第3話 魔法使い
地下室を出た悠真は、凛に案内されるまま建物の近くにある小さな公園まで歩いていた。時刻はすでに深夜を過ぎており、周囲に人の姿はほとんどない。街灯が遊歩道を照らしているものの、先ほどまでいた地下室での出来事を思い出すと、いつもの夜とは違う場所にいるような感覚があった。
「ここなら、少し話ができるわ」
凛はベンチに腰を下ろすと、向かいに立つ悠真へ視線を向けた。
「……本当に、話してもらえるんですか?」
「ええ。あなたはもう魔法を見てしまったし、彼方の会にも顔を知られている可能性があるから、何も知らないまま帰すのは危険よ」
悠真は黙って頷いた。
今日まで魔法など存在しないと思っていたのに、今では目の前で炎や風が生まれ、魔法陣から黒い霧まで現れるところを見てしまった。もう、何も知らなかった頃へ戻ることはできない。
「改めて自己紹介するわね。白石凛、二十三歳。魔法使いよ」
「二十三歳……」
「何か変?」
「いや、俺とそんなに歳が変わらないんだなと思って」
「あなたは?」
「俺は悠真です。大学生で、今は一人暮らしをしています」
悠真は少し迷ったあと、自分の生活について話した。大学の学費や生活費があるため清掃のアルバイトをしており、今日もその仕事中だったこと、地下から音が聞こえたため誰かいるのかと思って確認しに行ったことを説明する。
「今考えると、確認しに行かないほうがよかったですよね」
「そうね。普通なら、知らない人間の声がする地下室へ一人で入っていくのはおすすめしないわ」
「……ですよね」
肩を落とす悠真を見て、凛は少しだけ口元を緩めた。
「でも、あなたが来たことで召喚を止められたのも事実よ」
「俺はモップで魔法陣を消しただけですけど」
「それでも十分な働きだったわ」
そう言われると、悠真は少しだけ胸を張った。
「それで……魔法について聞いてもいいですか?」
「もちろん」
凛は一度だけ周囲を確認してから、落ち着いた声で話し始めた。
「まず、魔法使いについてだけど、特別な人間だけが魔力を持っているわけじゃないの」
「え?」
「魔力そのものは、すべての人間が持っているわ。あなたにもあるし、私にもある。この街を歩いている人たちにも、同じように存在している」
悠真は目を瞬かせた。
「じゃあ、どうして誰も魔法を使わないんですか?」
「魔力を持っていることと、それを魔法として扱えることは別だからよ」
凛は自分の手を見つめながら続けた。
「魔力を感じ取って、意識的に動かし、必要な形へ操作するには訓練が必要なの。多くの人は、自分の中に魔力があることすら知らないまま生活しているわ」
「なるほど……」
悠真は自分の手のひらを見つめたが、そこに何か特別なものがあるようには見えなかった。
「じゃあ、魔法使いっていうのは?」
「魔力を意識して扱い、魔法として使える人間のことよ」
凛が右手を軽く掲げると、指先に小さな赤い光が集まり始める。光は次第に形を変え、やがて小さな炎となって揺らめいた。
「魔法には基本となる四つの属性があるわ。火、水、土、そして風よ」
凛が手を閉じると炎が消え、今度は空中に透明な水の球が浮かび上がった。街灯の光を反射しながら揺れる水が消えると、今度は地面の一部がわずかに盛り上がり、続いて柔らかな風が悠真の頬を撫でる。
「この四つが、魔法の基本になる属性よ」
「それぞれ、何ができるんですか?」
「性質が違うの。火は破壊、水は治癒、土は防御、風は探知を得意としているわ」
悠真は地下室での戦いを思い出した。
「だから、あの男が使っていた風は……」
「探知だけじゃないわ。属性には基本となる性質があるけれど、それだけしかできないわけではないの」
「じゃあ、火でも防御とかできるんですか?」
「工夫すれば可能よ。ただ、得意不得意はあるわね」
凛が説明を続ける。
「私の場合は火属性との相性がいいから、基本的に火を中心に使っているわ」
「適性があるってことですか?」
「そう。人によって、扱いやすい属性には違いがあるの」
悠真は頷きながら話を聞いていたが、そこで新たな疑問が浮かんだ。
「魔法って、どうやって発動してるんですか?」
「そこが重要ね」
凛は地面に落ちていた小さな枝を拾うと、土の上に簡単な円を描き、その内側へいくつかの線を加え始めた。
「魔法は、特別な力が突然現れて発動するものじゃないわ。自分の中にある魔力を動かして、目的に合わせた形へ変える。それが魔法の基本よ」
「魔力を使って操作する……」
「ええ。そして術式を使う場合は、その術式へ魔力を送り込んで発動させるの」
凛は描き終えた円を指差した。
「術式は、魔力をどう動かすかを決めるための仕組みだと思えばいいわ」
「じゃあ、さっきの魔法陣も?」
「同じよ。魔法陣は、物理的に描かれた術式の媒介になる」
悠真は地下室の光景を思い出した。
「だから、俺がモップで消したら召喚が止まったんですね」
「そういうこと。魔法陣は、描かれた線や記号そのものが術式を構成しているから、一部が壊れれば術式が正常に働かなくなる場合があるの」
「全部の魔法陣が簡単に壊せるわけじゃないんですか?」
「ええ。術式によって構造も違うし、魔力で補強されているものもあるから、今回のように簡単に消せるとは限らないわ」
悠真は納得したように頷いた。
「じゃあ、彼方の会がやっていた悪魔召喚も?」
「魔法よ」
凛は迷いなく答えた。
「何か特別な力を使っているわけじゃない。複雑な術式を組み合わせて、大規模な魔法陣を使っているだけよ」
「それでも、悪魔を召喚できるんですよね?」
「ええ。だから危険なの」
凛の表情が少しだけ険しくなる。
「彼方の会は、悪魔をこちら側へ呼び込むために魔法の知識を使っている。私はそれを阻止するために動いているの」
「どうして、そこまでして止めるんですか?」
「悪魔がこちら側へ来れば、普通の人間にも被害が出るからよ」
凛の声に迷いはなかった。
「魔法使いだけの問題じゃない。魔法を知らない人たちまで巻き込まれる可能性がある」
悠真は何も言えなかった。
自分も、つい数時間前までは魔法の存在を知らなかった。もし凛が来なければ、あの地下室で何が起きていたのか分からない。
「それと、もう一つ覚えておいてほしいことがあるわ」
「何ですか?」
「魔法使いは、あなたが思っているほど特別な存在じゃないの」
凛は街灯の向こうへ視線を向けた。
「魔法使いの多くは普通の社会で生活している。学生もいるし、会社員もいる。店を経営している人だっているわ」
「普通に生活してるんですか?」
「ええ。魔法を使えるからといって、毎日戦っているわけじゃないもの」
「じゃあ、白石さんも普段は普通に?」
「そうね。私も普段は普通に生活しているわ」
「なんか、意外ですね。もっと魔法使い専用の場所で暮らしてるのかと思ってました」
「そんな場所があったら、私も一度見てみたいわね」
凛が珍しく笑い、悠真も思わず笑ってしまう。そのおかげで、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
しかし、凛はすぐに真剣な表情へ戻った。
「それから、魔法使いにはもう一つ特徴があるの」
「特徴?」
「魔法使い同士は、普通の人間より互いに遭遇しやすくなる性質があるわ」
悠真は首を傾げた。
「遭遇しやすい?」
「そう。ただし、誰かに強制的に引き寄せられるわけじゃない。偶然会う可能性が、少し高くなる程度よ」
「じゃあ、俺が白石さんと会ったのも……」
「その可能性はあるわね」
凛はそう言って悠真を見る。
「あなたがあの地下室へ行ったことも、その性質が一因だったのかもしれない」
「……偶然じゃなかったかもしれないってことですか?」
「そう。でも、そこまでは断言できないわ」
悠真は今日一日の出来事を思い返した。普段ならあの音を無視していたかもしれない。それなのに今日は確認しに行き、凛と出会って魔法を目撃し、彼方の会による召喚まで知ってしまった。
すべてが偶然だったのか、それとも別の理由があったのか、今の悠真には判断できない。
「……俺、これからどうすればいいんですか?」
悠真が尋ねると、凛は少し黙った。
「正直に言えば、あなたを何も知らない状態へ戻すことはできないわ。それに、彼方の会に関わった以上、今までと同じように生活していても、また魔法に関わる可能性がある」
凛は悠真をまっすぐ見つめた。
「だから、最低限の知識は身につけてもらう必要があると思っているわ」
「魔法について?」
「ええ」
悠真はしばらく考えた。怖くないと言えば嘘になる。今日見たものは、今までの常識から大きく外れていた。それでも、もう知らなかった頃には戻れない。
「……教えてください」
悠真が答えると、凛は少しだけ目を細めた。
「本当にいいの?」
「はい。知らないままなのは、もっと怖い気がします」
凛はしばらく悠真を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「分かったわ」
凛は右手を悠真へ向けた。
「それなら、まず自分の魔力を感じるところから始めましょう」
「俺にも、できるんですか?」
「できるわ」
「……魔法も?」
凛は一瞬だけ黙り、それから悠真を見つめてはっきりと告げた。
「あなたも、魔法を使えるわ」
悠真は言葉を失った。
夜の静かな公園を街灯の明かりが照らしている。自分の中に、今まで一度も意識したことのない力がある。その事実を、悠真はまだ実感できずにいた。




