先王 エドモン
王宮の北棟、奥まった一室。
扉を開けると、真っ先に酒の匂いが漂う。机の上に羊皮紙が広がっている。魔法陣と数式の走り書きが隙間なく埋め尽くされていた。その中央に、大きな酒瓶が堂々と置かれている。
椅子に脚を乗せ、瓶を片手に抱えている。名はアーシュリ。王宮魔法部隊隊長。年は二十代半ば、金髪を雑に束ね、制服の上着は肩から半分ずり落ちている。
「隊長。昼間から瓶三本目ですよ。酒臭っっっ。部下に示しがつかないのでもう少し身なりを整えてください」
ミーナが扉の前で腕を組んだ。副長の証である銀の飾り紐をきっちりとつけた、凛々しい立つ姿はアーシュリよりも隊長に適しているように見える。
「どうせやることなんてないしー。魔物は戦士たちが必死に倒してくれてるしー。私たち栄えある魔法部隊は何もやることありませーん」アーシュリが瓶を傾けながら言った。「あと酒飲んでる方が魔法式うまく組めんだよね、あたし」
「羊皮紙に顔を押し付けて寝てましたよね、さっき。涎出てましたよ」
「え、うわ、まじじゃん」
「もう、子供じゃないんだから」ミーナが溜息をついた。「隊長、今日は報告書の提出期限で——」
「やば、完全に忘れてた。後で書く」
「後でじゃなくて今です」
アーシュリが「えー」と言いながら羊皮紙に手を伸ばしかけた、その時。
扉が開いた。
ソレルだった。
上品な衣に金の飾り紐。冷静な顔で部屋に入ってきた。視線が酒瓶を一瞬だけ見て、アーシュリに向いた。
「アーシュリ殿。今日も麗しい。単刀直入に言う。私の妻になっていただきたい」
ミーナが嫌悪感を抱きながらソレルを睨んでいる。
アーシュリはしばらくソレルを見ていた。それから瓶をゆっくりと机に置いた。
「……ソレルさん、何回目?私のタイプじゃないから無理〜」
「私と結婚すれば一生金に困りませんよ、誰より贅沢な生活をさせてあげます」
「興味なーい」
「そう言わずにー」
「つーかさ、ソレルさんのいいとこってどこ?あたしがうんって言う理由どこにあんの。顔?まあ悪くはないけど性格終わってるし。権力?お父様のでしょそれ。何の努力もしてないじゃん。金?民から取り上げたやつじゃん、いらない」
ソレルの顔が曇った。
「下手に出ていれば言葉が過ぎますぞ」
「過ぎてない。正確なんだけど」アーシュリは立ち上がり、ソレルを真っ直ぐ見た。「あたしはね、強い人しか認めないの。王宮に篭って道楽に興じているあなたには全く惹かれません」
「……」
「というわけで、お帰りください。出口はあちらです〜」
ソレルの口元が一度だけ動いた。それから静かに踵を返し、扉を閉めた。足音が廊下を遠ざかった。
ミーナが長い息を吐いた。
「……王子に向かってよくそこまで言えますね、隊長」
「事実しか言ってないし」アーシュリは瓶を再び手に取った。「あいつと結婚するくらいなら一生独りの方がマシだわ」
「今日は随分機嫌が悪そうですね。あの人がこの国を去った日だからですか?」
「........別に」
アーシュリは酒を煽ったが、瓶の中の酒はすでに空になっていた。
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港では、朝から人が集まっていた。
トッドが革袋を背負い、ティスがその隣に立っている。キーンが荷物を確認しながら、何度も数を数え直していた。
「キーン、もう三回確認してる」
「もう一回だけ」
「行くぞ」ティスが言った。
マルセが前に出た。
「無事に戻ってきてください」
「戻ります」トッドが言った。「絶対に。それと、みなさんの協力が作戦には不可欠です。頼みましたよ」
オルドが隣で黙ってうなずいていた。荷運びの男たち、屋台の老人、ロンドも、口を開かずにそこに立っていた。
ティスが一度だけ振り返り、港を見た。波の音がしていた。
三人は王宮の方向へ歩き出した。
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地下牢は静かだった。
昼の光が格子の隙間から薄く差し込んでいる。
「十二年か」ゴルバが言った。独り言のように、低く。
「長かったな」ライガーが答えた。
「先王はよく前線に来ていたな。王だというのに王宮にいるところを見たことがない」
「そうだったな。一番守られるべき人が魔物の群に突進していってな。仕えた当初は頭のおかしな王だと思ったものだ」
二人はしばらく黙っていた。
「あの頃は、国の未来に希望を持てていたな」ゴルバが言った。
「ああ」
記憶の中の空が、忘れられない景色が、二人の記憶からまざまざと蘇った。
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石壁の上に兵士たちが並んでいた。眼下の平野に魔物の群れが蠢いている。じりじりと壁へ向かって迫ってくる。
「右翼、押されてるぞ!」
誰かが叫んだ。その声と同時に、一人の若い兵士が足を踏み外した。前のめりに崩れ、落ちる、その寸前。
首根っこを掴んで引き戻した手があった。
ライガーだった。
「しっかり立て」
「す、すみません——」
「礼は後にしろ。今日を生き抜いた後でな」
そのまま身を翻し、壁の上にいる魔物に向かっていく。右手に力を込め、地面へ叩き込んだ。衝撃波が地を這うように広がり、周囲にいた魔物が三体まとめて吹き飛んだ。
その少し先で、ゴルバが動いていた。
腰の短刀を両手で引き抜き、翼を持つ魔物へ真っ直ぐに走り込んだ。一本目で右翼の付け根を深く切り込む。魔物がのけぞった瞬間、二本目を逆手に持ち替えて左翼の腱へ差し込んだ。肉と腱が裂ける感触が手に伝わった。翼が落ちた。地に伏した魔物の首を、返す刃で裂いた。
小柄な影が、石壁の縁に立っていた。年は十二ほど。金髪を雑に結んだ少女だった。
両手の前に炎が生まれた。小さな体に似合わない、濃く太い火の塊だった。眼下の魔物の群れを見下ろし、躊躇なく投げた。炎が弧を描いて落ち、魔物がまとめて燃え上がった。
「アーシュリ、前に出すぎ」
後ろから声がした。こちらは十六ほどの少女で、白銀の短い髪をしていた。右手を前に向けると、指先から氷の針が束になって飛んだ。壁をよじ登ろうとしていた魔物の脚が凍りつき、動けなくなった。
「別にいいじゃん、倒してるんだし。ミーナが臆病すぎなの」アーシュリが炎を次々と投げながら言った。
「体形を崩さないでって言ってるの」
「崩してないし」
「あんたが抜けたところ誰かが補わなきゃいけないでしょ」
その少し後ろで、長い髭をたくわえた男が静かに立っていた。四十半ば。名をドヴァンと言う。王宮魔法部隊の前隊長。
両手をゆっくりと広げた。
空気が光った。
指の間から、刃の形をした光の束が生まれた。十、二十と連なって、光の刃が宙に浮かんだ。ドヴァンが静かに目を細めた瞬間、光の刃が一斉に飛んだ。
弧を描きながら群れの中へ降り注いだ。直線ではなく、障害物を縫うように曲がりながら、それぞれが確実に急所を貫いた。魔物が次々と倒れた。
「二人とも、後ろへ」
ドヴァンが静かに言った。
その時だった。
地響きがした。
壁の向こうから、巨大な影が現れた。鱗は黒く、翼を広げると壁の幅を超えた。四本の脚で石壁の縁を掴み、黄色い目が冷たく平野を見渡した。口から低い唸りが漏れた。
黒炎竜。
その巨体を前に、兵士たちが後退した。アーシュリが炎を構えた。ミーナが氷を張ろうと手を向けた。
「待て」
ドヴァンが二人の前に出た。光の刃を次々と飛ばす。しかし——巨体の分厚い鱗の前では、刃が通らなかった。
「ゴルバ、ライガー」
野太い、張り詰めた空気を裂くほどの声がした。
兵士と同じ鎧に、左手に盾、右手に剣。だが、その雰囲気は他の兵士と一線を画していた。
「首を上げさせろ。一瞬でいい」
「王は下がってください」ライガーが言った。「あれは——」
「後ろに兵士がいる。俺が下がれるか」
ゴルバとライガーは一瞬だけ目を合わせた。
「……やるぞ」
ゴルバが先に動いた。
黒炎竜の横腹へ向かって走り、石壁を足場に跳び上がった。翼の付け根めがけて短刀を両手で突き立て、体重をかけて引き裂いた。革のように厚い皮が裂け、黒炎竜が首をこちらへ向けた。
次の瞬間、反対側からライガーが跳んだ。
右拳に全ての力を集めた。体の中心から腕へ、腕から拳の先へ、衝撃波が凝縮した。黒炎竜の顎に、真下から叩き込んだ。
鈍い轟音がした。頭が大きく跳ね上がった。首が伸びた。黒い喉が、空を向いた。
ドヴァンが動いた。
両手を大きく広げ、数えられないほどの光の刃が宙に並んだ。それを黒炎竜の首の根元へ向けた。刃が束になって飛んだ。鱗を貫き、首に幾筋もの傷が走った。黒炎竜が苦しげに身を震わせた。
「アーシュリ、今」
ミーナが叫んだ。
アーシュリは両手に炎を凝縮させた。引き絞るように力を込めた。生まれた炎は、これまでとは比べ物にならない密度をしていた。黒炎竜の傷口へ向けて叩き込んだ。
炎が傷口を抉っていく。
王が地を蹴った。
盾を捨て、剣を両手で握った。剣身に雷が走った。縦に、横に、螺旋を描くように光が巻き上がった。跳躍の頂点で振り上げ、全体重を乗せて振り下ろした。
「雷光斬っ」
閃光が走った。
黒炎竜の首が、地面に轟音と共に落ちた。
しばらく静寂があり、兵士たちの声が上がった。
夜になって、皆が円を囲み食事をしていた。
王は用意された机と椅子を使わず、地べたに座った。兵士たちの輪に混ざり、同じ鍋から飯を取った。アーシュリが隣にどかりと座ったのを、ミーナが慌てて引き離そうとした。
「いい、ここで食え」王が言った。
「王様さっきめっちゃかっこよかった」
「はっはっはっ。そうだろう。さっきの炎、見たぞ。その歳であれだけの火力を出せる奴はそうそういない」
アーシュリが黙って下を向いた。頬が赤くなっている。
ミーナが向かいに座ってお辞儀をした。「ご一緒させていただきます」
王はうなずき、ドヴァンの方を見た。
「お前の弟子たちか」
「はい。非常に才能があるものたちです。礼儀があまりなっておらず失礼しました。後ほどキツく言っておきます」ドヴァンが髭を撫でながら答えた。
「ひっ」アーシュリが血相を変えて縮こまる。
少し離れた場所で、若い兵士が王を眺めていた。恐れ多く近づけないものが多かった。偉大な王が、戦場の最前線で、兵士たちと同じ飯を地べたで食事している光景は、何度見ても慣れなかった。
「うまいな」
王が飯をかきこみながら言った。
「陛下が来てくださったので、炊き役が張り切ったみたいです」
ゴルバが豪快に酒を飲みながら言った。
「毎日来ていいか」
「それは……前線の兵が落ち着かないかと」
「ははっ、冗談だ」
王が笑った。周りの兵士たちも笑った。炎が揺れて、顔を照らしていた。
ライガーはその横で飯を食いながら、王を横目で見ていた。
国の頂点に立つ男が、兵士と同じ鍋から飯をよそっている。ライガーはこの王に仕える誇らしさを噛みしめながら酒を飲んだ。
23話です。過去編まだまだ続きます。次回もお楽しみに。ブックマークしてもらえると励みになります!




