サンタ・マリア号、出航
契約書への署名は、翌朝に行われた。
ゴルバの屋敷の広間。テーブルの上に、琉架が清書した羊皮紙が置かれていた。
ゴルバ、マルセ、オルドの三人が揃っている。
マルセが羊皮紙を一行ずつ確認した。条文を指でなぞるように読んでいく。
「……内容に変更はないな。」
マルセがインクを取り上げようとしたとき、オルドが静かに口を開いた。
「わしは署名しない。それだけ伝えておきたかった」
誰も驚かなかった。
琉架はすでに知っていた。オルドの帳簿を整理した時点で、現預金が六十枚しかないことは把握していた。数字が出した答えは明白だった。
ゴルバもマルセも、昨日の会合で琉架から財務概要を聞いていた。
「わかっている」ゴルバが短く言ってオルドの肩に手を置いた。
オルドは続けた。
「帳簿を作ってもらうまで、自分の店がどんな状態か、正直わかっていなかった。数字を並べてみてはっきりした。今のわしには無理だ」
「今回は見送りで構いません」琉架は言った。「帳簿をつけながら純資産を積み上げていけば、次の機会に繋がります」
「そうだな」オルドが頷いた。「今回はそこから始めるよ」
数字が現実を示し、当人がそれを受け入れた。帳簿とはそういうものだ、と琉架は思った。
オルドが席を立ち、広間を出ていった。
マルセとゴルバが順番に署名した。
二人分の指の跡が並んだ羊皮紙を見て、琉架は静かに息をついた。
この世界に来て初めての商業契約書が、正式に成立した。
船の売買は午後に行われた。
港の船着場に、一隻の中古船が係留されていた。船体の塗装は剥げかけていたが、帆柱はしっかりしている。
「周りは多少使い込んだ跡があるが、骨格は問題ない。長年船を見てきたが、立派な船だ。わしが太鼓判を押す。もし壊れたらわしがすぐ修理してやろう」
船大工のヴィンチが得意げに言った。
「名前は何という船ですか」
琉架が売り主の老船商に聞いた。
老人は少し考えてから答えた。
「サンタ・マリアだ。もともと南方の港から来た船でな。前の持ち主がそう名付けた。南方の言葉で、聖なる海、みたいな意味だったと思うが」
「サンタ・マリア」
ゴルバが繰り返した。「……響きがいいな」
マルセも静かに頷いた。
「変える必要はないな」
「では、サンタ・マリア号のままにします」
「よし、これでまた南方に行けるようになるんすね!初公開は絶対俺を乗せてくださいよ」
トッドが屈託のない笑顔で言った。
「お前は南方の美女に会いたいだけだろうが。毎度沖につくなり女ばかり見やがって」
ゴルバがトッドの頭を小突いた。
「バレてましたか....」
トッドが頭を掻いた。
こうしてサンタ・マリア号が、リベルタ王国の港で新たな主を迎えた。
「一つ大事なことを説明させてください」
帰り道、港の倉庫の片隅を借りて、琉架はゴルバとマルセに向かい合った。
「今日の船の購入、帳簿にはどう記録すると思いますか」
ゴルバが首を傾げた。「七百枚の支出じゃないのか」
「違います。これは固定資産の取得です」
「固定資産……」
「資産には二種類あります」
琉架は羊皮紙に書いた。
【流動資産】
現預金・売掛金・商品など
【固定資産】
船・建物・土地など
→ 長期間にわたって使い続けるもの。
「商品は仕入れたら売って、すぐお金に戻ります。でも船は違う。十年、二十年と使い続け、商売をする上で欠かせないものになる。だからこの七百枚は『消えた』のではなく、形が変わっただけです。現預金七百枚が、船という固定資産七百枚に変わった」
マルセが少し目を細めた。「……支出ではなく、資産の変換か」
「そうです。帳簿ではこう記録します」
借方:船舶 700枚
貸方:現預金 400枚
現預金 300枚
「左に船舶という資産が生まれて、右に現預金が減った。どちらも同じ七百枚。帳簿上はお金が減ったのではなく、船という資産に形を変えたと捉えるんです」
「形を変えた?なんだそりゃ。これまた難しいことを......」ゴルバが苦笑した。
「ただし」琉架は続けた。「船は使うほど傷んでいきます。価値が毎年少しずつ下がっていく。その下がった分を毎年費用として記録することを、減価償却と言います」
「また新しい言葉だ」
「簡単に言います。七百枚の船が十年使えるとすると、毎年七十枚ずつ価値が下がる計算です。その七十枚を毎年の経費として記録しておけば、十年後に船が使えなくなっても、次の船を買う準備が帳簿の上でできている状態になります」
マルセが静かに言った。「今回の支出を将来十年間にかけて均等に按分する、ということか」
「そうです。それが固定資産管理の本質です。利益が百枚出ても、減価償却七十枚を引けば実質の利益は三十枚です。これを把握しないと、儲かっているように見えて実は船が老朽化していくだけ、という状況になりかねない」
ゴルバが腕を組んだ。「……なるほどな」
珍しく真剣な目をしていた。
夕暮れの港に、サンタ・マリア号が静かに浮かんでいた。
帳簿の上では、今日から七百枚の固定資産が生まれた。
この船が、どれだけの利益を生み出すか。それを見届けるのが、琉架の仕事だ。
波の音を聞きながら、琉架はそう思った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
今回はついにサンタ・マリア号が誕生しました。固定資産と減価償却の概念、少し難しかったでしょうか。でも「七百枚が消えたのではなく、形が変わった」というのが会計の面白いところで、ここを理解すると企業の決算書の見方が変わります。現実でも使える知識なので、ぜひ使ってみてください笑




