消えゆく灯り①
石壁の北側は、常に風が吹いていた。
昼夜問わず、北の山稜から吹き下ろしてくる風は、夏でも肌を刺す。石壁の上に立つ兵士たちは、皆屈強な体でその風に耐え抜いている。
ゴルバは外壁に背をつけ、腕を組んでいた。
「……五ヶ月だ」
「なんだ、いきなり」とライガーがあくびをしながら答える。
「陛下の体調が落ち始めてから、五ヶ月経つ」
「医者は過労だって言ってたんだろ。あの王はそう簡単には死なんだろ」
「俺はその診断を信じていない」
ゴルバは空を見上げた。分厚い雲が北から流れてきている。
少し離れた場所で大剣の手入れをしていたガイウスが、顔を上げた。
「俺も同じ気持ちだ」
低い声だった。布で刃を拭く手は止めない。
「俺が親衛隊に入って、もう十五年になる。陛下が体調を崩されたことは今まで一度もなかった。飯の量が急に落ちたのもおかしい。あれほど大食いだった方だぞ」
「過労で説明のつく話じゃない、と」
「ああ」
ガイウスは大剣を鞘に収め、立ち上がった。
「おかしいんだよ。どこかが。何かが起きてる。俺にはそれしかわからないが」
「だが、あの王宮医師は先代の頃から仕えている方だぞ。先王は幾度となく命を救われたと聞く。誤診なんて事があり得るのか」とライガー。
三人の間に、風が吹き抜けた。
「俺たちは俺たちの役目を果たすだけだ。お前らに医者の代わりができるのか?俺らは拳しか脳がない戦士だ。前線を守る事が使命だ。その使命を全うするのみだ」
ライガーが壁の向こうを見ながら言った。その目は笑っていなかった。
「それもそうだな」
ゴルバが短く言った。
警報が鳴ったのは、その直後だった。
壁の上の見張りが叫ぶ。「北西、森から出ました! 二体、いや三体!」
ガイウスが大剣の柄に手をかけながら、口の端を上げた。
「ちょうどいい。嫌なことは体を動かして忘れろ、が俺の流儀だ」
三人が壁の外に出た瞬間、地響きが足元から伝わってきた。
森の縁から姿を現したのは、黒い体毛に覆われた巨大な獣だった。肩の高さが人間の頭を超え、六本の脚が地面を蹴るたびに雪が舞い上がる。口から漏れる唸り声が、空気を震わせた。
「俺が正面を引きつける。ガイウスは左、ゴルバは右だ」
ライガーが低く言いながら、短剣を抜いた。
「いつも通りだな、お前は」
「うるせえ」
ガイウスが地を蹴った。正面の獣が咆哮を上げ、六本の脚で突進してくる。大剣が弧を描き、前脚二本を真横に薙ぐ。獣が体勢を崩した瞬間、追撃を入れようとしたガイウスの背後から別の一体が飛びかかる。
「右!」
ライガーの声と同時に、ゴルバが動いた。
右の獣に向かって踏み込む。短刀二本を逆手に持ち、一方で牽制し、もう一方を喉元へ叩き込む。甲高い鳴き声が上がった。ライガーが残る一体の後ろに回り、首の付け根に跳び乗る。そのまま体重をかけて地面に押さえ込んだ。
「もがくな。一瞬で楽にしてやる」
ライガーが穏やかに言いながら、拳を叩きつけた。
最後の一体がガイウスの一撃で沈む。地面に転がった三体を見回し、ガイウスが大きく息をついた。
「……三体で二十秒か。まあまあだな」
「十分だろ」とライガーが言いながら、のんびり立ち上がった。
ゴルバは短刀の血を拭いながら、王都の方角を仰ぎ見た。
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王宮の寝室は、いつもより静かだった。
エドモン王はベッドの上に横になっていた。顔色は三ヶ月前と比べると、さらに血色を失っている。
レオナールは部屋の端に立ったまま、じっと父を見ていた。
レオナルドは父の枕元の椅子に座り、毛布の端を両手で握っていた。目が赤かった。
王宮医師が聴診を終え、立ち上がった。
「どうだ」
エドモン王が、しゃがれた声で聞いた。明らかに声に正気が感じられない。
「……経過を診ております。今しばらくお時間をいただければ」
「そうか」
王は目を閉じた。それから、かすかに笑った。
「お前たち、そんな顔をするな。父は少し疲れているだけだ。すぐに良くなる」
レオナルドが「うん」と言った。声が揺れていた。
レオナールは何も言わなかった。
廊下に出ると、医師が足早に歩こうとした。レオナールがその背中に向かって言った。
「先生」
医師が振り返った。
「父の様子を、正直に教えていただけますか」
「……今は経過観察が最善かと存じます。お体を温め、滋養のあるものを」
「それ以外には」
「今の私には、それ以上のことは申し上げられません」
医師は一礼し、廊下の角を曲がって消えた。
レオナルドが兄の袖を引いた。
「良くなるよね」
「……ああ」
レオナールはそう答えたが、廊下の角を見つめたまま、動かなかった。
「なあ、レオナルド。あの先生、最近少し変じゃないか」
「え?」
「言葉数が減った。以前はもっと丁寧に話してくれた。治療の説明も細かくしてくれた。それが最近は、短い言葉で済ませることが多い」
レオナルドは首を傾けた。
「俺は先生と話したことがないから.....」
「.......そうか」
レオナールは目を細め、もう一度廊下の角を見た。
「……俺の気のせいかもしれない」
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王宮の裏手、使われていない渡り廊下があった。
日当たりが悪く、石造りの壁に苔が浮いている。昼でも薄暗い。人が来ることはほとんどない。
クロヴィスはそこで待っていた。
やがて足音が聞こえ、王宮医師の姿をした人物が現れた。老人の顔、老人の歩き方、老人の声。だがクロヴィスは一礼せず、まるで部下に対して問うように静かに口を開いた。
「順調か」
「問題ありません」
医師の声で、しかし老人らしくない口調で答えた。
「体力の低下は予定通り進んでいます。今月中には、おそらく」
「疑われる可能性は」
「ないかと。病状は王宮中に知れ渡っています。過労と老衰が重なったと見られるでしょう。もしくは新種の流行病と。毒が原因と疑う者はいないよう万全の準備をいたします」
「そうか」
クロヴィスはしばらく黙った。渡り廊下の奥から、冷えた風が吹いてくる。
「アルバンは用済みだ」
「わかりました」
「痕跡は残すな。野盗に襲われたと見せかけるよう、殺した後金品を奪え」
「わかっています」
足音が遠ざかり、渡り廊下に静寂が戻った。
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夜が更けていた。
アルバンは布団の上で目を開けたまま、天井を見ていた。眠れない夜にもずいぶん慣れた。眠れないというより、眠ることが怖かった。夢の中でまた、あの声を聞く気がした。「ありがとう、アルバン」と言う、あの声を。
父の部屋から、かすかな寝息が聞こえた。隣の小部屋では娘が眠っている。
扉が鳴ったのは、真夜中を過ぎたころだった。
低く、三回。
アルバンは体を起こした。
「誰だ」
返事はなかった。
風の音だったかと思い、横になろうとした瞬間、もう一度鳴った。今度は強く。
アルバンは立ち上がり、扉に近づいた。
「誰かいるか」
沈黙が流れた。
その沈黙が、背筋を粟立てた。説明できない感覚だった。理由もなく、足が止まる。声も出なくなる。
次の瞬間、扉が、内側に向かって吹き飛んだ。
蝶番が外れ、木材が砕けて床に転がる。舞い上がった埃の向こうに、人影があった。女だった。手には、すでに抜かれた短剣があった。
一瞬だった。
女がアルバンの喉仏を切り裂いた。大量の血が地面に広がる。その後、女は寝室の父親の元へ向かった。
(やめろ――)
血が吹き出す喉でアルバンはなんとか声を絞り出そうとした。声が出るより早く、奥の部屋で短い音がした。
アルバンがなんとか寝室にたどり着いた時、父はすでに布団の上で動かなくなっていた。苦しんだ気配もなかった。
アルバンは膝から崩れ落ちた。床に手をついた。視界がぼやけてくる。
振り返る力もなかった。ただ倒れながら、アルバンは壁際の小部屋の扉を見た。
(逃げろ)
声は出なかった。口が動いただけだった。
(逃げ....ろ)
小さな扉が、内側から開いた。娘が異変に気づき部屋から出てきた。父の姿を見た瞬間、口を押さえた。声を出そうとして、出せなかった。
女が娘の目の前で足を止めた。短剣を持つ手が、動こうとした。
が、止まった。女は娘の顔を凝視し、固まった。
唇を震わせながら、それでも逃げようとせずに父の顔を見ている――その姿が女の過去の断片に重なった。
女はその場に一秒、立ち止まった。
遠くで、声がした。
「なんの音だ」「隣から聞こえたぞ」「起きろ、起きろ」
女が踵を返した。扉の残骸を踏み越え、夜の中に消えた。
娘は呆然と死に絶えた父親の顔を眺めていた。
27話です。次回もお楽しみに。お気に入り登録していただけると励みになります!




