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黄金の辺境 〜スラムの孤児に転生した俺が、誰も要らない土地を継いだ日から〜  作者: 歩人


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第5話: 恫喝でも施しでもなく

 数を、人より段取りで動かすことはできる。だが、それが効くのは塀の内側だけだ。それを俺はこの数日で覚えた。覚えたくて覚えたわけではない。


 役人の革の底が去って、何日か過ぎていた。配給の列は崩れていない。ティナが頭数を数え、年嵩の子が柄杓を握り、まだ食っていない子から回る。仕組みは、ちゃんと俺の代わりに立っている。塀の内側では。問題はいつも、塀の外から来た。


 その朝、配給庫から出てきたシスターの抱える籠が、いつもよりはっきりと軽かった。




 パンの日だった。


 月に何度か、修道会の救貧網から、施設に黒パンが回ってくる。配給庫の鍵を持つシスターが、街の聖堂の蔵まで取りに行く。子供の足では遠い。だから、行くのは、いつも大人だ。


 俺は、その量を目で測った。前にパンが来た日の籠の重なりを、頭の隅に書きつけてある。鉛筆も帳面もないから、書く先は頭の中だけだ。あの日の籠と、今日の籠。形は同じ。中身が違う。指二本ぶんではきかない。半分に近い。


 子供の頭数は、変わっていない。誰も、増えていない。減ってもいない。減るのは、春までの話だ。なのに、パンだけが、半分になって門をくぐってくる。


 計算が合わなかった。合わない計算は、気持ちが悪い。気持ちが悪いのは、たぶん、合わないこと自体が何かの答えだからだ。前世で、合わない数字の下からは、だいたい見たくないものが出てきた。


 シスターは、籠を板間に下ろした。子供たちの前で、いつもと同じ手つきでパンを割っていく。一人ぶんが、いつもより薄い。誰も何も言わなかった。薄いことに、ここの子供は慣れている。慣れているから、訊かない。訊いても、増えないからだ。


 俺だけが、それを訊きたかった。子供の喉では訊かなかった。訊けば目立つ。役人の爪の筋が、まだ俺の名の横で乾いていない。だから口は閉じて、目だけを開けておいた。




 昼間、ティナが、俺の隣に座った。


 誰もいない土間の隅だ。膝を抱えて、こちらを見ずに、ティナは言った。「パン、少なかった」


 「ああ」


 「前は、もうちょっとあった」ティナは、指を腿の横で小さく折った。一、二。前に来た日の籠と今日の籠を、この子も数えていたらしい。数える子は、こういうものを止められない。「途中で、なくなったのかな」


 途中で。その言い方に、俺は引っかかった。子供の言葉だ。けれど、当たっている。蔵にはちゃんとあったはずだ。修道会が施設のぶんを削るとは思えない。削るなら、最初から少なく積む。途中で痩せたのなら、痩せたのは蔵と門のあいだのどこかだ。


 「ティナ」俺は訊いた。「パンを運んでくるの、シスターひとりか」


 ティナは、少し考えた。「門のとこまでは、ジルがついてく。荷を担ぐから」


 ジル、というのは、ここでいちばん体の大きい子だ。柄杓を取った日、いちばん大きな舌打ちをしたのが、たしか、あの子だった。配給の列の最後に回されて、いつも不機嫌な顔をしている。腕は、子供の中ではいちばん太い。


 「門の、外は」


 ティナは、首を振った。「外のことは、知らない。子供は、門から出ちゃだめだから」


 門から出るな。それが、ここの一番きつい掟だった。出れば、戻れないことがある。攫われる。売られる。そういう話は、藁の上で低い声で、何度も語られていた。子供は、塀の内側で生きて、塀の内側で減っていく。外のことは、外の大人が決める。


 俺は、塀の内側のことなら少しは動かせる。配給の順番を変えられる。字を回せる。役を作れる。けれど、塀の外で籠のパンが途中で半分になる——その途中には、俺の段取りは、まだ一画も届いていない。




 その日の夕方、俺は配給庫の脇で、シスターとすれ違った。


 今日は、教えの日ではない。膝に、聖典はない。彼女は、空になったパンの籠をひとつずつ重ねていた。痩せた指が、籠の縁を確かめるように撫でる。残りを数えるときの、いつもの手つきだ。けれど、その手つきが、いつもより長かった。数えても答えの出ないものを、それでも数えている手だった。


 「シスター」俺は、声を低くした。庇うように、言葉を先に選んだ。「あなたを責めてるんじゃない。ただ、訊きたいだけだ」


 シスターは、籠から目を上げた。子供がそんな前置きを置くことに、もう、彼女はあまり驚かなくなっている。それも、俺が積み上げてきた目立ちのぶんだ。


 「パンが、前より軽かった」俺は言った。「蔵を出るときも、軽かったのか」


 シスターは、すぐには答えなかった。空の籠を、板間にそっと置いた。それから、火傷の痕のある手を、もう一方の手で一度、組み直した。問い詰められた人の手ではなかった。事実を、どう置こうか量っている手だった。


 「蔵では、いつもの量でした」彼女は、低く言った。塩の値を言うのと、同じ声だ。「門までの道で、人が寄ってきます。毎度です」


 「人」


 「腹を空かせた者は、スラムにいくらでもいます」シスターは言った。「孤児だけではありません。年寄り。病んだ者。仕事の切れた者。籠を見れば、寄ってくる。わたくしは、追い払えません。追い払う言葉を、持っていません」


 その声は、嘆きではなかった。自分が追い払えないことを、ただそう言える人の声だ。前にもこういう声を聞いた。同じ鍋で足りた、わたくしにはできなかった——あのときの声と、同じ低さだった。


 俺は、その先を頭の中で組んだ。籠を見て、腹を空かせた者が寄ってくる。シスターは断れない。断る言葉を持たない。なら、配るのか。配れば、施設のぶんが減る。減ったぶんが、子供の椀の底から消える。途中で半分になる籠の正体は、それなら見える。


 見えた、と思った瞬間に、もう一つ影が差した。それだけなら、まだいい。腹を空かせた者が、腹を空かせた子の口からぶんどっていく。それは、悲しいが、まだ分かる話だ。だが——シスターの言い方が、少し引っかかった。毎度です。毎度、同じ場所で、同じように寄ってくる。腹の空き方に、そんなに正確な、決まった刻限があるだろうか。


 「同じ人が、寄ってくるのか」俺は訊いた。「いつも、同じ場所で」


 シスターは、籠の縁を指でなぞった。答えるかわりに、しばらくそれをしていた。それから、低く言った。「……門の手前の、辻に。いつも、同じ顔が二人ばかり。籠が出る刻限を、知っている顔です」


 刻限を、知っている顔。


 腹を空かせた者は、刻限を知らない。腹が空いた、その時に寄ってくる。刻限を知っているのは、待っている者だ。待って、刻限に、そこにいる者だ。待ち伏せは、空腹じゃない。段取りだ。前世で、合わない数字の下から出てきたものは、だいたいこういう形をしていた。




 次の日、俺は、門のところまで行った。


 門から出るな。掟は知っている。出るつもりはなかった。出なくても、門の内側からなら、辻の手前くらいは見える。崩れた塀のいちばん低いところに、子供の体なら、ちょうど目だけ届く隙間がある。前世で、現場を見にいかなかったせいで、町をひとつ取りこぼした。中の数字ばかり睨んで、外を見にいかなかった。あれを、もう一度はやらない。子供の体で覗けるのは、ここまでだ。ここまでなら、覗ける。


 パンの日ではなかった。だから、籠は出ない。出ないと分かっている日に行った。何も起きない日の、いつもの形を先に見ておきたかった。前世の癖だ。異常を測るには、まず、平常の目盛りを持っていないといけない。データのない日に行く——それも、立派なデータだ。


 辻には、男が、二人いた。


 ひとりは、座っていた。樽の上に。脚を組んで、何をするでもなく辻を見ている。痩せてはいない。腹を空かせた者の体ではなかった。もうひとりは、その横に立って、行き交う者を目で追っていた。荷を担いだ女が通る。男の目が、その荷を上から下までなぞった。なぞって、女が何も持っていないと見ると、目を離した。役人の指が、帳面の名を上から下へなぞっていったのと——あの動きと、形がよく似ていた。


 女が通り過ぎたあと、座っていた男が、立っている男に、何か短く言った。立っている男が、頷いた。それだけだ。それだけだったが、俺は、それを見た。値踏みする者の目。荷を、人を、上から下へなぞる目。あれは、施しを待つ目では、絶対にない。あれは、商売の目だ。何かを、ここで回している者の目だ。


 俺は、塀の隙間から体を引いた。膝が、少しだけ笑っていた。寒さのせいだ、と思おうとして、寒さのせいだけではない、と分かった。前世で、現場を見にいったときの、あの感じだ。机の上の数字が、急に体温を持つ瞬間。籠が途中で半分になる。その途中に、待っている目がある。




 その夜、藁の上で、俺は年嵩の子の話を低く聞いた。


 起こすつもりは、なかった。ただ、隣で寝ている子の寝言が、たまたまその名前を呼んだ。トバ、と。寝ている子は、夢の中でその名前を呼んで、それから身を縮めた。怖い夢を見ている子の、縮め方だった。


 俺は、起きていた年嵩の子に訊いた。声を、できるだけ何でもないことのように。「トバって、誰だ」


 年嵩の子は、しばらく、黙っていた。それから、もっと低い声で、言った。「辻の。樽に座ってるやつ」


 樽に座っていた、あの男だ。


 「あいつが、何をする」


 年嵩の子は、藁の上で寝返りを打った。話したくないのと、話さずにいられないのとが、半分ずつその背中に出ていた。子供が、怖いものの話をするときの、あの背中だ。


 「前に、ガキが何人か——あいつのとこで使われてた」年嵩の子は言った。「物を運ぶ。集める。拾う。あいつは出さない。受け取るだけだ。受け取って、別の場所に回す。回した先から、フラが何枚か戻ってくる。戻ってきたフラは、あいつが握る。使ったガキの手には……ほとんど、残らない」


 それだけ言って、年嵩の子は口を閉じた。それ以上は言わなかった。言わないことが、たぶん、この子なりの線引きだった。語れば、自分もそこに近づく。子供は、それが分かるくらいには、ものを数えている。


 俺は、目を開けたまま、藁の冷たさの中で、それを組み立てた。


 トバは、出さない。受け取るだけだ。物を子供に集めさせて、自分は、それを別の場所に流す。流した先から金が戻る。戻った金は、トバが握る。集めた子供の手には、残らない。それが、辻で回っているものだ。籠のパンも、たぶん、その流れのほんの一本だ。腹を空かせた者が、ぶんどっているんじゃない。トバが、刻限を知って待っている。待って、流す。


 恐ろしいのは、暴力じゃなかった。仕組みのほうだ。トバは、誰も殴っていないのかもしれない。殴る必要がないからだ。子供は、空腹で、字が読めない。フラの数が合っているかどうか、自分で確かめる手段を持たない。何枚戻ったかを知っているのは、トバだけだ。知っている者と、知らない者。そのあいだに、ぜんぶ落ちる。シスターの言った、字を知らないということは、そういうことです——あの言葉が、辻の樽の上に座っていた。


 前世で、何度かこういう構造を見た。間に立つ者だけが、両側の数を知っている。両側は、相手の数を知らない。だから、間の者が、好きなだけ抜ける。抜かれる側は、抜かれていることにすら気づけない。気づく道具を、持っていないからだ。役所の外で、それは、いくらでも回っていた。中の数字ばかり睨んでいた俺は、外でそれが回っているのを、報告書の一行で読んだだけだった。一行の下に、トバみたいな樽が、何百も座っていたのだろう。




 俺は、しばらく、何もしなかった。


 手が、なかったからだ。トバをどうにかする手は、七歳の体には、一画もない。腕力はない。身分はない。フラは一枚もない。門の外へは出られない。出たところで、子供が辻に立てば、トバの帳面の、いちばん上に名前が乗るだけだ。役人の爪の筋と、同じことになる。


 正そうとして、届かない。それが、ここ数日で、いちばん骨に染みたことだった。塀の内側の配給なら、順番を変えるだけで、こぼれる子をゼロにできた。金は一枚も要らなかった。だが、塀の外のトバには、その同じやり方が、まるで届かない。配給を変えられたのは、あそこに、鍋という動かせる総量があったからだ。順番を変える権限が、シスターの黙認という形で、まだ塀の内側にあったからだ。辻には、それがない。総量はトバが握っている。順番はトバが決めている。塀の外には、俺が指で動かせる目盛りが、一つも置かれていない。


 ——本当に効くのは、人を入れ替えられる場所だけだ。


 その考えが、藁の冷たさの中で、ひとりでに形になった。トバの辻は、トバが、ぜんぶの目盛りを握っている。誰も入れ替われない。配給の列は、違った。誰が先で、誰が後か——その並びは、入れ替えられた。入れ替えられる余地が、あそこにはあった。だから、動いた。


 俺の手が効くのは、目盛りを、まだ誰かが握りきっていない場所だ。役が、まだ固まっていない場所。順番が、まだ決まっていない場所。誰かがぜんぶを握ってしまった場所では、子供の腕は、何も動かせない。なら、いつか——誰のものでもない、入れ替えのきく場所が要る。そういう場所が、どこかにあればいい。今は、ない。頭の隅に、一行だけ書きつけた。理由は、まだ書かない。書く材料が足りない。鉛筆も帳面もない。書く先は、頭の中だけだ。




 届かないなら、せめて塀の内側で、一つだけやってみよう、と思った。


 トバの辻には、届かない。だが、ジルなら塀の内側にいる。パンの日に、籠を担いで門まで行くのは、ジルだ。年嵩で、腕が太く、不機嫌な、あのジル。辻の手前を通るのは、ジルとシスターの二人だけ。トバが、毎度、刻限を知って待っている。なら、トバに渡るそのパンを、一斤でも減らせないか。減らせれば、子供の椀の底に、一斤ぶん戻る。


 手品は、できない。フラもない。腕もない。あるのは、順番と、役と、話の配り方だけだ。前世で、それしか持っていなかった。それだけで、町をひとつ生かそうとして、死んだ。それでも、それしかない。


 まず、ジルだ。


 ジルは、配給の列で、いつも最後に回される。柄杓を取った日から、ずっと不機嫌だ。俺を嫌っている。それは、知っている。だから、頼みごとはしない。頼めば、断られる。命じることもしない。命じる立場が、子供の俺には、一画もない。粗い言い方もしない。粗く言えば、それだけで話は終わる。


 俺は、ジルの隣に座った。配給のあとの、誰も見ていない土間の隅だ。ジルは、俺を見て、露骨に顔を背けた。


 「ジル」俺は言った。責める声には、絶対に、ならないように。「あの辻、嫌だろ。樽に座ってる男のとこ」


 ジルは、答えなかった。けれど、背けた顔が、半分だけ、戻った。図星のときの、あの戻り方だった。


 「君が、いちばん損してる」俺は言った。比喩は使わない。前世で、それで通じたことが、なかった。具体を、置く。「配給は最後。籠は君が担ぐ。辻で、半分持ってかれる。担いだ重さと口に入る量がいちばん合ってないのは、君だ」


 ジルは、こちらを見た。睨む目だった。だが、その睨み方の中に、聞いている目が混じっていた。自分の損を、正面から数えられた子供の、あの目だ。前世で、何度も見た。文句を言いに来た住民が、損の内訳を一枚の紙で見せられて黙る、あの瞬間の目に似ていた。


 「で?」ジルは言った。低く。「お前に、何ができる。チビが」


 「俺には、何もできない」俺は、すぐに言った。嘘をつくと、めくれる。めくれた嘘は、黙っていたよりも、高くつく。「腕もないし、フラもない。門の外にも出られない。トバを、どうにかはできない。それは、無理だ」


 ジルが、鼻で、笑った。だろうな、という顔だった。


 「でも、籠の積み方なら変えられる」俺は言った。「君が、できることだ」




 仕掛けは、単純だった。単純でないと、子供の手では回らない。前世でも、現場で回ったのは、いつもいちばん単純なやつだった。


 パンの日。籠は、ひとつではない。いくつかに分けて担げる。今までは、ジルが、ぜんぶをひとつの大きな籠で担いでいた。重い。重いから、辻で寄ってこられても、振り払えない。両手が、塞がっている。塞がっているから、トバの子供が、横からいくつか抜いていく。それを、ジルは、見ているしかない。


 俺は、それを二つに分けることを、ジルに話した。半分は、布で体に巻きつける。前掛けの下に、抱える。残りの半分だけを、籠で見えるように担ぐ。寄ってくる目は、見えている籠を数える。見えているものしか、数えられない。トバの子供も、見えている籠から抜く。前掛けの下のぶんは、辻を抜けてから、施設で籠に戻す。


 「籠を、わざと軽く見せる」俺は言った。「持ってかれるぶんは、もう持ってかれたことにする。守るのは、見えないほうだ。守れるのは、見えないほうだけだ」


 ジルは、しばらく、黙っていた。それから、低く言った。「……ばれたら?」


 「ばれない」俺は言った。「トバは、刻限と籠の数を数えてる。籠がいつもの数だけ通れば、いつもどおりだと思う。数える者は、数えてるものしか疑わない。前掛けの下は、トバの帳面に最初から無い」


 それは、本当だった。トバの強さは、知っていることだ。刻限を知り、籠の数を知っている。だが、知っているものしか知らない。帳面に無いものは、トバには見えない。役人が、子供の名の横に爪の筋を引いたとき、谷の名は、その帳面に無かった。査定対象外、と書かれていた。無いことにされたものは、強い。誰の数にも入っていないからだ。皮肉だが、その皮肉を、今だけこっちで使う。


 ジルは、まだ、納得していない顔をしていた。当然だ。子供は、見たことのない仕掛けを信じない。実績がないからだ。実績ゼロの最初の一回は、ほぼ誰も信じない。前世で、何度も、その壁の前で立った。説き伏せようとして、たいてい失敗した。説き伏せるのは、いちばん下手なやり方だ。


 だから、説き伏せなかった。


 「一回だけ、やってみないか」俺は言った。「次のパンの日に、一回。うまくいかなかったら、もう二度と言わない。約束する。一回ぶんなら、君が損することは何もない。籠の数は、いつもどおりだ。減るのは、トバが抜くぶんだけ。それも、もともと抜かれてたぶんだ」


 損がない、というのが効いた。前世で、人が初めて動くのは、得をするときじゃない。損をしないと分かったときだ。得は、疑われる。損のなさは、確かめられる。ジルは、自分の中で、それを確かめている顔をしていた。長いこと。


 「……一回だけだ」ジルは言った。「うまくいかなかったら——お前、二度と俺に話しかけるな」


 「ああ」俺は言った。「うまくいったら——次の日の配給で、君が柄杓を握る側だ。最後に回される側じゃなくて。役を、回す。そういう約束で、どうだ?」


 ジルが、こちらを見た。一瞬、何を言われたのか分からない、という顔をした。それから、その顔が、ゆっくりほどけた。柄杓を握る側。配給を、配る側。この施設で、いちばん損な役をずっと押しつけられてきた子供にとって、それが、どれだけのことか。フラ一枚も、要らなかった。順番と、役の置き場所を、一つ入れ替えるだけだ。それで、人は動く。恫喝でもなく、施しでもなく。




 パンの日が、来た。


 俺は、門の内側の、塀の隙間から見ていた。出るな、の掟は守った。守っても、見ることはできる。ジルが、シスターと一緒に門を出ていく。布を、前掛けの下に巻いている。籠は、いつもより、小ぶりがひとつ。いつもの数の籠が、いつもどおり、辻のほうへ消えていった。


 見えなくなってからの時間が、長かった。子供の体感では、特に。前世で、決裁を出したあと、結果が戻ってくるまでの、あの何もできない時間に似ていた。やることは、全部やった。あとは、待つしかない。待つのは、昔から、いちばん下手だった。


 戻ってきたジルの、籠を見た。空に近い小ぶりの籠。いつもどおりだ。トバの目から見れば、何も変わっていない。だが、ジルの前掛けの下は——膨らんでいた。辻を抜けて、施設の門をくぐって、誰の目もないところで、ジルが布をほどいた。


 その日、子供の椀の底に乗ったパンは、いつもの半分痩せたパンより、少しだけ厚かった。指の幅で言えば、半分くらい。半分ぶん。たった、半分だ。前世なら、報告書の一行にもならない。「配送方法を変更し、欠減を一部抑制」——以上。読み飛ばされる類の、一行。


 なのに、その一行ぶんのことで、いちばん小さい幼子が両手でいつもより厚いパンを包んで、口をつけずにしばらく見ていた。それから、ようやく一口。薄い肩から、ふっと力が抜けた。前にも、見た。腹が、ほんの少し足りた子供が、ただ肩を落とす、あの瞬間だ。




 その夜、ジルが、俺の隣に、来た。


 配給のあとの、土間の隅だ。ジルは、座らなかった。立ったまま、こちらを見ずに、低く言った。「……次も、やる」


 それだけだった。礼ではなかった。礼を言える子じゃない。ただ、続ける、と自分で決めたことを、置きにきただけだ。前世で、こういう報告のしかたをする現場の人間を、何人か知っていた。礼も、感想も、言わない。ただ、続ける、と言いに来る。たいてい、いちばん頼りになった。


 「ジル」俺は言った。「明日の配給、君が配る側だ。約束だから」


 ジルは、何も言わなかった。けれど、背けていた顔のその横が、少しだけ緩んだのが、暗がりでも分かった。役を、回す。恫喝でも、施しでもなく。それだけで、いちばん不機嫌だった子供の、顔の横が緩む。前世で、最後まで信じきれなかったやり方だ。利と段取りで、人は動く。命じなくても。庇護しなくても。損がないと分かれば、確かめて、自分で足を踏み出す。


 壁際で、ティナが、それを見ていた。数を追うときの、あの据わった目で。指は、折れていない。腿の横で、いつものように何かを数えていた。たぶん、俺が何をどう入れ替えたのかを、横で数え返している。ティナは、こういうものを見ている。誰が、どの役に回ったか。それを、勘定している。本人も、たぶん、止めようがない。俺の、数えるのが止まらないのと、同じだ。


 ティナと、目が合った。逸らされなかった。今度は。


 「あんた」ティナは、低く言った。「ジルに、フラを一枚も渡してない」


 「ああ」俺は言った。「渡すフラが、ない。最初から」


 「なのに、ジルはやるって言った」


 「順番を、変えただけだ」俺は言った。「配る側と、配られる側を。それだけだ。お金は一枚も要らない。要らないんだ、これが。地味だろ。本当に、地味なんだ」


 ティナは、しばらく、俺を見ていた。それから、ふい、と視線を藁のほうへ落とした。けれど、指は、また折れはじめていた。一、二、三。何を数えているのかは、訊かなかった。訊かなくても、たぶん分かった。この子は、いま、フラを一枚も使わずに役が一つ入れ替わったのを、数えていた。数えても、合わない。フラと、動いた人の数が合わない。けれど、合わないのに、現に動いた。その合わなさを、この子は、たぶん、一生忘れない。前の俺が、それを忘れられなかったように。




 夜。火の落ちた土間に、また、藁の冷たさが戻ってきた。


 昨日と、同じ底冷えだ。背骨の裏側から、上がってくる。けれど今夜は、その冷えの中に、ほんの少し、別の温さが混じっていた。指の、筆を握っていたところ。胸の、ジルの顔の横が緩んだのを見たところ。そこだけが、底冷えの外にあった。たった、半分のパンと、一つの役を入れ替えただけのことで。


 俺は、目を閉じた。閉じても、頭は、止まらない。


 今日、塀の内側で、一つ、動いた。半分のパンが、戻った。役が、一つ、入れ替わった。フラは、一枚も、要らなかった。それは、いい。それは、できた。


 けれど、トバの樽は、まだ辻にある。座っている。今日も、明日も。ジルの仕掛けは、トバから半分のパンを隠しただけだ。トバ自身には、一画も届いていない。トバは、籠の数を数えて、いつもどおりだと思っている。それでいい。それで、今はいい。だが、トバの辻では、今日も字の読めない子供が、何枚戻ったかも知らないまま物を集めている。手のひらに、ほとんど残らないまま。それは、変わっていない。一画も。


 俺の段取りは、塀の内側で止まる。塀の外の、トバの、誰も入れ替われない辻には、子供の腕では届かない。それが、今日、いちばん骨に染みた。届かない、ということが。前世で、いちばん多く取りこぼしたのは、いつも塀の外だった。間に立つ者だけが両側の数を握っている、ああいう場所だ。中の数字を、いくら正しく睨んでも、間の者の握りは、ほどけなかった。ほどくには、両側に、自分の数を持たせないといけない。字を。帳面を。確かめる道具を。それを、塀の外の全員に渡すには——子供の腕は、あまりに短い。


 悔しい、という言葉は、子供の喉では出なかった。出すところでは、なかった。胸のほうが、先にそう決めていた。軽口も、出てこなかった。出すところでは、なかった。届かなかった、というその一つだけが、藁の冷たさよりもずっと芯に近いところで、しばらく尾を引いていた。


 外の路地で、また、誰かが歌っていた。粗い節だ。けれど、言葉だけが、雨漏りの滴の合間を縫って、はっきりと入ってきた。


 ——女神に見放された谷がある。地図にない土地がある。行った者は、誰も還らない。


 歌い手は、同じ一節を二度繰り返し、最後にひとつだけ、声を低くして付け足した。


 ——あの名は、口にするな。


 背筋が、すっと冷えた。火が落ちているせいだけでは、なかった。けれど今夜は、その歌が、昨夜とはまた別の場所に引っかかった。


 誰も還らない土地。地図に、ない土地。——なら、その土地には、トバが、いないのかもしれない。


 うまく、言えない。けれど、そう思った。地図にあって、人が回っている場所には、必ず、間に立つ者がいる。刻限を知り、両側の数を握る者が。トバの辻のように。役人の机のように。けれど、誰も還らない、地図にすらない土地——そこには、まだ誰も目盛りを握っていないのかもしれない。順番も、役も、まだ誰のものでもない。入れ替えの、きく土地。あの、配給の列のように。


 ——いや。やめておく。


 歌を聞いて、行ったこともない土地に勝手な絵を描く。前の人生で、それをやって、何度も外した。データのない会議は、感想の言い合いだ。地図にない土地のことなど、俺は、何も知らない。誰も還らないと歌われている、その意味も知らない。還らないのには、還らないだけの理由があるはずだ。それが、何かは分からない。分からないものは、分からないまま、頭の隅に置く。


 ただ——歌のあとに残った引っかかりは、昨夜までと、形が違った。昨夜までは、なぜ忘れさせず、口だけを噤ませるのか、だった。今夜のは、それじゃない。塀の内側でしか段取りが効かなかった、その一日のあとで聞いたから、別の場所に当たった。誰も入れ替われない辻には、届かなかった。誰も入れ替われない机にも、届かなかった。なら、まだ誰も握っていない場所だけが、俺の手の届く場所なのかもしれない。誰も還らない、地図にない土地。それは——還らないという意味だけじゃなく、まだ誰も握っていない、という意味でもあるのかもしれない。


 その引っかかりだけを、頭の隅の、前に書きつけた何行かのすぐ下に、もう一行書き足した。理由は、書かない。書く材料が、まだ足りない。読み返す者の、まだいない一行として。鉛筆も帳面もないから、書く先は、いまも頭の中だけだ。それを書きつけている自分に気づいて、また、少しだけ苦笑が漏れた。子供の喉から、掠れた音で。届かなかった一日の終わりに、まだ覚え書きを足している。前の人生で、最後まで抜けなかった性分だ。それで、死んだようなものなのに。しぶとい。本当に、しぶとい。


 俺の武器は、剣でも魔法でもない。読んで、数えて、書いておく。それだけだ。今日、塀の内側では、それで半分のパンが戻った。塀の外では、一画も届かなかった。同じ、たった一つの武器が、内側では効いて、外では効かない。効かないのは、武器が弱いからじゃない。塀の外の辻には、その武器を置く場所がないからだ。順番も、役も、トバがぜんぶ握ってしまっているからだ。武器は、間違っていない。置く場所が、要る。誰も握っていない場所が。


 藁は、まだ冷たい。鳴る腹も、明日へ続く。減らす数を追って報せる、というあの声も、まだ、どこにも書かれないまま明日へ続く。けれど今夜、一つだけ、明日へ続かないものができた。トバに、半分のパンを隠せた。ジルの顔の横が、緩んだ。それは、もう起きてしまったことだ。一度きりの善意は、覚え書きの一行にもならない。仕組みにして、初めて明日に届く。ジルの仕掛けは、まだ仕組みじゃない。一度、うまくいっただけだ。体の内側のあの別種の冷たさは、半分のパンを戻したぶん薄まり、トバに一画も届かなかったぶん押し戻された。差し引きが合っているのかを判定する役所は、ここにはない。たぶん、合っていない。合っていないことのほうが、答えに近い。前世で、それは、嫌になるほど学んだ。


 壁の木板に、炭の印が並んでいる。その隣の、傷の連なりだったものが、暗がりの中で、いくつか意味を持って見えた。水。火。北。外。読めてしまうと、もう、ただの傷には戻らなかった。その並びを、暗がりの中で目でなぞった。読んで、数えて、書いておく。塀の内側でなら、それで人が動く。けれど、それを塀の外の、誰も入れ替われない辻で効かせるには——子供の腕では、まだ何ひとつ足りない。その足りないものの一覧の、いちばん下に、今夜は一行だけ、別の色の字で書き足したくなった。届く場所が、要る——と。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第五話です。役人が去ったあと、配給に回るはずのパンが、外で半分に痩せて届く——その「途中で消えるパン」の正体を、ロウが塀の内側から覗く話でした。


第四話で、ロウは「いつか、外を見にいく。数えるだけでは、もう足りない」と独白しました。今回は、その「外」が、最初に見せる顔の話です。外には、トバという辻の男がいます。彼は誰も殴りません。殴る必要がない。子供は空腹で字が読めず、何枚戻ったかを知っているのはトバだけ——知っている者と知らない者のあいだに、ぜんぶ落ちる。シスターの「字を知らないということは、そういうことです」が、辻の樽の上に座っている。その構造を、子供の解像度で見せたかった。


そして、ロウの流儀がここで一度だけ立ちます。フラは一枚も使わない。順番と、役と、話の配り方だけで、いちばん不機嫌だったジルを動かす。「損がないと分かったときに、人は初めて動く」——前世でロウが最後まで信じきれなかったやり方を、藁の上で、七歳の腕で、一回だけ実証します。恫喝でも、施しでもなく。


けれど、それが効くのは塀の内側だけでした。トバの辻には、一画も届かない。正そうとして、届かない。その無力こそ、今回いちばん書きたかったところです。彼の武器は間違っていない。置く場所が——誰もまだ握っていない場所が、要る。その「届く場所が要る」という渇きが、谷の歌を、いつもと違う場所に引っかけます。


ロウの内心はいつもどおり役所の人みたいに理屈っぽいですが、届かなかった夜には、その軽口がふっと消えます。その落差を、楽しんでいただけたら嬉しいです。


連載でじっくり育てる作品です。評価・ブックマーク・感想をいただけると、次を書く励みになります。次話、その「届かなさ」が、いちばん残酷な形でロウ自身に返ってきます。飢饉の予兆で孤児院が維持できなくなり、口減らしの順番が、回りはじめます。

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