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作戦の進捗と不穏な影

石壁に指で線を引いた。


 三十本目だ。最初の七本は一週間ごとに引いていたが、途中から面倒になって一日一本にした。一ヶ月は経っている。


「数えてるのか」


 壁の向こうからライガーの声がした。


「大体ですけど。三十日くらいだと思います」


「俺が来た頃は一日二食だったな。今は三食だ。俺が喚き散らしてから量と回数が増えた」


「どんだけ恐れられているんですか...」


 琉架は石壁に背をあずけた。体の芯から冷えてくる。冬が近くなっていることを感じた。


 外では今頃、初冬の風が吹いているのだろう。港の船は揺れているだろうか。ゴルバたちはどうしているだろうか。


 (三十日か)


 思ったより長い。思ったより、慣れてしまっている。それが少し怖かった。


 その日の午後、廊下に聞き慣れない足音がした。


 重く、どこか踏みしめるような歩き方だった。誇示するような、意図的な音のたて方。普段の衛兵とは違う。


 格子の前に人影が止まった。


 ドルクだった。


 胸に金の刺繍が入った上着、腰に宝石のついた細剣。わざわざ見物に来た、とでも言うような軽薄な笑みを浮かべている。


「ほう。まだ生きておったか」


 琉架は顔を上げて一度だけ見た。それから視線を膝の上に戻した。


「ご丁寧にどうも」


「愛想のない奴だな。お前の帳簿とやら、父上はずいぶんご立腹だったぞ。一生ここで腐れ、とおっしゃっていた。どうだ、少しは懲りたか」


「懲りるような悪いことをした覚えがないので」


「まだ口が回るか。まあいい、このまま貴様は牢でのたれ死ね」


「おっほん、話の途中ですまん」


 ライガーの声が割り込んだ。寝転んだまま、天井を見ながら言っている。


「そんなことのために、わざわざ地下まで降りてきたのか」


「なんだ、貴様」


「王子殿下がわざわざ牢の囚人を嘲笑いに来るのか、と聞いた。それで自尊心が保てるなら随分と安いんだな」


 ドルクの顔が赤くなった。


「黙れ。何年も牢獄にいる亡霊が」


 ライガーはゆっくりと身を起こした。


「王の器というのはな、殿下。民のことを思い、国を駆け回りながら培っていくものなんだよ。貴様ら兄弟、そしてお前の親は常に王宮にいて道楽に興じている。そんな奴らを誰が王として認める」


「貴様……!」


「事実だ。怒るなら否定してみろ」


 ドルクの口が開いて、閉じた。また開いた。言葉を探しているのか、ただ怒りで頭に血が上っているのか。


「……いい気になるなよ。先王だって結局は国を守れず死んだだろうが。あんな男を崇めているから、こうして牢に——」


 ライガーが立ち上がった。


 そのまま、横の石壁に拳を叩き込んだ。


 鈍い音がした。


 石が、抉れていた。拳の当たった箇所だけえぐれ、砂利と粉が床にぱらぱらと落ちた。


 ドルクが固まった。


 ライガーは拳を壁からゆっくりと離し、格子に近づいた。手は出していない。ただ立っているだけだ。しかし、その目の色が別のものになっていた。さっきまでの飄々とした色が、跡形もなかった。


「……それ以上言ったら」


 声が低い。静かで、それだけに重かった。


「どうなるか、わかってるだろうな」


 ドルクが一歩下がった。


 意識したわけでもないだろう。体が勝手に動いたように見えた。


「……覚えておけ」


 それだけ言って、ドルクは早足で廊下を去った。足音が遠ざかり、重い扉が閉まった。


 ライガーは格子の前からゆっくりと離れ、何事もなかったように藁の上に寝転んだ。


 琉架はしばらく黙っていた。抉れた石壁を見てから、壁の向こうに目をやった。


「……先王のこと、相当慕っていたんですね」


「知らん」


 ライガーは何も言わなかった。天井を見たまま、目を閉じた。


 夕刻、懐のピコが震えた。


 琉架は両手でそっと包む。房が橙に光り、すぐに青白く変わった。


「聞こえます。ゴルバさん」


『聞こえるか。今日も謁見は断られた』


「そうですか」


『まあ、最初からそのつもりだ。謁見の申請は口実だ。王宮の近くまで来るための』


「わかってました。準備の方は進んでいますか」


『ベルーナ卿が動いてくれている。税の正規の使途——本来どこに何枚使われるべきかの記録を、長年の財務顧問としての立場で少しずつ手元に集めてくれている』


「戸籍の方は」


『マルセの伝手でギルドの商人連中から各地の税の支払記録を集めている。少しずつだが、国全体の税収の全容が見えてきた。お前が言っていた差分——正規の使途と実際の税収の間の額だ。これが出れば、不正の証拠になる』


「出そうですか」


『出る。しかも相当な額だ』


 琉架は石壁に頭を預けながら、数字を頭の中で組み立てた。それを帳簿の形に整理して、市場で一気に広める。そうすれば王権は失墜する。


「いつ頃形になりそうですか」


『今月中には。ベルーナ卿が内側から、こちらが外から押さえれば、数字は必ず出る』


「ありがとうございます、ゴルバさん。ベルーナさんにもよろしくお伝えください」


『ああ。……今日、何かあったか。声が少し違う』


「次男のドルクが来ました。嘲笑いに」


『……それで』


「前の牢にいる人が収めてくれました」


 壁の向こうで、ライガーが低く笑った。


『気をつけろ。あの兄弟は卑屈で陰鬱な分、やることが読みにくい』


 ピコの光が消えた。


----------------------------


 同じ頃、王宮の上階でドルクはソレルの部屋の扉を叩いていた。


「兄上、聞いてくれ。あの牢の連中が——」


「落ち着け、ドルク」ソレルが静かに言った。「お前声は二日酔いに響く」


「あの囚人と、前の房の古い男に嘲笑われた。俺を。父上の息子を」


 ソレルは窓の外を見ながら話を聞いていた。表情は動かない。ただ指先で椅子の肘掛けを軽くたたいている。


「そうか」


「許せない。思い知らせてやりたい」


「殺すのは面倒だ」ソレルが静かに言った。「騒ぎになる。商人ギルドがうるさくなる。父上の手間を増やすな。殺すなら計画的が必要だ。まだその段階じゃない」


「でも——」


「少し、苦しめばいい」


 ソレルが初めてドルクに目を向けた。


「食事に入れろ。量を調整すれば誰も気づかない。翌日、少し体が動かなくなる程度でいい。それで十分だろう。痛い思いをすれば大人しくなる」


「……バレないか」


「丁寧にやれば。お前がやるんじゃない、厨房に頼む人間を一人用意すればいい。あの時のように」


 ドルクの顔に、じわりと笑みが戻った。


「さすが兄上、そうだな」


「ただし」ソレルが静かに続けた。「まだ死なせるなよ。量は決して間違えるな」


 兄弟は目を見合わせた。


 廊下の燭台が、風もないのに揺れた。

17話です。ライガー、ちょっと怖かったですね。あの穏やかな飄々さの裏に何があるのか、そろそろ見えてきそうです。

そして地下牢に、嵐の予感。次回もお楽しみに。

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