッドが肘で突いた。「今日くらいは」
「腹が減ってたんだよ」
「それはわかるが——」
「こんなに美味しい料理滅多に食べられないよ。トッドも食べなよ」
トッドは呆れ、周りの話の邪魔にならないよう、キーンを席の端へ追いやった。
ドヴァンがアーシュリを見た。
「十二年、国を守ってくれた」
「守ってません」アーシュリはすぐに言った。「あのバカな王のせいで王宮で時間を無駄にしただけです」
ドヴァンは少し黙った。
「休みの日に石壁の近くへ行っていたようだな」
アーシュリが固まった。
「王宮の命令でも、誰かの指示でもなく、兵と並んで警備の穴を埋めていたと聞いた。この国の人間のために研究を続けていたことも」
アーシュリは何も言わなかった。
ライガーが、杯を置いた。
「前線の兵士の間では女神と言われていたそうだ。危ない時に女神が現れて助けてくれると。まさかそれが王宮魔法部隊の隊長だったとは夢にも思わんかっただろうがな」
ミーナが、小さな声で言った。「アーシュリは常に国のことを考えていましたよ。石壁のために巨大な結界を貼れるようになりたいと研究を続けていました」
「余計なことを言うな。まだ全然うまくいってないし」
アーシュリの頬に、かすかな赤みが差していた。
少しの間があって、ミーナがドヴァンの右袖に視線を落とした。
「……その傷は」
「航路でやられた」ドヴァンは左腕で静かに杯を持ち上げた。「北の海で、魔物の群れに遭遇した。石壁に来る魔物より強力な奴がうじゃうじゃいた。レオナール様と二人ではどうにもならなかった」
「レオナール様も」
「脇腹に傷が残っている。今は問題ない」ドヴァンは目を伏せた。「自分がもっと強ければ、あの方に傷を負わせずに済んだ」
誰も何も言わなかった。
アーシュリが、少し間を置いてから口を開いた。
「師匠」
「なんだ」
「手合わせをしてください。どれだけ強くなったか——見てほしい」
ドヴァンはアーシュリをまっすぐに見返した。かつて自分の視線の下であった弟子が、今は真っ向から自分を見てくる光景にまだ慣れなかった。
「わかった。だが明日にしよう。今日は再開を祝して酒を飲もう」
「はい」
それだけだった。しかしその短い言葉の中に、二人の間に流れた十二年が、静かに収まっていた。
宴の終盤、広間は賑わしい混乱の中にあった。
アーシュリはいつの間にか顔を赤くして、円卓に頬杖をついていた。
「トッド。キーン。芸をやってー」
「……何故ですか」
「いいからやれ。氷漬けにするぞ」
「芸と言われましても、私どもには——」
「やれと言っている」
トッドはミーナへ視線を向けた。
「ミーナさん、止めてもらえますか」
「うふふ……ふふふ」
ミーナは、既に正気でなかった。何かが可笑しくて可笑しくて仕方がない顔で、笑い続けていた。
「……ミーナさん?」
「ふふ……え、何ですか?それより芸はまだですか.........商人ギルドはどんな面白い芸を持っているんでしょう.........ふふふ」
ライガーは円卓の端で、白目を向いたまま酒を飲み続けていた。椅子ごと後ろへ傾きながら、それでも杯を口へ運ぶ動きだけは止まらなかった。その横でドヴァンが静かに酒を飲む。弟子たちの粗相をどこか楽しんでいるようだ。
琉架は、隣の卓からその一帯を眺めていた。
(……あの集団、酒乱の密度が高すぎる)
レオナールが立ち上がり、広間を見渡した。
笑い声。杯の音。肉の焦げる匂い。怒声と歓声が混じり合った喧噪。
「いい国だろう」
ぽつりと言った。独り言のようでもあり、傍にいた琉架に向けた言葉のようでもあった。
十二年、離れた場所からこの国のことを考え続けてきたのだ、と琉架は思った。届いたり届かなかったりする手紙を読みながら、ノルマンの海風の中で、この夜のことを想像したのだろうか。
「最後の最後に守れて——本当によかった」
その声には、安堵と、安堵だけでは言い表せない何かが混じっていた。
しばらくして、レオナールの目が、静かに引き締まった。
「だが、もっと強くならねばならない。明日、王宮に来てくれ。改めて話がしたい」
広間の喧噪は続いていた。十二年の渇きを癒すようにゆっくりと楽しい夜が溶けていった。
読んでいただきありがとうございます!まだまだ続きます!おたのしみに




