第10話 始まり
黒い霧の中で巨大な目が開き、悠真は息を呑んだ。その目と視線が合った。
まだ完全な姿ではない。黒い霧の向こうに巨大な影が浮かび、腕らしきものと頭部の輪郭、そしてこちらを見つめる目だけが見えている。
それだけで、今まで感じたことのないほど強い魔力が伝わってきた。
「悠真! 魔法陣を見て!」
凛の声に我に返り、悠真は足元へ視線を落とす。
巨大な魔法陣には無数の線が走り、そのすべてが中心へ向かって魔力を送り込んでいた。
「まだ召喚が続いてる!」
「分かってる!」
凛が炎を放つ。
黒い霧の一部が吹き飛ぶが、すぐに別の霧が集まり始める。
「中心を壊さないと止まらない!」
悠真は魔法陣を見つめた。
前回のように外側の術式を消すだけでは足りない。今回の魔法陣は複雑で、一部を崩しても別の術式へ魔力が流れる仕組みになっている。
だが、風属性の魔力を意識すると、その流れが少しずつ見えてきた。
「……外側から直接中心に流れてるんじゃない」
「どういうこと?」
「いくつかの術式を通って、最後に中心へ集まってます」
悠真は魔法陣を指で追った。
「だったら、途中を止めれば中心に流れる魔力を減らせる」
「やれる?」
「やります」
悠真は魔法陣の周囲を走った。
まず右側の術式へ土属性の魔力を流す。床から土が盛り上がり、術式の一部を覆った。
魔法陣の光が弱まる。
「一つ!」
次に左側へ移動し、風属性の魔力で術式を流れる魔力を乱す。
「二つ!」
さらに水属性で別の術式を崩し、最後に火属性の魔力をぶつける。
「これで四つ!」
四か所の術式が揺らぎ、魔法陣全体が大きく明滅した。
「今よ!」
凛が中心へ走り出す。
しかし、その前に黒服の魔法使いが立ちはだかった。
「邪魔をするな!」
男が炎を放つ。
悠真も咄嗟に炎をぶつけるが、魔力の差で押し込まれる。
「くっ……!」
正面からでは勝てないと判断した悠真は炎を止め、風へ切り替えた。
「風!」
男の足元を風で崩す。
体勢が乱れた隙に土を盛り上げ、足を拘束する。
「今です!」
凛の炎が男を吹き飛ばした。
「ありがとう!」
凛はそのまま中心へ向かい、悠真も後を追った。
中心には、無数の術式が重なっている。その中でも一か所だけ、異常なほど魔力が集中していた。
「あそこです!」
悠真が指を差す。
「中心の右側。あそこが核になってる!」
「分かった!」
凛が炎を集める。
その瞬間、黒い霧が大きく膨らみ、巨大な禍々しい腕が二人へ向かって振り下ろされた。
「危ない!」
悠真は反射的に土壁を作った。
轟音とともに腕が土壁へ叩きつけられ、壁に大きな亀裂が走る。
「持たない……!」
「十分よ!」
凛が土壁の横を抜ける。
悠真も残った魔力を絞り出し、風で中心へ向かう魔力の流れを乱した。
「今です!」
凛の炎が中心へ放たれる。
悠真も水と土、そして残った火の魔力を術式へ叩き込んだ。
「崩れろ!」
魔法陣の中心に亀裂が走った。
一本、また一本。
光っていた線が次々と消えていく。
黒い霧が激しく渦巻き、その奥に浮かんでいた巨大な目が揺れた。
「グ……」
低い声のような音が倉庫を震わせる。
「まだ!」
凛が叫ぶ。
「完全に崩れるまで続けて!」
「はい!」
悠真は残った魔力をすべて術式へ送り込む。
風、水、土、火。
四つの属性が魔法陣の上で交錯し、中心へ流れていた魔力が次第に途切れていく。
黒い霧が薄くなる。
巨大な目がゆっくりと閉じた。
黒い禍々しい腕も霧の中へ戻っていく。
「これで――!」
凛が最後の炎を放つ。
中心の術式が完全に砕けた。
――轟音。
倉庫全体が揺れ、魔法陣の光が一気に消える。
黒い霧も跡形もなく消えていった。
静寂が戻る。
「……終わった?」
悠真が呟く。
凛は魔法陣を確認し、静かに頷いた。
「ええ。召喚は失敗したわ」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の身体から力が抜けた。
「……疲れた」
「当然よ。魔力を使いすぎ」
「先輩も使ってましたよね」
「私は慣れてるから」
「ずるい……」
凛が小さく笑う。
だが、すぐに表情を戻した。
「それと、あなた」
「……はい」
「来るなって言ったでしょう」
悠真は目を逸らした。
「すみません」
「本当に危険だったのよ」
「分かっています」
「……分かってないでしょうね」
悠真は黙った。
確かに、一歩間違えればどうなっていたか分からない。
それでも、自分で決めてここまで来たことだけは後悔していなかった。
「でも」
凛が少しだけ声を柔らかくする。
「自分で決めて来たことは分かったわ」
「……はい」
「それに、魔法陣の構造を見抜いて、私の動きを助けた。前よりずっと魔法を使えるようになったわね」
悠真は少し驚いた。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、まだ新人よ」
「分かってます」
「なら、これからも教える」
「お願いします」
悠真は立ち上がろうとした。
しかし、足に力が入らない。
「……あれ?」
「魔力切れね」
「やっぱり……」
「今日はもう休みなさい」
壊れた魔法陣を見つめながら、自分の未熟さを痛感する。凛のようには戦えず、知らないことも多い。それでも初めて、自分の魔法で誰かを助けられたという事実だけは確かに残っていた。
「俺、もっと魔法を覚えたいです」
凛が悠真を見る。
「そう」
「まだ全然足りないから」
「ええ。だから、これから覚えていけばいいわ」
「……はい」
悠真は笑った。
「ただし」
凛が付け加える。
「次からは、無茶をする前に相談すること」
「……努力します」
「そこは『分かりました』でしょう」
「分かりました」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
倉庫を出ると、夜の街にはいつもと変わらない明かりが灯っていた。
誰も、この夜に何が起きたのか知らない。
悪魔召喚が阻止されたことも、魔法使いたちが戦っていたことも。
そして、一人の大学生がその世界へ本格的に足を踏み入れたことも。
悠真は夜空を見上げる。
普通の大学生だった自分の生活は、もう以前と同じではない。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
まだ知らないことは多い。
魔力も、術式も、四属性も、そして彼方の会についても。
これから何が起こるのかも分からない。
それでも、自分で選んだ道なら進んでみたい。
魔法を学び、知らなかった世界を知っていく。
その先に何が待っているのか――。
それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ。
悠真の魔法使いとしての生活は、ここから始まる。
――おわり




