第9話 召喚
2026年8月12日です。
巨大な魔法陣の中心で、黒い霧が膨らんでいた。
倉庫の天井近くまで伸びた霧は、ゆっくりと渦を巻きながら、まるで生き物のように蠢いている。その奥には、まだ姿の見えない何かがいる。だが、確実にこちら側へ近づいていた。
「召喚が進んでる!」
凛の声が響く。
「魔法陣を維持している連中を止める!」
「はい!」
悠真は頷いた。
周囲には黒い服の魔法使いたちが散らばり、それぞれが魔法陣の一部へ魔力を流し続けている。
悠真は風属性の魔力を広げ、周囲の流れを探った。
以前は、ただ魔法の気配を感じる程度だった。それが今では、魔力がどこから流れ、どこへ集まり、どの術式へ向かっているのかを、ぼんやりと捉えられるようになっていた。
「まずは右!」
悠真は右側へ手を向ける。
「土!」
魔力を流すと、地面が盛り上がり、黒服の男の足を絡め取った。
「なっ!」
男が体勢を崩す。
その隙を逃さず、凛が炎を放った。男は慌てて後ろへ退き、その瞬間、魔法陣へ流れていた魔力が途切れる。
「一人止まった!」
「その調子!」
凛の声を聞きながら、悠真は次の敵へ視線を移した。
左側にいる男が、こちらへ手を向けている。
「風!」
鋭い風の刃が飛んできた。
「っ……!」
悠真は咄嗟に身体を伏せる。風の刃は頭上を通り過ぎ、背後の壁を削った。
「相手も魔法使いよ!」
凛が炎を放つ。
しかし、男は土の壁を作って炎を防いだ。
「悠真、左の術式!」
「分かりました!」
悠真は走った。
男が再び風を放つ。
「土!」
足元から土を立ち上げ、風を受け止める。完全には防げなかったが、勢いを殺すには十分だった。
悠真はそのまま魔法陣の端へ駆け込み、複雑に描かれた線の中をいくつもの魔力が流れているのを確認した。
その中から、特に強く魔力が集中している一本の線を見つけた。
「ここだ……」
悠真はそこへ自分の魔力を流し込む。
術式が明滅し、線の一部が揺らいだ。
「崩せる!」
さらに魔力を送り込む。
だが、その直後、頭の奥に鈍い痛みが走った。
「くっ……」
視界がわずかに揺れる。
魔力を使いすぎており、まだ四属性を習得し始めたばかりの悠真にとって連続使用は大きな負担だったが、それでも手を止めかけた瞬間、背後から敵が迫ってきた。
「悠真!」
凛の炎が割り込み、男を吹き飛ばした。
凛が悠真の前へ立つ。
「無茶しすぎ」
「すみません……」
「でも、よくやったわ」
凛は悠真が崩しかけた術式へ目を向けた。
「そこは?」
「魔力の流れを弱めました」
「十分よ。ここからは私がやる。あなたは周囲を見て」
「はい」
凛が前へ出る。
そこから戦況は一気に動き始めた。
炎、風、土、水。
さまざまな属性の魔法が倉庫の中を飛び交い、床に描かれた魔法陣の上で激しくぶつかり合う。
悠真は少し離れた場所から風属性の魔力を広げ、周囲の動きを探り続けた。
「右!」
凛が振り向き、炎を放つ。
続けて悠真が反対側へ意識を向ける。
「左にも一人!」
凛が素早く身体の向きを変える。
炎が走り、敵が後退した。
「まだいます!」
悠真はさらに探る。
一人。
二人。
三人。
魔力の反応はまだ残っていた。悠真はそれを風属性で探りながら敵の位置を伝え、その情報に合わせて凛が即座に攻撃を繰り出していく。自分が直接戦うのではなく、凛が動きやすいように支える役割だと理解し、それでも十分に戦えていると感じた――そう思った、そのときだった。
「……何だ?」
悠真は眉を寄せた。
周囲の魔力とは明らかに異なる、強い流れを感じた。
次の瞬間――。
黒い霧が大きく揺れた。
「……!」
空気が震える。
霧の中から、巨大な腕が伸びてきた。
人間の腕とは比べものにならない大きさだった。
ただ伸びてきただけなのに、倉庫の空気が一気に重くなる。
「召喚が進んでる!」
凛が叫ぶ。
悠真は魔法陣へ目を向けた。
先ほど自分が弱めた術式は、すでに別の流れによって補われている。
「一部を止めても意味がない……!」
「どういうこと?」
「魔力が別の術式へ流れてる!」
悠真は魔法陣を見ながら答える。
「一つを止めても、別の場所がその分を補うようになってます!」
凛の表情が険しくなった。
「厄介な構造ね」
「中心を止めるしかない!」
「……そうね」
凛もすぐに魔法陣の中心へ視線を向けた。
「核になっている術式を壊す」
悠真は中心を見る。
黒い霧の下で、周囲から集まった魔力が一点へ集中している。
「……あそこです」
悠真が指を差した。
「中心の少し外側。あそこに魔力が集まってます」
「見えたわ」
しかし、中心までの道にはまだ敵が残っている。
そのうえ、黒い霧はさらに膨らみ始めていた。
時間がない。
「先輩」
「何?」
「俺が道を作ります」
「無理よ」
凛は即答した。
「今のあなたが、あの人数を相手にするのは危険すぎる」
「分かってます」
「だったら――」
「それでも、やります」
悠真は強く言い切った。
怖い。
魔力も足りない。
経験もない。
それでも、ここまで来た。
自分の意思で、この場所へ来た。
だからこそ、今ここで何もせずに凛へ任せるだけにはしたくなかった。
「四属性、全部使います」
凛はしばらく悠真を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
「先輩は中心へ」
「あなたは?」
「道を作ります」
凛は一瞬だけ黙った。
「無理だと思ったら、すぐ下がって」
「分かってます」
悠真は深く息を吸った。
まず風。
周囲へ魔力を広げ、敵の位置を探る。
「右に二人!」
凛が炎を放つ。
「左に一人!」
悠真は土属性へ切り替え、地面を盛り上げて敵の足を止めた。
「前!」
今度は水属性。
水を生み出し、敵の視界を遮る。
その隙に凛の炎が走った。
敵が後退する。
「今です!」
悠真の声に合わせ、凛が中心へ向かって走る。
悠真もその後を追った。
だが、魔法陣の中心へ近づいた瞬間――。
黒い霧から巨大な禍々しい腕が振り下ろされた。
「っ!」
悠真は反射的に手を前へ出す。
「土!」
二人の前に巨大な土壁がせり上がった。
直後、巨大な禍々しい腕が土壁へ叩きつけられる。
轟音が倉庫全体を揺らした。
土壁に大きな亀裂が走る。
「持たない……!」
「十分!」
凛が土壁の横を抜ける。
右手に炎が集まっていく。
「悠真、中心!」
「そこです!」
悠真は魔法陣を見る。
黒い霧の下。
周囲とは明らかに違う魔力の流れが一点へ集まっている。
「あそこ!」
悠真が叫ぶ。
「中心の術式です!」
凛が一気に踏み込んだ。
炎をまとった手を中心へ向ける。
「――っ!」
炎が放たれた。
轟音とともに魔法陣の中心が炎に包まれる。
これで止まる。
悠真はそう思った。
だが――。
「……止まらない」
炎が消えていく。
それでも黒い霧は消えず、むしろさらに濃度を増していった。
魔法陣の線が赤く明滅し、周囲から再び大量の魔力が流れ込んでいく。
「そんな……」
悠真は魔法陣を見つめた。
中心を攻撃しても止まらない。
なら、まだ何かがある。
「先輩!」
「分かってる!」
凛も魔法陣を睨んでいた。
だが、召喚は止まらない。
黒い霧は倉庫の天井を覆い、周囲の壁まで黒く染めていく。
そして、その奥に何かの輪郭が浮かび始めた。
「……何、あれ」
悠真の声は震えたが、凛は答えなかった。
ただ炎を構えたまま、その存在を睨みつけている。
霧の奥から、巨大な禍々しい腕がもう一度伸びた。
続いて、もう一つ。
それと同時に、黒い霧の中へ人間とは明らかに異なる巨大な輪郭が浮かび上がっていく。
「来る……!」
凛が炎を構える。
悠真も魔力を集中させた。
しかし、何をすればいいのか分からない。
今までの敵とは違う。
魔力の強さも、そこから感じる圧力も、まるで別物だった。
黒い霧が大きく揺れる。
そして――。
霧の奥で、巨大な目がゆっくりと開いた。
「……!」
悠真は息を呑んだ。
その目がまっすぐこちらを捉えただけで、見られているだけとは思えないほど身体の奥まで凍りつくような圧力が走った。それは魔法陣から感じる魔力とは明らかに異なり、もっと異質で、もっと重いものだった。
悠真は無意識に一歩後ずさった。
「先輩……」
「動かないで」
凛の声にも、わずかな緊張が混じっている。
「まだ完全には出てきていない」
「でも……」
「分かってる」
凛は炎を強く握りしめた。
黒い霧の中から、巨大な腕がさらに伸びる。
魔法陣はまだ動いている。
召喚は終わっていない。
それでも、もう後戻りできないところまで進んでいた。
悠真は目の前の存在から目を離せなかった。
以前の召喚とは違う。
今回は、本当に何かがこちら側へ来ようとしている。
そして、その存在が完全に姿を現したとき、何が起こるのか。
悠真には想像することすらできなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
黒い霧の奥からこちらを見つめるその目は、人間のものではない。
――悪魔が、こちら側へ召喚されようとしていた。




