悲劇のループ
『私の愛しい弟を大和へ帰さなければと、夜が更けて暁の霜が降りるまで、私は立ち尽くしてその露に濡れていました。』( 伊勢神宮に遊びに来た皇子を見送る時の歌)
『岩のほとりに生える馬酔木を手折ろうとしても、それを見せるべきあなたがいると、世の人の誰も言ってくれないではないか。』(皇子が処刑され焼かれた後の歌)
この2首は万葉集の中にある。
大津皇子を思う斎王の姉が、皇子の生前生後で詠んだ歌だ。
有間皇子を亡くしてあれほど自暴自棄になったサーラが、いったいどんな気持ちでこの歌を聞いたのか?
知る由もない。
吉野の盟約の少し後に、大津皇子が草壁皇子がずっと付き合っていた姫を寝取った事件があった。2人で濡れつつなどの隠語の歌を交わして公表したのだ。
サーラの心は乱れに乱れただろう。
薬師寺の建立のため逢瀬を重ねていた不比等は、そのサーラの心を汲み取って、藤原流でサーラの実子の草壁皇子を皇太子に自然と据えた。
藤原家は公文書の作成係りなのだ、中臣鎌足の時代から。古くは亀甲文字で占いを担っていた一族なのだ。
不比等の時代に、公文書作成する中臣姓と政治を担う藤原姓に一族を分けたらしい。
斎王は年号が変わると都に戻って来ても良いのだが、どうも伊勢神宮に新しい斎王が来る事はしばらくなく大伯皇女がずっと祈り続けていたらしい。
小さい頃は母と呼び、吉野宮では本当の家族のように皆でご飯食べ一緒に眠り暮らしたサーラと宮殿ですれ違う。
「皇后様、私は伊勢神宮でずっと祈り続けます。宮家が繁栄致しますように。」と大伯皇女はサーラに伝える。3年後、草壁皇子は天皇になる前に呆気なく27歳で病死する。大津皇子24歳没、草壁皇子27歳没…2人は同い年だったのだ。
天武天皇が崩御し大津皇子は謀反の罪で自害した。
正式発表通りなら草壁皇子が次期天皇のはずだが、なぜか史実では『草壁皇子はまだ幼いのでサーラが天皇となった。」と書かれている。
大津皇子と同い年なら24歳だ!幼くは無い!
当時の皇族を謁見する機会は大衆にはほとんど無かった。
なので政府が「大津皇子は謀反で自害し草壁皇子はまだ幼いので皇后が代わりに仮天皇となります。」と言われたら、そのまま受け取ったのだ。
大津皇子と草壁皇子は同い年なのに!!!
中大兄皇子が大化の改新したの19歳なのに?
藤原マジックである。
が、草壁皇子がショックで精神的に参って引きこもってしまった。
家族として育った兄弟が謀反で自殺したのだ。
それも多分裏で動いたのは実の母だ。
彼女を横取りされるくらいなので、誰から見ても大津皇子より見劣りする自分を天皇に据えるためだ。
父との約束を守る為、大津皇子は自ら死を選んだのだ。
普通の精神状態では耐えられないだろう。




