第7話 再び、彼方の会
魔法の練習を始めてから、凛の様子は少し変わった。
これまでなら、訓練が終われば悠真に簡単な注意をして、そのまま帰ることが多かった。ところがここ数日は、訓練後もスマートフォンを確認したり、誰かへ連絡を入れたりする時間が増えている。
悠真が尋ねても、凛は「少し調べているだけ」と答えるだけだった。
そして、その理由が明らかになったのは、ある日の訓練が終わった夕方だった。
「白石先輩、最近ずっと何か調べてますよね」
いつもの公園で術式を片付けながら、悠真が尋ねる。
凛は少し考えてから、素直に答えた。
「ええ。彼方の会について調べているの」
「やっぱり、まだ追ってるんですね」
「前回の召喚を止めたからといって、彼らが活動をやめたとは思えないもの」
凛は鞄から一枚の地図を取り出した。
広げられた地図には、いくつかの場所に小さな印がつけられている。
「これは?」
「魔力の痕跡が確認された場所よ」
凛はその中の一か所を指した。
「ここは、市街地から少し離れた場所にある古い倉庫。今はほとんど使われていないはずなんだけど、ここ数週間、何度か魔力の痕跡が確認されているの」
「それって、彼方の会の可能性が?」
「まだ確定ではないわ。ただ、この周辺でも似た痕跡が見つかっている。それに、使われていないはずの倉庫へ人が出入りしているという情報もある」
「……それは怪しいですね」
「だから、一度確認してくるつもり」
「俺も行きます」
悠真が言うと、凛はすぐに顔を上げた。
「駄目よ」
「……即答ですか」
「即答するくらいには駄目」
あまりにも迷いのない返事に、悠真は苦笑した。
「でも、俺も魔法を使えるようになってきましたし、何か役に立てるかもしれません」
「魔法が使えることと、戦えることは別でしょう」
「それは……」
悠真は言葉に詰まった。
確かに、その通りだった。
悠真は魔力を感じられるようになり、簡単な術式なら一人でも発動できる。火、水、土、風の四属性すべてに適性があることも分かっている。
だが、それだけだ。
実戦で魔法を使いこなせるほどの技術はなく、誰かと戦った経験もほとんどない。
「前回のことを忘れたわけじゃないでしょう?」
凛の言葉に、悠真は地下室での出来事を思い出した。
床に描かれた巨大な魔法陣。
黒い霧。
魔法を使って戦う人間たち。
そして、その中で自分ができたのは、凛に言われた通り魔法陣を消すことだけだった。
「……忘れてません」
「なら分かるでしょう。今度の相手が同じとは限らない。規模が大きければ、あなたを守りながら戦う余裕がなくなる可能性もあるわ」
「……分かりました」
悠真は素直に頷いた。
悔しさはあった。
四属性すべてに適性があると知ったとき、自分には特別な力があるのではないかと、少しだけ期待していた。
しかし、適性があることと強いことは別だった。
魔法を覚えれば覚えるほど、凛との実力差を思い知らされる。
「それに、あなたには普通の生活もあるでしょう」
「大学とか、アルバイトですか?」
「ええ。魔法の世界に関わるからって、それまで全部捨てる必要はないわ」
悠真は小さく笑った。
魔法を知ったからといって、家賃も食費もなくなるわけではない。大学へ通う必要もあるし、清掃のアルバイトを休めば生活にも影響する。
魔法使いになったからといって、これまでの生活が突然消えるわけではないのだ。
「だから、今回は私に任せて」
凛は地図を鞄へしまった。
「あなたはいつも通り大学へ行って、時間があるときに魔法の練習をして。それでいいわ」
「分かりました」
「それと、連絡は取れるようにしておいて。私から連絡する可能性もあるから」
「……分かりました」
その日は、それ以上彼方の会について話すことはなかった。
凛と別れた悠真は大学へ戻り、そのまま清掃のアルバイトへ向かった。
以前なら、ただ疲れたと思いながら作業を終えるだけだったが、今では掃除の最中にも魔法のことを考えるようになっていた。
床を拭きながら、体の内側にある魔力の流れを意識するようになる。最初はそれだけでも難しかったが、少しずつ感覚は掴めるようになっていた。
今では簡単な術式なら発動できるようになったが、四属性すべてを自由に扱えるわけではない。
火は魔力を送りすぎると炎が大きくなり、水は少し流れが乱れるだけで形を失う。土は形を維持するのが難しく、風は狙った方向へ正確に流すことが難しい。
四属性は使えるようになったが、まだ使いこなせてはいない。それが今の悠真だった。
アルバイトを終えて帰宅したのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。
簡単な夕食を済ませ、大学の課題を片付ける。
いつもと変わらない夜。
それでも、机に向かうと彼方の会のことが頭から離れなかった。
地下室で見た魔法陣。
黒い霧。
そして、一度失敗しただけで諦めるとは思えない彼らの存在。
「……本当に、またやるのかな」
悠真は小さく呟き、スマートフォンを確認したが、凛からの連絡はまだなかった。
「……大丈夫かな」
その直後、スマートフォンが震えた。
画面には凛からのメッセージが表示されている。
『これから現場を確認する』
短い文章だった。
悠真はすぐに返信する。
『気をつけてください』
しばらくして既読がついた。
『ありがとう』
返ってきたのは、それだけだった。
悠真はスマートフォンを机の上へ置き、凛が一人で現場へ向かうことを思った。
自分はここで待つべきだと分かっているはずだった。
けれど、その考えが浮かぶほど胸の奥に引っかかりが残る。
以前の自分は魔法の存在すら知らず、何が起きているのかも分からないまま地下室に迷い込んだだけだった。だが今は違う。
魔力の存在や魔法の仕組みは理解している。彼方の会が危険な存在であることも分かっているし、自分にも魔法が使える。
もちろん凛ほど強くはなく、戦闘経験もない。それでも――本当に何もできないと決めつけていいのだろうか。
「……俺にも、何かできるのかな」
悠真は机の端のチョークを手に取り、何度も練習した火の術式を紙に描くと、ゆっくりと魔力を流し込んだ。術式が淡く光り、その中心に小さな炎が灯る。
以前ならそれだけで十分に嬉しかったが、今ではこの程度なら安定して発動できるようになっていた。炎を見つめながら、悠真は自分はまだ何も知らないのだと考えた。
魔法についても、彼方の会についても、凛が知っていることのほんの一部しか知らないため、今すぐ現場へ向かうべきか、それとも凛の言葉通り待つべきか判断できなかった。
ただ一つ、以前と違うのは、魔法を知らなかった頃ならこんなことを考えることすらなかったということだ。
誰かが危険な場所へ向かっていても、自分には関係のないことだと思っていただろう。だが今は違う。凛が一人で危険な場所へ向かっていることを知っている。その事実を知ったまま、何もせずに待つことが本当に正しいのか、悠真には分からなかった。
それでも、机の上で揺れる小さな炎を見つめているうちに、一つの考えが浮かんだ。
自分が凛と同じように戦う必要はない。
自分には、自分にできることがあるかもしれない。
「……何を考えてるんだ、俺」
苦笑しながら、術式へ送っていた魔力を止める。
炎が静かに消え、部屋に暗さが戻った。
凛には来るなと言われた。
だから、今すぐ勝手に現場へ向かうつもりはない。
それでも、自分の中に生まれた疑問まで消すことはできなかった。
もし、自分にもできることがあるのなら、そして魔法を知った自分だからこそ果たせる役割があるのなら、そのとき自分はどうするのか。
答えはまだ出ていない。
悠真はもう一度チョークを手に取った。
今度は火ではなく、風の術式を紙の上へ描き始める。
凛が戻ってくるまでに、少しでもできることを増やしておきたい。
そんな思いが、いつの間にか悠真の中に生まれていた。
そしてその頃。
街の外れにある古い倉庫では、悠真の知らないところで、別の動きが始まっていた。




