第2話 召喚阻止
魔法陣の中心から立ち上る黒い霧は、時間が経つほど勢いを増していた。床に描かれた白い線は淡い光を放ち、その線へ魔力が流れ込むたびに、地下室には重苦しい空気が広がっていく。
「……何なんだよ、これ」
悠真は壁際に立ったまま、目の前で起きている現象を理解しようとしていた。炎を操る女性、床に描かれた巨大な魔法陣、そこから立ち上る黒い霧。そのどれもが、これまでの人生で一度も見たことのないものだった。
「下がっていて」
女性は魔法陣へ視線を向けたまま、悠真との距離を確認するように一歩前へ出る。
「でも、あれは……」
「いいから、そこにいて」
落ち着いた声だったが、それ以上近づくなという意思は十分に伝わってきた。女性が右手を伸ばすと、周囲に赤い光が集まり、やがて燃え盛る炎へと変わって手のひらを包み込む。
「……やっぱり、夢じゃないんだな」
悠真が呟いた直後、黒服の男が女性へ手を掲げた。
「邪魔をするなら、こちらも容赦はしない!」
男の周囲で空気が渦を巻き、鋭い風の刃が女性へ向かって飛んでいく。女性は右手の炎を突き出した。
「燃えろ」
炎が一気に広がり、風の刃を正面から受け止める。激しい衝撃と熱風が地下室を駆け抜け、悠真は反射的に腕で顔を覆った。
「うわっ!」
その隙に女性は魔法陣の周囲にいた別の男へ炎を放ち、男を床へ転がした。
「今のうちに召喚を続けろ!」
別の男が叫んで魔法陣へ魔力を流し込むと、白い線が一段と強く輝き、黒い霧も大きく膨らんだ。
「まずい……」
「何がまずいんですか?」
女性は飛んできた攻撃を避けながら答える。
「召喚が進んでいる」
「召喚って、あの黒い霧のことですか?」
「違うわ。あれは召喚そのものじゃない。召喚が進んでいることで生じている現象よ」
「じゃあ、何を召喚してるんですか?」
女性は一瞬だけ悠真を見る。
「悪魔よ」
「……悪魔?」
冗談には聞こえなかった。
「本当に、そんなものが……?」
「今は説明している時間がないわ」
女性は再び炎を放ち、黒服の男たちを押し返していく。それでも男たちは魔法陣から離れず、必死に術式を維持していた。
「召喚を止めるには、どうすればいいんですか?」
「魔法陣を壊すの」
「魔法陣を?」
「そう。魔法陣は術式を成立させるための媒介だから、重要な部分を壊せば術式そのものが崩れる」
悠真は床へ目を向けた。巨大な円の内側には複雑な線と記号が組み込まれ、一つの大きな術式を形作っている。
「だったら、あれを壊せばいいんですね?」
「簡単にはいかないけどね。魔法陣の周囲を敵が守っているから、私はそいつらを抑える」
「じゃあ、俺は?」
「あなたは何もしなくていい。一般人が魔法陣に近づいたら危険よ」
そう言われても、悠真は魔法陣から目を離せなかった。炎や風が飛び交う場所へ入るのが危険なのは分かっている。それでも、このまま壁際で見ているだけというのも嫌だった。
そのとき、足元に倒れた清掃用具が目に入った。悠真はその中からモップを拾い上げ、魔法陣を見つめる。
床に描かれた白い線は、チョークで描いたように見える。それなら、消せるかもしれない。
「……すみません」
「何?」
「この魔法陣って、普通に消せるんですか?」
女性は一瞬だけ悠真を見る。
「たぶんね」
「たぶん?」
「私も試したことがないから」
「あの、それ大丈夫なんですか?」
「今は試すしかないでしょう」
女性は迫ってきた男を炎で牽制しながら続ける。
「でも、あなたが無理をする必要はないわ」
「……俺にも何かできるかもしれません」
自分でも、なぜそう言ったのかは分からなかった。ただ、目の前で危険なことが起きているのに何もしないままなのは嫌だった。
女性は少し考えたあと、魔法陣の外側を指差した。
「……分かった。やるなら、一番外側の線を消して」
「外側ですか?」
「魔法陣全体を理解しているわけじゃないけど、そこを崩せば術式に影響する可能性がある」
「分かりました」
「危なくなったら、すぐに離れて」
「はい!」
悠真はモップを握り直し、二人が戦っている隙を見て魔法陣へ走り出した。
「おい! あの一般人を止めろ!」
男の一人が気づいて追ってくる。
「来る!」
悠真が足を止めかけた瞬間、男の前を炎が横切った。
「させない。今のうちに行って!」
「ありがとうございます!」
悠真は魔法陣の端へ駆け寄った。近くで見ると線は思っていた以上に複雑だったが、一番外側には一本の太い線が円を描いている。
「これか……!」
モップを床へ押しつけ、力いっぱい線を擦る。
白い線が崩れ、床の一部が露出した。
「……消えた!」
直後、魔法陣の光が大きく揺らぎ、黒い霧も形を崩して中心へ不規則に揺れ始める。
「効いてる!」
女性の声が響いた。
「やめろ!」
男が悠真へ手を伸ばすと、その周囲に風が集まり、鋭い風の刃が生まれる。
「危ない!」
女性の叫びに反応して悠真は身を屈めた。風の刃が頭上を通り過ぎ、背後の壁へ激突する。
「ひっ……!」
足が震えた。今の攻撃が少し低ければ、自分に当たっていた。
「悠真! まだ動ける?」
「……はい!」
「なら続けて!」
「分かりました!」
悠真は震える手でモップを握り直し、再び魔法陣へ向き直る。怖かった。それでも、今は止まるわけにはいかなかった。
外側の線を消していくたびに魔法陣の光が弱まり、黒い霧も少しずつ形を失っていく。
「召喚が崩れている!」
「魔力をもっと流せ!」
男たちが魔法陣へ魔力を送り込むと、消したはずの線が再び淡く輝き始めた。
「嘘だろ……!」
「魔力を流せば、術式を維持できるのね!」
女性が叫ぶ。
「でも、まだ間に合う!」
悠真は歯を食いしばり、残った線をさらに擦った。白い線が崩れるたびに魔法陣の光が不安定になり、黒い霧も大きく揺らいでいく。
「やめろ!」
男が悠真へ向かおうとしたが、その前に女性が立ちはだかった。
「あなたの相手は私よ」
女性の周囲に強い炎が集まり、男は後退する。
悠真はその隙に、魔法陣の外側を繋いでいた最後の線へモップを押しつけた。
「これで……最後!」
力を込めて擦る。
――バチッ!
空気が弾けるような音とともに魔法陣全体が激しく明滅し、中央の黒い霧が一気に縮み始めた。まるで、こちら側へ出ようとしていた何かが無理やり引き戻されているようだった。
「召喚が……!」
誰かが叫んだ。
魔法陣が一度だけ強く輝いた直後、すべての光が消える。黒い霧も跡形もなく消え、地下室から重苦しい空気まで失われていた。
「……終わった?」
悠真が呟くと、女性は魔法陣を確認してから小さく息を吐いた。
「召喚は失敗したわ」
「本当に……?」
「ええ。止められた」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の肩から力が抜けた。自分がしたのは、言われた通り魔法陣を消しただけだった。それでも、あの恐ろしい現象を自分の手で止めたという事実は残っている。
「くそ!撤退する!」
男たちは倒れている仲間を助け起こしながら、地下室の出口へ向かって走り始めた。
「追わないんですか?」
悠真が尋ねると、女性は首を横に振った。
「今は召喚を止めることが最優先だったから」
「でも、あの人たちは……」
「彼方の会は、また召喚を試みるでしょうね」
女性は消された魔法陣へ視線を向ける。
「今回の失敗だけで、諦めるとは思えない」
「彼方の会って……何なんですか?」
女性はしばらく黙ったあと、悠真へ向き直った。
「それを説明する必要があるわね。あなたは何も知らないでしょう?」
「……はい」
「だったら、まずは私のことから話すわ」
女性は姿勢を正して名乗った。
「白石凛。二十三歳よ」
「白石……さん」
「凛でいいわ」
凛はわずかに表情を和らげる。
「そして私は、魔法使い」
その言葉を聞いて、悠真は黙り込んだ。
魔法使い。
それは、ついさっきまで物語の中にしか存在しないと思っていた言葉だった。しかし今は、その本人が目の前にいる。
悠真は床に残った魔法陣の跡へ視線を向けた。そこには、自分が今まで知らなかった世界の痕跡が残されている。
そして悠真は、この夜を境に、自分の日常がもう以前と同じではいられないことを感じていた。




