帳簿の刃と最後の一手
燭台の光が揺れる。机に向かうドルクの背中。羊皮紙にペンを走らせている。
一歩踏み込んだところで、ソレルの足が止まった。
石畳の継ぎ目に沿って、暗い染みが広がっていた。燭台の橙ではっきりとした色は見えないが、ソレルの目はすぐにその異様さを捉えた。
「どうかしたのか、兄上。その床」
ドルクが振り返った。その動作がわずかに、ほんの一拍だけ遅かった。
「ワインだ。先ほどこぼした」
「……そうか」
ソレルはもう一度染みを見た。(ワインにしては、色が暗すぎる)——それだけ思って、視線を切り、今夜の要件を切り出した。
「父上から命が下った」
ソレルは部屋の中央まで歩き、腕を組んだ。
「財務の管理を俺に任せると。戸籍を詳細に整備し、国民一人一人から税を効率よく徴収できる体制を作れということだ。国全体の収支管理も含めてな」
「それで」
「ベルーナには、その使い道を把握させるな、ということも命じられた。あの老いぼれに余計なことを知られても困る」
ドルクは静かに頷いた。「わかった」
「一応兄上にも報告しておこうと思ってな」とソレルは言い、踵を返した。
扉が閉まった。
部屋に残ったドルクは、ゆっくりと机に向き直った。裏返した羊皮紙を、静かにひっくり返す。
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港に、雨が降っていた。
慰めも容赦もない、重たい雨だった。柔らかさはどこにもなく、ただ真っ直ぐに、冷たく、落ちてくる。潮の匂いと混ざり合って、岸壁の石を飽くことなく打ち続けていた。
ゴルバが雨の中を歩いた。
レオナールの出航から二日が経っていた。船の影は疾うにない。水平線の果てに消えて久しい。
岸壁の端に、人影があった。
ゴルバは足を止めた。
レオナルドの濡れそぼった体が、風の中でわずかに揺れている。
近づいて、ゴルバは息を呑んだ。
八つになったばかりの子供が、雨の中にただ立っていた。上着は水を含んで重しのように体に貼りついており、細い肩が幽かに揺れていた。揺れているのか震えているのか、もはや判別もつかないほど、体に力が残っていなかった。
足元が危うかった。両足は揃っているのに、重心がどこにあるのかわからない。指一本触れれば倒れそうなほど、その姿は弱々しかった。
顔は、水平線を向いていた。
兄の船が消えていった方角に。
前髪から雨粒がぽたりと落ちる。頬を伝っているのが雨なのか涙なのか、雨の中では区別できなかった。ただ、何かを見ているようで、何も見ていない。遠い空の切れ端を、ただ眺めていた。
唇が、紫がかっていた。
(二日間。ここに立ち続けていたのか)
ゴルバはしゃがみ込み、少年と目を合わせた。
「食事はとっているか。流石に腹がへっただろう」
レオナルドは答えなかった。
「水は飲んだか」
返事はなかった。ただ、虚ろだった視線がゆっくりとゴルバの方へ動いた。ほんのわずかに。それ以上は動かなかった。
ゴルバはその顔をよく見た。
頬の肉が落ちていた。二日でここまでになるものかと思うほど落ちていた。取り返しのつかない何かがこの子供から少しずつ抜けていくのを、ゴルバは目の当たりにした。
目の下が、薄く窪んでいる。
瞼が重い。意識があるのかどうかさえ、怪しかった。
ゴルバは何も言わなかった。雨が二人の間を打ち続ける。波が岸壁を叩く。それだけが鳴り続ける中に、しばらく二人でいた。
やがてゴルバは立ち上がり、低い声で言った。
「俺と共に来い」
レオナルドは動かなかった。
「この国に残るなら、まずその名を捨てろ。王の子としてではなく、新しい人生を生きろ」
波音が続く。
「これからはティスと名乗れ。俺も新しく商いを始めるつもりだ。今日から俺の部下になれ」
レオナルドは、ただ黙っている。
否定ではなかった。返事をする気力も残っていなかった。
「ついてこい」
ゴルバは歩き出した。
背後で、足音がした。
藁のように細い、よろめくような足音が、ゴルバの後ろをついてくる。一度転びかけて、石畳に膝をつく音がした。ゴルバは振り返らなかった。ただ少しだけ、歩く速度を落とした。
足音が追いついてくる。
雨は止まなかった。
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そして、現代。
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王宮の正門は、朝の光を鈍く弾いていた。
トッドが前を向いたまま立っている。隣でキーンが革袋を背負い直している。ティスが鋭い眼差しで王宮の方を睨みつける。
「行きましょう」
三人は歩き出した。
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謁見の間は、以前と変わらなかった。
赤い絨毯。左右に並ぶ柱。燭台の炎。玉座のエドガー三世。右にドルク、左にソレル。
「また商人ギルドが謁見を求めるとは。何の目的だ」
トッドが一歩前に出た。
「陛下。この国の税の使い道を精査いたしました」
謁見の間が、しんと静まった。
「我々はこれまで、各地の商人の協力のもと、この国の税収の全体像を帳簿の形に起こしてまいりました。その内容を——」
「すでに街に配りました」
トッドの言葉にキーンが続いた。
「本日早朝より、港の商人、市場の住人、通りを行き交う民の方々に、この国の税収とその使い道を記した帳簿の写しを配布いたしました。今頃、街中に知れ渡っているはずです」
廷臣たちがざわりと動いた。
「確認なさってみてください」
トッドは羊皮紙の束を、謁見の間の床に静かに置いた。
廷臣が拾い上げ、玉座のもとへ持っていく。ドルクが肩越しに覗き込む。ソレルが横から手に取り、素早く目を走らせる。
沈黙が続く。長い沈黙だった。
やがてソレルが顔を上げた。頬から血の気が引いていた。ドルクは表情を動かさなかった。王はゆっくりと羊皮紙を卓に置いた。
三人の視線が、一瞬だけ交わった。詳細な数字。正確な照合。ほぼ合っている——三人ともそれを理解していた。
「……これは虚偽の書だ」
王が口を開いた。
「民を扇動し、王政への不信を煽るために作られた偽りの帳簿だ。お前たちは性懲りも無く、またこのような不正を働いたのか。虚偽の情報で民を煽動し、国に災いを撒いた罰として、死刑に処す」
その言葉と同時に、壁際の衛兵が動いた。
扉が、勢いよく開かれた。
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ゴルバが入ってきた。
その後ろに琉架。ライガー。
琉架は謁見の間を一瞬だけ見渡した。
(数字を持ってきた。今度こそ)
「この帳簿は本物だ」
ゴルバの声が広間に響いた。衛兵の壁を割って歩く。誰も止めることができなかった。
「俺たちはこの三ヶ月、この国の税収の全体を数字で洗い出した。各地の商人が集めた支払記録と、ベルーナ殿が管理してきた正規の使途を突き合わせた。結果がこれだ」
ゴルバは衛兵たちを見渡した。
「お前たちも知っているはずだ。自分たちの給与がここ数年でどう変わったかを。前線に届く兵糧がどれほど減ったかを。北の壁で命を削っている戦士たちが、どれほど苦しいかを。この国の税がどこへ消えているのか——帳簿を見れば、全部見える」
謁見の間が静まり返った。
衛兵の一人が、槍を持つ手をわずかに緩めた。別の一人が、隣の者と目を合わせた。
ドルクがソレルを見た。素早く、一瞬だけ。
ソレルが頷いた。ソレルは静かに、しかし足早に、謁見の間の扉へ向かい始めた。
琉架がそれを見た。ティスを見た。
ティスはすでに動いていた。
「行くぞ」
琉架もティスの後を追った。
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-トッド達が王宮へ到着して五分後。
地下牢の廊下に、異音が響いた。
鉄格子が軋んだ。
次の瞬間、ライガーが両手に衝撃波を纏い、格子を引き千切った。歪んだ鉄が床に落ちる。廊下の衛兵が振り返った瞬間にはもう、ライガーが動いていた。
一人目。肩口に体当たり。石壁に叩きつけられて崩れ落ちる。二人目。走ってくるのを待ち、懐に入って後ろへ投げる。背中から石畳に激突して動かなくなった。三人目が叫んだ。ライガーがその肩を掴んで引き戻した。
「騒ぐな。命までは取らん」
衛兵が白目を剥いた。
ライガーは廊下を見回した。全員、気絶している。
「ったく、加減するのも骨が折れる」
「十二年も牢にいたが、腕は鈍ってないようだな」
ゴルバが衛兵の短刀を自身の脇腹に刺しながら言った。
琉架はライガーの強さを目の当たりにし、空いた口が塞がらなかった。
(..........この人、どれだけ強いんだ)
三人はそのまま、階段を上り始めた。
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謁見の間の扉が開き、ガルフが衛兵を率いて入ってきた。
「陛下のご命令だ。魔法部隊を呼べ。全員を死刑にせよ」
続いてクロヴィスが入ってきた。音もなく、表情もなく、壁際に立った。その目だけが場を静かに計算していた。
衛兵が動く。
キーンが大剣を抜き、横薙ぎで二人吹き飛ばす。トッドが魔法を放ち続ける。
しかし数が多かった。補充される数が、倒す数を上回っていた。
ドルクが動いた。
大きな体が、それに似合わない静けさで間合いを詰めてくる。
ゴルバが向き直った瞬間、ドルクの腕が薙いでいた。
重い。異常なほど重い。
ゴルバは腕を交差させて受けた。両足が石畳を滑り、上体が傾いだ。壁際まで押し込まれて、息が詰まる。
「……来い」
ゴルバは短刀を両手に構え直した。
先に踏み込んだのはゴルバだった。左の短刀で牽制し、ドルクが後退した隙に体ごとぶつかる。鈍い衝撃音。揉み合い、押し合い、二人が拮抗する。ゴルバが踏ん張る。ドルクが体重を乗せてくる。
押されていた。じりじりと後退する。床を踏む力が、じわじわと失われていく。
ドルクの右手がゴルバの短刀を弾いた。金属音が響く。左手が胸倉を掴む——そのまま壁へ叩きつけた。
石壁が揺れた。衝撃が背骨の奥まで走る。ゴルバは歯を食いしばり、それでも崩れなかった。
(こいつ——動きがまるで違うぞ)
視線の端でライガーが入ってきた。衛兵三人をなぎ倒し、また次へと向かっている。
それでも、じりじりと——一行は壁際へ追い詰められていった。
謁見の間の扉が、もう一度開いた。
「遅くなりました」
のんびりとした声だった。アーシュリだった。金髪を雑に束ね、制服の上着は肩から半分ずり落ちたまま謁見の間に入ってきた。
ドルクが振り返りもせずに言った。
「遅い。さっさと片をつけろ。とどめを刺せ」
アーシュリは謁見の間を見渡した。壁際に追い詰められた一行。倒れ伏す者たちと、それでも立ち続けるゴルバ、ライガー、トッド、キーン。
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廊下を、ティスと琉架が駆けた。
角を曲がった先にソレルの背中が見えた。
護衛が二人、立ちふさがる。
「止まれ。これ以上は通さない」
ティスは止まらなかった。一人目の間合いに入り、素手で剣を外側から弾いた。手首を返して腕を取り、体ごと後ろへ投げる。廊下の壁に激突した。二人目が横から来た。半歩引いて躱し、相手の勢いを利用して肘を首筋に入れる。くずれ落ちた。
振り返ると、廊下の奥からさらに衛兵が来ていた。三人、四人。
「行け、琉架」
ティスが言った。
「お前だけで大丈夫か」
「行け。お前がいても足手纏いだ」
琉架は一瞬だけティスを見た。
そして廊下を走り出した。
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ティスは構えた。
衛兵四人。廊下の幅は狭い。
先頭が踏み込んでくる。剣を弾いて膝を入れた。倒れた瞬間に次が来た。腕を捕えて床へ押し込む。三人目が突っ込んでくる——その体がティスの背中を壁に叩きつけた。肺の空気が全部抜ける。それでも腕を掴んで投げ飛ばした。四人目が後ろから来ていた。
「手を止めてもらえますか」
廊下の奥から、凛とした声がした。
ミーナだった。背筋を伸ばし、銀の飾り紐を胸につけ、真っ直ぐな目でこちらを見ている。
衛兵の一人がそちらを向いた。「ミーナ殿、この者たちを——」
「その方達の言っていることはおそらく本当です」
ミーナが静かに遮った。「ゴルバさんの言葉を、私は謁見の間の外で聞いていました。帳簿が本物なら、この国の税は本当に民のためには使われていなかったということになる。そして王達の今までの行いを考えると、おそらくそれが真実です」
ミーナは右手を前に向けた。
指先に、氷が生まれた。廊下の石畳を滑るように広がって、衛兵たちの足首を飲み込んでいく。
「っ——動けない!」
「じきに溶けます。さ、そこの方、行ってください。ここは私が引き受けます」
ティスは一拍だけミーナを見た。何も言わず、廊下を駆けた。
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ソレルの部屋の扉は、開いたままだった。
琉架が飛び込んだとき、まず暖炉の炎が目に入った。
次に——炎の中に羊皮紙が沈んでいくのが見えた。
間に合わなかった。
束になった書類が、炎に包まれていた。一枚、また一枚と、端から焦げて崩れていく。
ソレルが暖炉の前に立っていた。背中を向けたまま、ゆっくりと振り返った。部屋に入ってきた琉架を見て——笑った。
「来たか、帳簿屋」
ソレルは両手を広げた。「間に合わなかったな。全部燃やした」
炎が書類を飲み込み続けている。琉架は立ったまま、暖炉と——ソレルを見た。
(戸籍だ。税の収支記録だ。全部証拠になりうるものだった)
「本当はな——燃やしたくなかったんだ」
ソレルが部屋を歩き始めた。勝者の余裕で、ゆっくりと。
「戸籍というのは実によくできたものだ。国民一人一人の情報が整理されていて、どこから税を徴収すれば効率がいいか一目でわかる。なのにこんな形で証拠になるとはな」
琉架は何も言わなかった。
「まあ、この際仕方ない。証拠がなければ、お前たちの話は全て虚言になる。街に配ろうと、虚偽だと言えばそれまでだ」
その時、廊下を駆ける足音が聞こえた。
ティスが飛び込んできた。懐に手を入れたまま、息を整えながら部屋を見渡す。燃え続ける書類。笑うソレル。立つ琉架。
ソレルはティスをまじまじと見た。
「……お前、どこかで見た顔だな」
ティスは無言だった。
「ああ——そうか」
ソレルの目が、ゆっくりと細くなった。
「レオナルドか。先王の次男。随分と大きくなったものだ。生きていたとは思いもよらなかったぞ」
謁見の間の喧噪が、遠く薄く聞こえてくる。
「お前たちは死罪だ。今すぐに形は執行される。衛兵も魔法部隊も全員こちらの味方だ。お前の仲間は——」
ソレルは言葉を区切った。
口元に笑みが浮かんでいる。ティスの顔をしっかりと見て、その表情を確かめるように、言った。
「せっかくだから、教えてやろう」
暖炉の炎が揺れた。
「お前の父、先王エドモン。あの方は——我々が毒殺したのだ」
部屋が静まり返った。
炎の音だけが、続いていた。
ティスの目が変わった。
怒りではなかった。悲しみでも。もっと深く、もっと暗い何かが、その目の奥に静かに灯った。唇を一文字に結んで、ただその場に立っていた。
(その顔が見たかった)
ソレルは満足そうに笑い続けた。
「証拠もない。証人もいない。全ては煙の中に消えた。どれだけ喚こうと、誰も信じはしない。先王の子が生きていたなどという話も、誰が信じる。お前たちは揃って死罪だ——それがこの国の法だ」
笑い声が、部屋に満ちた。
しかし——その声は、すでに届いていた。
ティスの懐のピコを通して。琉架が出発前に繋いでいた複数のピコを経由して。港の男たちのもとへ。路地の商人たちのもとへ。市場の老人たちのもとへ。王宮の石壁の外へ、街へ、港へ——声が届いていた。
ピコ一体では、伝えられる距離は限られている。
しかし複数の個体を繋ぎ合わせれば——遠くにも声を届けられる。
ティスが懐から、小さな生き物を取り出した。丸い黒目が、ソレルを静かに見上げていた。
ソレルの笑みが、少しずつ、凍りついていった。
「な……それは……」
「ピコだ。お前の言葉は全部聞こえている。街の全員に」
ソレルの顔から、血の気が引いていった。ゆっくりと、白くなっていった。
最後までお読みいただきありがとうございます。次話もどうぞお楽しみに!




