第1話 遭遇
大学の講義を終えた悠真は、駅前のコンビニで買ったおにぎりを二つだけ食べると、そのままアルバイト先へ向かった。一人暮らしを始めてから、講義のあとに働く生活もすっかり当たり前になっている。家賃や食費、光熱費に大学までの交通費まで考えれば、仕送りだけで生活するのは難しく、少しでも自分で稼いでおきたかった。
大学では特別目立つような学生ではなく、成績も悪くはないが、勉強だけに時間を使えるほど余裕があるわけでもない。講義のない時間にはアルバイトを入れ、帰宅してから課題を片付け、眠る時間を削らないように気をつけながら次の日の準備をする。忙しいとは思うものの、それが今の悠真にとっては当たり前の生活だった。
今日も講義を終えてから、そのまま勤務先へ向かった。
勤務先は駅から少し離れた複合施設で、昼間は多くの人が行き交っているものの、夜になると人の姿はほとんどなくなる。悠真は清掃用の制服に着替えると、いつものように決められた場所を順番に回り、廊下や階段の床をモップで拭いていた。
清掃の仕事そのものは、慣れてしまえばそれほど難しくない。決められた場所を掃除し、ゴミを集め、汚れているところを見つければ綺麗にする。それを繰り返していれば時間は自然に過ぎていく。
明日は朝から講義があるため、できるだけ早く仕事を終わらせて帰りたいと思っていた。時計の針が午後十一時を回ったところで、残っている作業も最後の廊下だけになっていた。
「あと少しか……」
壁に掛けられた時計を確認しながら、悠真が最後の廊下へモップをかけていたときだった。
建物の奥から、何かが倒れたような音が聞こえてきた。
――カタン。
悠真は手を止めて顔を上げ、音のした方向へ耳を澄ました。
夜の館内は静かだから、小さな物音でも意外なほどよく響く。しかし、それ以外に何かが動く気配はなく、少し待ってみても再び音が聞こえることはなかった。
気のせいだったのかもしれない。
そう思って再びモップを動かそうとしたところで、今度はかすかな話し声が聞こえてきた。
複数人いるようだった。
「誰かいるのか?」
悠真は廊下の奥へ向かって声をかけたものの、返事はなかった。
まだ館内に残っている従業員がいる可能性もあるし、警備員が確認してくれるだろうとも思った。それでも、こんな時間に普段使われていない場所から声が聞こえてくるのは気になる。もし誰かが怪我をしているのなら、そのまま放っておくわけにもいかなかった。
悠真はしばらく迷った末に、モップを壁へ立てかけ、音のした方向へ歩き始めた。
廊下の奥へ進むにつれて照明の数が減っていき、昼間なら何とも思わないはずの薄暗い空間が、今は妙に広く感じられる。自分の足音まで大きく聞こえる中を進んでいくと、やがて悠真は普段ほとんど使われていない階段の前までやってきた。
地下へ続く階段だった。
清掃の担当区域にも入っていないため、悠真はこれまで一度も下りたことがない。入口には関係者以外立入禁止と書かれた札まで掛かっている。
「……ここからか?」
先ほど聞こえた話し声を思い出しながら、悠真は階段の下を見つめた。
本来なら戻るべきだろう。
そう考えながらも、ここまで来た以上、確認だけして戻ればいいという気持ちもあった。もし従業員がいるなら声をかければいいし、何もなければそのまま帰ればいい。
悠真は小さく息を吐いてから、階段を下りていった。
地下は思っていたより広く、古い倉庫のような部屋がいくつも並んでいた。普段使われていない場所なのか、廊下には薄く埃が積もり、天井の照明もいくつか消えている。
先ほどまで聞こえていた話し声は、階段を下りるにつれてはっきりしてきた。
悠真は足音を抑えながら廊下を進み、一番奥にある扉の前で足を止めた。
扉は完全には閉まっておらず、隙間から細い光が漏れている。
その向こうから、複数人の声が聞こえていた。
悠真は扉の横へ移動し、半開きになった隙間から中を覗き込んだ。
そして、思わず息を呑んだ。
部屋の床には、大きな円を中心とした複雑な模様が描かれていた。
円の内側には見慣れない記号のようなものがいくつも並び、その周囲を細かな線が何重にも取り囲んでいる。文字なのか、単なる模様なのかも分からないが、少なくとも普通の床へ描くようなものではないことだけは分かった。
その模様を囲むように、黒い服を着た男女が何人も立っている。
彼らは誰も悠真の存在に気づかず、床の模様へ向かって低い声で何かを唱えていた。声は小さく、何を言っているのかまでは聞き取れない。それでも全員が同じものへ意識を集中させていることだけは伝わってきた。
中央に立つ男が周囲を確認するように視線を動かしたあと、ゆっくりと片手を掲げる。
「始めるぞ」
その声に合わせるように、周囲の人間も一斉に床へ手を向けた。
直後、床に描かれていた模様が淡く光り始めた。
「……え?」
悠真は思わず身を乗り出した。
光は照明の反射ではなかった。
床に描かれた線そのものが、内側から淡い光を放っている。しかも、その光は円の外側から中心へ向かうように少しずつ集まり、まるで床に描かれた模様そのものが何かを吸い込んでいるように見えた。
悠真は目を疑いながら、その光景を見つめていた。
こんなものを見たことはない。
もちろん、映画やゲームなら似たようなものを見たことはある。しかし、実際に目の前で光っているものは、それらとはまるで違っていた。
「魔力を流せ」
中央の男が低い声で告げた。
すると、魔法陣の光が一段と強くなった。
部屋の空気まで重くなったように感じられ、悠真は思わず一歩後ろへ下がった。そのとき、足元に何かが触れた。
視線を落とすと、古い清掃用具が床に転がっている。
「しまっ――」
避けようとした足が清掃用具を踏み、そのまま身体のバランスを崩した。とっさに壁へ手を伸ばしたものの届かず、悠真は背中から扉へ倒れ込んでしまう。
――ガタンッ!
大きな音が地下室に響き、半開きだった扉が勢いよく開いた。
部屋にいた全員が一斉にこちらを振り返った。
「……誰だ?」
悠真は慌てて立ち上がったものの、突然向けられた視線に何を言えばいいのか分からなかった。それでも、自分が敵ではないことだけは伝えなければならないと思い、両手を上げながら口を開く。
「あの、俺は清掃のアルバイトで……音が聞こえたから、確認しに来ただけです」
嘘ではない。
本当にそれだけだった。
しかし、黒服の男たちは互いに視線を交わし、その表情を険しくしていく。
「一般人か?」
「なぜここにいる?」
「見られたのか……」
小さな声が重なり、やがて中央に立っていた男が悠真を見据えた。
「逃がすな」
その一言を聞いた瞬間、悠真の背筋に冷たいものが走った。
「待ってください。俺は何も――」
男の一人が悠真へ向かって歩き始める。
悠真は後ろへ下がった。
このままではまずい。
そう思った瞬間だった。
「――そこまでにしなさい」
入口から、凛とした女性の声が響いた。
黒服の男たちが一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、悠真とそう年齢の離れていないように見える女性だった。長い髪を背中へ流し、落ち着いた表情で室内を見渡しているものの、その目だけは鋭く、黒服の男たちを警戒していることが伝わってくる。
「また彼方の会が、こんな場所で召喚をしているのね」
女性の言葉に、中央の男が顔をしかめた。
「お前……魔法使いか」
「だったら何?」
女性が一歩、部屋へ踏み込む。
その瞬間、男の一人が手を掲げた。
「邪魔をするなら、先に排除するまでだ」
言葉と同時に、女性の周囲へ赤い光が集まり始める。
光は彼女の手元へ集中し、やがて小さな炎へと変わっていった。
悠真は思わず息を止めた。
火元はどこにもない。
それなのに、女性の手のひらには確かな炎が浮かんでいる。揺らめく炎が彼女の顔を赤く照らし、地下室の壁にまで不規則な影を落としていた。
「……魔法?」
悠真が思わず呟くと、女性は一瞬だけこちらへ視線を向けた。
「あなた、そこから動かないで」
「え?」
「巻き込まれたくなければ、私の後ろにいて」
悠真が返事をするより早く、黒服の男が手を前へ突き出した。
女性も同時に腕を振る。
次の瞬間、手のひらに浮かんでいた炎が弾け、一本の火柱となって男へ向かって飛んでいった。男が横へ飛び退くと、その背後にいた別の男が床へ手をつき、足元の土を大きく盛り上げる。
直後、土の壁が立ち上がり、炎を正面から受け止めた。
激しい熱風が地下室を駆け抜け、悠真は思わず腕で顔を覆った。炎の熱が肌を刺し、土壁の一部が崩れて床へ落ちる音まで聞こえてくる。
目の前で炎と土がぶつかっている。
それまで自分が知っていた世界では、絶対にあり得ない光景だった。
「召喚を続けろ!」
黒服の男が叫ぶ。
「もう止められん!」
戦闘が始まった一方で、魔法陣の周囲にいた人間たちは床へ手を向けたまま、召喚のための魔力を流し続けていた。
床の光はさらに強くなり、円の中心から黒い霧がゆっくりと立ち上がっていく。
最初は細い煙のようだった霧が、少しずつ広がりながら魔法陣の中心を覆っていく。その奥では何かが蠢いているようにも見え、悠真は思わず息を呑んだ。
女性も魔法陣へ視線を向ける。
先ほどまで余裕を見せていた表情が、わずかに険しくなった。
「……まずい」
悠真は思わず彼女を見る。
「何が起きてるんですか?」
「悪魔召喚よ」
「悪魔……?」
「そう。だから、そこから動かないで」
女性の手に再び炎が灯る。
今度の炎は先ほどよりも大きく、彼女の腕を包むように揺らめいていた。
黒い霧はさらに濃くなり、魔法陣の中心を覆い始めている。
悠真には、何が起きているのか理解できない。
ただ、目の前にいる女性が本当に魔法を使っていることだけは、もう疑いようがなかった。
魔法は物語の中だけに存在するものだと思っていた。
子供の頃に見たアニメやゲームの中でしか、炎が人の手から生まれることなんてあり得ないと思っていた。それが今は、自分の目の前で起きている。
しかも、その魔法を使っている女性は、悠真が何も知らないまま見ていることを気にする余裕もないほど、目の前の敵と召喚魔法に集中していた。
女性が魔法陣へ向かって歩き出す。
「ここで止める」
その言葉と同時に、手元の炎が大きく燃え上がった。
赤い光が地下室を照らし、黒い霧がその光を飲み込むように揺らめいている。
悠真は壁際に立ったまま、その光景を見つめていた。
大学へ通い、アルバイトをして、少しでも生活費を稼ぐ。
それだけだったはずの一日は、いつの間にか見たこともない世界へ繋がっていた。
目の前で炎が燃えている。
床には見たことのない魔法陣が描かれ、その中心では黒い霧が渦巻いている。
そして、その霧の向こうには、人間ではない何かがいる。
悠真はただ、その光景から目を離せなかった。




