兄弟の策略①
石壁に背をあずけたまま、琉架は天井を見ていた。
ゴルバからの通信はここ数日、好調を告げるものが続いていた。マルセが集めた各地の税記録、ベルーナが内側から揃えている正規の使途。数字は着実に揃いつつある。
なのに、どこかが引っかかっていた。
(帳簿が完成して、それを市場に広める。……それだけで、本当に王権が揺らぐか)
計算上は筋が通っている。不正の証拠を数字で示せば、民の不満が爆発する。民の信頼が地に落ちた権力は崩壊するに決まっている。理屈ではそうなる。
だが。
(あの王が、それだけで終わるか)
王は帳簿を「呪術書」と断じて琉架を投獄した。理屈が通じない相手だ。証拠を突きつけても、揉み消すだけで終わる可能性がある。揉み消されたら、次の手がない。
「また難しい顔してる」
ライガーが向こうの房から言った。寝転んだまま、目は天井に向いている。
「……考えごとです」
「俺にはわかる。今日の顔は不安の顔だ」
琉架は少し黙ってから言った。
「帳簿を広めるだけでは、足りないと思ってるんです」
「ほう」
「証拠を見せても、王は揉み消す。揉み消されたら終わりだ。……もっと決定的な何かが必要な気がしていて」
ライガーは何も言わなかった。天井を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
夕刻、懐のピコが震えた。
両手でそっと包む。房が橙に光り、すぐに青白く変わった。
「聞こえます、ゴルバさん」
『順調だ。ベルーナ殿が正規の使途をほぼ揃えてくれた。マルセの方も、あと二、三日で各地の税収が出揃う。今月中には帳簿の形になる』
「わかりました。……一つ確認していいですか」
『どうした』
「帳簿を市場に広めた後、王側が揉み消しに動いた場合の次の手は考えていますか」
しばらく間があった。
『……お前も同じことを考えていたか』
「はい」
『俺も気になっていた。証拠を出すだけでは、奴らを追い詰めるには足りないかもしれない。だがそこから先の手が、まだ見えていない』
「少し考えさせてください。何か思いついたら話します」
『ああ。無理はするな』
ピコの光が消えた。
琉架は膝の上でピコをそっと撫でながら、頭の中で数字を並べ直した。
廊下に足音がした。
夕食の時間だ。衛兵が無言で盆を差し入れる。スープと黒パン。いつもと同じ献立。
その盆が格子の前に置かれた瞬間、ライガーが言った。
「待て」
低い声だった。
琉架は手を止めた。ライガーがゆっくりと身を起こし、格子の前まで来た。鼻をわずかにひくつかせた。
「……そのスープ、絶対に飲むな」
「え?」
ライガーは衛兵に琉架に配られたスープを手元に運ばせた。
「やっぱりな」
静かに言った。
その頃、房の隅をうろついていた小さなネズミが一匹、壁際に出てきた。ライガーは器の端から少量のスープを床に垂らした。
ネズミが近寄り、舐めた。
三十秒も経たないうちに、ネズミの体が小刻みに震え始めた。そのまま横に倒れ、足が痙攣した。
琉架は黙っていた。
「毒だ」ライガーが言った。「即死しないところを見ると、量は少ない。ただ、苦しめたいという魂胆だろう」
「……」
「こんな真似をするのは、あの弟しかいない」
ライガーの声が低くなった。格子に手をかけ、立ち上がった。
「おい」
衛兵に向かって言った。
「おい、衛兵。正直に答えろ。このスープに何が入っている」
「な、なにも——」
「嘘をつくな。全部話せ」
「本当に何も知りません!厨房から受け取ったものをそのまま——」
ライガーが格子を掴んだ。金属がきしんだ。衛兵が一歩退いた。
「厨房で誰が作った。誰から受け取った。今日、誰かが厨房に来たか」
「わ、わかりません、私は受け取っただけで——」
ライガーは衛兵をしばらく見ていた。それから静かに格子を離れた。
「……本当に何も知らないのか」
「はい」
「下がれ」
衛兵は足早に去った。廊下に静寂が戻った。
琉架はネズミを見ていた。痙攣は収まっていたが、まだ起き上がれないようだ。
「……ライガーさん」
「俺の分を分けてやる。念の為、自分のものには手をつけるな」
それだけ言って、ライガーは藁の上に戻った。
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同じ頃。
王宮の上階、ドルクの私室に、一人の男が入ってきた。腰を低くし、視線を床に落としている。厨房に出入りする給仕の男だった。
「どうだ」
ソレルが椅子に座ったまま言った。
「……申し訳ありません。前の房の囚人に気づかれたようで、手をつけられませんでした」
「はあ?」
ソレルの声が上がった。
「気づかれたとはどういうことだ。あんな量でわかるはずがないだろう」
「匂いで……察したようで」
「匂い?」
ソレルが立ち上がった。
「役立たずめ」
一歩踏み出し、給仕の男の胸倉を掴んだ。男が壁に叩きつけられた。
「こんな簡単なことも失敗するのか。金を払ったのだからしっかり働け」
「も、申し訳——」
「次にしくじったらクビだ。二度とこの王宮に近づけない。お前の家族もどうなるかわかっているだろうな」
給仕の男が床に崩れた。震えながら顔を上げた。
「も、もう一度だけチャンスを。必ず——」
「うるさい。また用ができたら呼ぶ。その時はすぐに来い」
男は深く頭を下げ、部屋を出た。
入れ替わるように、扉が静かに開いた。
入ってきたのは別の男だった。年は三十前後。目立たない色合いの衣をまとい、音もなく歩く。表情がない。感情を持っているのかすら判然としない顔をしていた。
「クロヴィスか」
ソレルがわずかに身構えるように言った。
「ドルク様からです」
クロヴィスは静かに言った。抑揚のない、事実だけを運ぶ口調だった。
「商人ギルドの動きを探れと。特に、ゴルバという男の身辺を中心に」
「……兄上が直接そう言ったのか」
「はい」
ソレルは少し黙ってから、鼻を鳴らした。
「さすが兄上だ。クロヴィス、頼んだぞ。なんでもいい。どんな些細なことでも王権で牢にぶち込んでやる
」
クロヴィスは一礼し、扉を出た。
廊下を抜け、階段を降り、王宮の正門をくぐった。石畳の上を、足音を殺して歩く。迷いのない足取りで、港へ続く道を進んでいった。
18話です。ライガーは一体何者なのか。そして王宮の影が、港へと伸び始めました。次回もお楽しみに。




