第6話: 口減らしの順番
届く場所が要る、と頭の隅に書いた、その一行が、五年たっても消えなかった。
消えるどころか、書いた本人の体のほうが先に変わった。手足が伸びた。声が、子供の高いところから、少し低いほうへ落ちた。柄杓を握っても、もう揉み合いに弾かれない。あの朝、半分の汁を配り直したときの俺は七つだった。いま、十二になっている。数えたわけじゃない。鐘の鳴る冬を、五回見送った。それだけだ。
仕組みは、五年、ちゃんと回った。配給は当番で回り、まだ食っていない子から椀の底が埋まり、ティナが頭数を数え、壁の炭印が増えていった。俺は、できるだけ目立たないように、そこにいた。柄杓を取った七つの子供は、いまも役人の帳面の上に名前が乗っている。それを濃くしないことだけが、この五年、俺の仕事だった。
仕組みは回った。だが、回っているものの外側で、世界のほうが、ゆっくり痩せていった。
飢饉、という言葉を、ここの大人はまだ口にしなかった。
代わりに、籠が、年々軽くなった。
パンの日の籠を、俺はずっと目で測ってきた。鉛筆も帳面もない。書く先は、いまも頭の中だけだ。五年前の籠の重なりと、去年の籠と、今年の籠。形は同じ。中身が、毎年、指一本ぶんずつ薄くなっていく。一年なら、たまたまだ。二年なら、運だ。五年、同じ向きに減り続けるものは、運じゃない。前世で、同じ傾きの折れ線を、嫌になるほど見た。一度こちらへ傾いた線は、こちらへ傾き続ける。途中で勝手に戻ったためしは、一度もなかった。
外でも、それは聞こえていた。中央の平野で、二年続けて麦が薄かった。川が、いつもの水位まで戻らなかった。聞きかじりの噂だ。子供は門から出ない。けれど、門の外から門の内へ、噂は水より先に染みてくる。物の値が上がっている。修道会の蔵が、薄い。寄進が、止まりがちだ。トバの辻が、前より静かだ——抜くだけの物が、辻にも減ってきたからだろう。搾る側まで痩せる頃合いというのは、いちばん下が、もう、とうに干上がっている頃合いだ。
その傾きが、今年、とうとう塀の内側まで届いた。
その朝、来たのは、革の底の足音ではなかった。
修道会の、別の修道士だった。シスターよりも若い。痩せて、足が速い。良くない知らせを、口より先に足が運んできた、という歩き方だった。土間には上がらず、奥で、シスターと短く話して、すぐに出ていった。
俺は、土間の隅で、それを見ていた。話の中身は、届かなかった。届いたのは、シスターの背中の角度だけだ。
あの背中を、俺は知っている。五年前、革の底の役人の前で折れた、あの折れ方。誰が上で誰が下か、力の地図が描き直されるときの背中だ。けれど、今朝のは、それとも少し違った。下の者が上の者へ折る背中ではなかった。もっと低い、自分にはどうにもならないものの前で、ただ立っている背中だった。
修道士が出ていったあと、シスターは、しばらく動かなかった。配給庫の前に立って、空の籠の縁を、火傷の痕のある指でなぞっていた。残りを数えるときの、いつもの手つきだ。けれど、その手つきが、いつもより、ずっと長かった。数えても答えの出ないものを、それでも数えている手だった。
昼間、ティナが、俺の隣に座った。
誰もいない土間の隅だ。ティナも、五年で変わった。背が伸びて、痩せた。指は、もっと速くなった。けれど、膝を抱えてこちらを見ずに話す癖は、七つの頃と何も変わらなかった。
「あんた」ティナは、低く言った。「修道会の蔵、もうほとんど無いって」
「どこで聞いた」
「ジルが、門のとこで聞いてきた」ティナは、指を腿の横で小さく折った。一、二。「修道会が子供を何人も抱えきれないって。減らせって、上から来てるって」
減らせ。
五年前、役人が、奥でシスターに置いていった言葉だ。春までに減らす数は、追って報せる——あのとき俺は七つで、それを頭の隅に書きつけた。理由は書かなかった。書く材料がなかった。いま、材料が、そろってしまった。
籠が、五年、減り続けた。中央の麦が、薄かった。修道会の蔵が、空に近い。子供の頭数は、減っていない。蔵は痩せる。腹は痩せない。その二つが交わるところに、減らせ、という言葉が立つ。前世で、人員整理の資料を、何度も繰った。線を引く理由は、いつも、こうやってそろっていった。誰かが悪意で引くんじゃない。数が、勝手に、引かせにくる。
「ティナ」俺は訊いた。「順番は」
ティナは、首を振った。それから、低く言った。「年が、上の子から」
俺は、すぐには答えなかった。
年が上の子から。当たり前の順だ。役所でも、そうだった。残す価値を測るより、外す理由を立てやすい順に線を引く。年長で、身寄りがなくて、外で値がつく子。その三つは、五年前から、俺の名の横にそろっている。字を覚えた。目立った。年も、とった。減らす側の帳面のいちばん上に、自分で名前を書き込んでいたようなものだ。七つのとき、半日でそれを書いた。五年かけて、その字を、消せなかった。
軽口は、出てこなかった。出すところでは、なかった。胸のほうが、先にそう決めていた。
ジルが、先に、出た。
パンの日の翌朝だった。修道会の荷馬車が、門の外に止まった。子供は、門から出ない。だから、出ていく子だけが、門を出る。
ジルは、年長だった。腕が太く、籠を担げて、外で使い道のある体だ。五年前、柄杓を取った日にいちばん大きな舌打ちをした、あのジル。籠の半量を前掛けの下に隠した、あの「パンを隠した日」から配る側に回って、ずっと配り続けた、あのジルだ。
俺は、門の内側で、ジルと向き合った。
ジルは、こちらを見て、いつものように顔を背けようとして、途中でやめた。背けきれなかった、という顔だった。
「お前」ジルは言った。低く。粗い言い方は、五年たっても変わらなかった。「あの仕掛け、次のやつにちゃんと教えとけよ。籠の積み方。前掛けの下に隠すやつ」
「ああ」
「お前がいなくなったら、誰も知らねえだろ。あれ」ジルは、門の外の荷馬車を、横目で見た。「俺も、いなくなるけどな」
俺は、何も言わなかった。言うことが、見つからなかった。前世で、現場の人間が、礼も感想も言わずに「ただ続ける」とだけ言いに来た——あの背中を、何人か知っている。ジルは、あの背中の子供だった。続ける、と言いに来る子だった。その子が、続けられない場所へ、行こうとしている。
「ジル」やっと、それだけ言った。「籠の積み方はティナに残す。ティナなら忘れない」
ジルは、ふん、と鼻で笑った。だろうな、という顔だった。その笑い方の中に、聞いている顔が、半分だけ混じっていた。五年前、自分の損を正面から数えられたときの、あの顔だ。
「行く先、聞いたか」俺は訊いた。庇うつもりで、言葉を選んだ。責める声には、絶対にならないように。
「どっかの、年季奉公だとよ」ジルは言った。それきりだった。どこか、は言わなかった。たぶん、本人も、聞かされていない。聞かされないほうが、ふつうだ。荷物に、行き先は教えない。
ジルは、門を出ていった。荷馬車の幌の下へ、自分で乗り込んだ。誰にも担がれず、自分の足で。あの子は、最後まで、自分で乗る子だった。荷馬車が動き出すとき、一度だけ、こちらを見た気がした。手は、振らなかった。振る子じゃない。車輪の音が、辻のほうへ遠ざかって、それきり、聞こえなくなった。五年前、革の底の足音が遠ざかって聞こえなくなったのと、同じ消え方だった。
門の内側に、ジルの担いでいた籠が、一つ、残った。次のパンの日、それを担ぐのは、別の子だ。仕組みは、回る。担ぐ手だけが、入れ替わる。それは、いいことのはずだった。仕組みにしておけば、一人いなくなっても回る。五年前、俺は、それを良いことだと思って組んだ。いま、その良さが、骨に刺さった。回ることと、その子がいなくなることは、別の話だった。回るからこそ、いなくなっても、回ってしまう。
俺の番が、来た。
三日後だった。修道会の荷馬車ではなかった。一頭立ての、荷の軽い、商いの馬車だった。
降りてきたのは、二人だ。ひとりは、御者だ。もうひとりが、商いの目をしていた。痩せてはいない。この街で、痩せていない大人は、それだけで一つの身分だ。腰に、革の銭入れと、折りたたんだ書きつけを提げていた。歩くたびに、銭入れの中で、固いものが低く触れ合った。五年前の役人の算盤の音に、少しだけ似ていた。けれど、几帳面さは、なかった。算盤は、合わせる音だ。この音は、ただ、重さの音だった。
仲介の人間だ、と分かった。会ったことはない。種類だけは知っている。物を、ある場所から、別の場所へ移して、その差で食う人間だ。前世にも、いた。土地と、土地でないものを、同じ台帳で扱う種類の人間。
シスターが、奥から出てきた。役人の前で折ったのと同じ角度に、背中を折りかけて——途中で、止めた。折りきらなかった。役人にはあそこまで折ったのに、この男の前では、半分で止めた。その半分が、彼女に残った、たった一つの抵抗のように見えた。俺の勝手な見立てだ。だが、外れてはいないと思った。
仲介の男は、書きつけを開いた。シスターと、奥で、短く何か話した。土間までは、届かなかった。届いたのは、男が、こちらを見たときの目だけだ。
あの目を、俺は知っている。五年前、革の底の役人が、俺の名の横で指を止めたときの目だ。利口さを量る目じゃない。値段のほうを量る目。けれど、役人の目とは、一つ違った。役人の目には、まだ、線を引くか引かないか、迷いの厚みがあった。この男の目には、それがなかった。もう、引いてある線を、確かめに来た目だった。
「字を読むか」男が訊いた。
五年前と、同じ問いだ。違うのは、訊く声だった。役人は、塩の量を訊く声で訊いた。この男は、商品の傷を確かめる声で訊いた。
俺は、迷わなかった。五年前は、子供の喉の手前で、一拍迷った。読めると言えば目立つ。今は、もう、目立ちきっている。隠す段は、とうに過ぎた。
「読める」俺は言った。低い声で、まっすぐ。「数も、書ける」
男は、頷きも、否定もしなかった。書きつけの、ある一行のところに、指を置いた。爪で、軽く筋を入れた。五年前、役人が俺の名の横へ引いた、あの筋と、同じ形だった。残す側と、外す側を、分ける線。今度のは、もう二本ぶんの深さも要らなかった。一本で、足りた。一本で足りるところまで、五年で来ていた。
行き先を、俺は、その場では聞かなかった。
聞いても、教えるとは思えなかった。荷物に、行き先は教えない。けれど、その日の夕方、配給庫の脇ですれ違ったとき——彼女が、聞いていないのにそれを言った。
今日は、教えの日ではない。膝に、聖典はない。彼女は、空の籠を重ねる手を、止めていた。
「ファロウ谷」シスターは、低く言った。塩の値を言うのと、同じ声だった。慰めの前に、事実を先に置く。五年、変わらない人だ。「あなたの行き先です。北西の、端。谷の、管理という名目で」
ファロウ谷。
その音を、俺は、知っていた。
知らないはずの音だった。地図にない土地の名を、子供が知っているはずがない。けれど、知っていた。五年、毎晩のように、外の路地で、誰かが歌っていた。粗い節で。女神に見放された谷がある。地図にない土地がある。行った者は、誰も還らない。歌い手は、最後に、声を低くして付け足した。あの名は、口にするな——と。
その、口にするなと歌われていた名を、いま、シスターが口にした。事実として。俺の行き先として。
背筋が、すっと冷えた。火の落ちる刻限には、まだ早かった。だから、寒さのせいでは、なかった。
五年前、役人の懐の紙の余白に、覚えたばかりの字で、一行を読んだ。黒嶺以北、査定対象外。意味は分からなかった。歌の谷の名と、紙の余白の名が、同じ字で始まっているように見えた。それだけを、頭の隅に書きつけた。理由は書かなかった。書く材料が、なかった。
いま、その二つが、一つになった。歌が口にするなと言う土地。役人の紙が査定の外に置いた土地。俺が売られていく、その土地。三つが、同じ一つの名で、目の前にそろった。
そろっても、まだ、理由は分からなかった。なぜ、外したはずの土地を、忘れさせず、口だけを噤ませるのか。なぜ、その土地が、誰も還らないと歌われるのか。五年前から引っかかっている、その同じ場所が、まだ空いたままだった。線が一本、足りない。足りない線を、勝手に引かないこと。それだけが、五年前から、変わらず、俺にできるいちばん大事な仕事だった。
けれど、その夜、藁の上で、俺は別のことに気づいてしまった。
気づきたくて、気づいたのではない。頭が、勝手に組んだ。やめろと言っても、止まらない。それは、五年前、雨漏りの滴を数えはじめたときから、何ひとつ変わっていなかった。
誰も還らない土地。地図に、ない土地。査定の、外。
——それは。誰も、握っていない土地、ということでもある。
五年前の、あの夜のことを、俺は覚えている。トバの辻に、段取りが、一画も届かなかった夜だ。あのとき、頭の隅に書きつけた。本当に効くのは、人を入れ替えられる場所だけだ、と。トバの辻は、トバが、ぜんぶの目盛りを握っていた。役人の机は、役人が珠を弾いていた。誰も入れ替われない場所には、子供の腕は届かなかった。だから、いつか、誰のものでもない、入れ替えのきく場所が要る——と。
ファロウ谷は、誰も、要らない。役人も、要らない。修道会も、要らない。だから、要らない子供を、そこへ捨てる。荷物を、空き地に置くのと同じだ。誰の数にも入っていない場所に、誰の数にも入らない俺を、置く。
誰の数にも入っていない。
その言葉が、五年前の覚え書きの、ちょうど隣に、収まってしまった。誰も握っていない場所が要る、と書いた。その隣に、誰も握っていない場所へ行く、という事実が、ことりと置かれた。形が、合った。合ってしまった。
合ってほしくない計算ほど、よく合う。前世で学んだ。けれど、今夜のは、合ってほしくない計算では、なかった。むしろ——合ってしまったことが、少しだけ、こわかった。捨て場所と、俺がずっと頭の隅で探していた場所が、同じ形をしている。それは、たぶん、ただの偶然だ。偶然のはずだ。だが、偶然にしては、五年越しに寸法が合いすぎていた。
なぜ、その土地が、口にするなと歌われ、地図から消されているのか。その理由は、いまも、分からない。分からないものは、分からないまま、頭の隅に置く。五年、それを守ってきた。今夜も、守る。線を、勝手に引かない。引きたくなったときが、いちばん危ない。引きたく、なっていた。だから、引かなかった。
出立は、三日後の朝、と決まった。
その三日のうちの、二日目の夜だった。
火の落ちた土間に、藁の冷たさが戻っていた。五年前と、同じ底冷えだ。背骨の裏側から、上がってくる。子供たちは、もう寝ていた。明日、一人減ることを、皆、知っていた。知っていて、誰も、それについては話さなかった。話しても、減るからだ。五年前と、同じだった。
壁際に、ティナが、起きていた。
眠る子供の頭を、指で数えていた。一、二、三。いつもの数え方ではなかった。数えても、何かが合わない、あの数え方だ。明日、一人、減る。減ったあとの数を、この子は、もう、数えはじめている。前世で、俺が、まだ来てもいない冬の備蓄を数えはじめたのと、同じだった。やめられないものを、五年前、俺はこの子に一人ぶん増やしてしまった。罪なのか善なのか、判定する役所は、ここにはない。
俺は、ティナの隣に、座った。
ティナは、こちらを見なかった。膝を抱えたまま、低く言った。「あんた、明日」
「ああ」
「ファロウ谷だって。シスターさまが」ティナの指が、止まった。数えるのを、やめた。「ねえ。あれ、歌の谷でしょ」
俺は、すぐには答えなかった。
この子も、聞いていた。五年、毎晩の歌を。誰も還らない、と。ティナは、数える子だ。歌の音とシスターの言った名が同じだと、たぶん、とうに数え合わせている。本人も、止めようがない。俺の、数えるのが止まらないのと、同じだ。
「たぶん、同じだ」俺は言った。嘘は、つかなかった。めくれた嘘は、黙っていたよりも高くつく。それも、この子に、五年前に言われたようなものだ。
ティナは、長いこと、黙っていた。それから、もっと低い声で、言った。「還らないって、歌ってる」
「歌は節がついてるだけだ」俺は言った。「節がつくと本当っぽく聞こえる。前に算術を教えたとき言っただろ。数を自分で確かめられないと、人の言ったことをそのまま信じるしかなくなる。歌も同じだ。誰かが節をつけて繰り返した。それだけだ。確かめた者はいない」
ティナは、こちらを見た。数を追うときの、あの据わった目で。「あんたは、確かめにいくの」
俺は、その問いに、すぐ答えられなかった。
確かめにいく、のではなかった。確かめさせられに、運ばれていくのだ。荷物として。けれど、ティナの目は、そういう答えを聞きたい目では、なかった。だから、俺は、別のことを言った。本当のことを。
「行ってみないと、分からない」俺は言った。「分からないものは分からないままにしておく。確かめるまでは結論を出さない。それだけだ。——五年前、君に教えたのと同じだよ」
ティナは、少し、黙った。それから、ふい、と、視線を藁のほうへ落とした。けれど、指は、また、折れはじめていた。一、二、三。何を数えているのかは、訊かなかった。訊かなくても、たぶん、分かった。この子は、いま、明日、一人減ったあとの孤児院を数えていた。数える子が、一人、減ったあとの孤児院を。
「ティナ」俺は言った。「一つ、置いていく」
ティナは、指を止めた。こちらを見た。
「壁の炭の印だ」俺は言った。土間の暗い壁を、顎で示した。誰がいつ配ったか。五年前から、線と点で残してきた、あの板だ。「あれの読み方は君がいちばん知ってる。籠の積み方も。前掛けの下に隠すやつ。ジルがちゃんと残せって言ってた。君に残す。君なら忘れない」
ティナは、壁のほうを、見た。それから、また、こちらを見た。
「あんたが、いなくなっても」ティナは言った。問いではなかった。確かめる声だった。「あれは、回るの」
「回る」俺は言った。「回るように組んだ。一度きりの善意は、覚え書きの一行にもならない。仕組みにして、初めて明日に届く。今日からは、君がそれを回す側だ」
ティナは、長いこと、壁を見ていた。それから、低く言った。「わたしは、配る側に立てない。腕が細いから。揉み合いに弾かれる」
「配らなくていい」俺は言った。「君は数えるだけでいい。誰が、いつ、どれだけ。それが合ってるかを見てるだけでいい。それが——いちばん難しくて、いちばん効く。腕の太い子なら何人もいる。数えられる子は君しかいない」
ティナは、こちらを見た。据わった目が、少しだけ、揺れた。揺れたのを、見られたくなかったらしく、すぐ、藁のほうへ逸らした。逸らしたが、指は、もう、揺れていなかった。腿の横で、固く、何かを数えはじめていた。一、二、三。たぶん、自分が、明日から数える、その数を。
俺は、それ以上、何も言わなかった。言えば、たぶん、よけいだった。五年前、沈黙を埋めようとして、よけいなことを喋った。あれを、もう一度はやらない。ふたりで、しばらく、暗い土間に座っていた。重くは、なかった。冷たくも、なかった。ただ、そこに、あった。明日、片方が、いなくなる。それを、ふたりとも、見ないようにしていた。見れば、拾ってしまう。拾えば、重くなる。それが分かるくらいには、ふたりとも、まだ、ものを数える子供だった。
出立の朝が、来た。
馬車は、門の外で、待っていた。仲介の男は、もう、乗っていた。御者が、手綱を確かめていた。子供たちは、土間にいた。誰も、見送りには出てこない。出てこないのが、ここの掟だった。減る子を、見送らない。見送れば、次は自分かと、皆が数えはじめる。
俺は、門のところまで、ひとりで歩いた。
シスターが、そこに、立っていた。
配給庫の鍵束を、腰に下げていなかった。今朝は、片付けの手も、止まっていた。彼女は、ただ、そこに立っていた。役人の前で背中を折った、あの場所だ。けれど、今朝は、誰にも、折っていなかった。背筋は、伸びていた。子供を見るときの、あの伸び方で。
慰めを、彼女は、先に出さなかった。五年、一度も、そうしなかった人だ。慰めの前に、必ず事実を、一つ置く。今朝も、そうした。
「止められなかった」シスターは言った。声は、低かった。塩の値を言うときの声では、なかった。それより、もっと低かった。「……ごめんなさい」
その、ごめんなさい、を、彼女は五年で初めて言った。配給が足りなかった日も、パンが半分になった日も、役人が来た日も、彼女は謝らなかった。事実を置くだけだった。今朝、初めて、事実の前に、それを置いた。
俺は、何も言えなかった。子供の喉では、なかった。十二の喉でも、それは、出てこなかった。あなたのせいじゃない、と、五年前、俺は彼女に言った。鍋が小さいだけだ、と。今朝も、それは、本当だった。蔵が空なだけだ。修道会が悪いんじゃない。誰も、悪くない。数が、勝手に、線を引かせにきただけだ。けれど、それを、今朝、口に出すのは——違う気がした。彼女は、悪くないことを、知っている。知っていて、なお、謝っている。その謝罪を、理屈で、ほどいてはいけなかった。
シスターは、灰衣の懐から、何かを取り出した。
布に、包んであった。小さい。彼女の、火傷の痕のある手のひらに、ちょうど、収まるくらいの。彼女は、それを、俺の手に、握らせた。布越しに、固いものと、薄いものの感触があった。固いのは、軸だ。羽根ペン。薄いのは——綴じた、粗紙。帳面だった。
「せめて、これを——」シスターは言った。言葉が、途中で、つかえた。彼女が言葉につかえるのを、俺は五年で初めて見た。事実を置く人は、つかえない。今朝、つかえた。「筆と、帳面を。持っていきなさい」
俺は、それを、両手で受け取った。
軽かった。重さで言えば、何も持っていないのと、ほとんど変わらない。羽根ペン一本と、薄い帳面一冊。それだけだ。前世なら、机の引き出しに、何十本も転がっていた。誰も、ありがたがらなかった。一本なくしても、補充の伝票を一枚書けば、また来た。
その、何でもないものが、いま、火傷の痕の手から俺の手に移った。彼女がこれをどこから出してきたのか、俺には分からなかった。修道会の蔵は、空だ。配給は、痩せている。彼女は、自分の食を削る人だ。五年、それを見てきた。羽根ペン一本と帳面一冊が、この施設で、いま、どれだけのものか。それを、俺は、数えられた。数えられたから、よけいに、何も言えなかった。
「あなたは」シスターは言った。俺の手の上の、布の包みを見ていた。俺の顔ではなく。「飲み込みが速すぎる。怖いくらいに」
彼女が、それを言うのを、俺は、待っていた気がした。五年、彼女は、それを、口に出さなかった。字を教えたとき、戸惑った顔だけ、見せた。この子は何者か、と。問わずにきた。五年、問わずにきた人が、別れ際に、それを半分だけ口にした。
「けれど」シスターは、続けた。顔を、上げた。灰色の、落ちくぼんだ目が、俺の上にあった。「それを隠す賢さも、もう持っているのね」
責める声では、なかった。問う声でも、なかった。確かめる声でも、なかった。それは——もう、答えを、出してしまった人の声だった。この子が何者か。問わずにきて、別れ際に、問わないまま、答えを置いた。答えは、出さなくていい。隠す賢さがあるなら、それで生きていける。彼女が俺にいちばん渡したかったのは、たぶん、その一言だった。羽根ペンより、帳面より。
俺は、頷いた。十二の喉の、いちばん素直なところで。「……覚えとく」と、それだけ言った。五年前と、同じ言葉だった。それ以上は、言えなかった。言えば、たぶん、収まりきらなかった。
俺の武器は、剣でも、魔法でもない。読んで、数えて、書いておく。それだけだ。五年前、その三つのうち、一つを、俺は持っていなかった。シスターが、それを教えた。いま、その三つを書きつける道具を、同じ手が握らせた。武器を持たない子供に武器の使い道を教えた人が、最後に、その武器を握らせて送り出した。順番が、合っている。今朝のは、合っていてほしい順番だった。
馬車が、動き出した。
俺は、幌の下に、自分で乗り込んだ。ジルが、そうしたように。誰にも担がれず、自分の足で。手の中に、布の包みがあった。固いものと薄いものが、布越しに、まだ少しだけ温かかった。火傷の痕の手のひらの温さが、布に移っていた。藁の冷たさとは、別の温度だった。五年前、シスターの指は、藁よりも冷たかった。今朝のは、布越しに、温かかった。温度の向きが、五年で、一度だけ、反対になった。
車輪が、回りはじめた。門が、後ろへ、遠ざかっていく。
土間のほうは、見えなかった。子供たちは、出てこない。掟だ。けれど、門の崩れた塀の、いちばん低いところ——子供の体なら目だけ届く、あの隙間。五年前、俺がトバの辻を覗いた、あの隙間。
そこに、ひとりだけ、いた。
ティナだった。掟を、破って。背の伸びた体を、低い塀に、無理に縮めて。揉み合いに弾かれる、あの細い体を、塀の隙間に、押し込んで。出てきていた。見送りには、出ない。出れば、次は自分かと、皆が数える。それを知っていて、それでも、出てきていた。
手は、振らなかった。あの子も、振る子じゃない。代わりに、塀の隙間のその手元で、指が折れていた。一、二、三。
あの動きを、俺は知っている。五年前、最初に会った日。奪い合いに加わらず、ただ鍋の減り方を指で数えていた、あの子の指だ。なるほど、あれは、いる——そう思った、あの指だ。いま、その指が、馬車のほうを数えていた。馬車を。俺を。一、二、三。何を数えているのかは、分からなかった。分からなかったが——たぶん、あの子は、いなくなる一人を数えていた。数える子がひとりに減った孤児院で、最初に数える、その一人を。覚えておくために。前世で、人が去り、地図から名前が薄れていく町を、俺は何度も見送る側にいた。一軒、また一軒。数えなかった。数えれば、重いからだ。あの子は、数えていた。
俺は、幌の下から、手を上げかけて——やめた。振る子じゃない相手に、振り返すのも、たぶん、違った。代わりに、手の中の布の包みを、一度、握り直した。それが、見えたかどうかは、分からない。隙間は、もう、遠かった。
馬車は、辻のほうへ、曲がった。塀の隙間が、見えなくなった。ティナの指が、まだ、折れているのかどうかも、分からなくなった。たぶん、折れている。一度数えはじめた子は、合わない夜でも、数えるのをやめられない。前の俺が、そうだったように。やめられないものを、五年前、俺はあの子に一人ぶん増やした。今朝、その子を、孤児院に置いていく。置いていくものが、回るように、組んできた。回る。回るからこそ、置いていける。良いことのはずだった。骨に、刺さった。
馬車は、辻を抜けた。
樽は、空だった。トバの座っていた、あの樽だ。五年前、刻限を知って待っていた男の。いまは、誰も座っていない。搾る側まで痩せる頃合いは、もう、過ぎていた。辻に、抜く物が、なくなった。トバが、どこへ行ったのかは、知らない。知る道具を、俺は、持っていない。けれど、空の樽だけが、五年前と同じ場所に、置き去りになっていた。回していた者がいなくなった仕掛けは、こういう形で、残るらしい。
城壁が、後ろへ、遠ざかっていった。石造の貴族街。商人街。その外側に貼りついた、泥と藁の、いちばん下。俺が、五年、いちばん下に置かれていた場所。前の人生と、何ひとつ変わらなかった場所。それが、後ろへ、小さくなっていく。
幌の隙間から、外が、見えた。痩せた畑が、続いていた。城壁の外は、すぐ、これだった。中央の平野は、肥えている、と聞いていた。聞いていただけだ。子供は、門から出ない。十二年、出なかった。いま、初めて出て見えたのは、肥えた平野では、なかった。肥えているはずの場所の、その縁の、もう、痩せはじめている畑だった。麦が、薄い。土が、白い。塩を、吹きかけている。五年、籠が痩せ続けた、その理由が、幌の外をゆっくり流れていった。
誰も、悪くない。数が、勝手に、線を引かせにきただけだ。前世で、何度も、そう思った。思っても、線の下の体温は、消えなかった。
俺は、手の中の布を、開いた。羽根ペンが、一本。粗紙の帳面が、一冊。五年、頭の中だけに書きつけてきた。鉛筆も帳面もない、と、毎晩、苦笑しながら。いま、書く先が、できた。要らない場所へ要らない子供を捨てる、その道の上で、初めて、書く先が手の中にあった。順番が、おかしい。けれど、五年前から、ずっと順番はおかしかった。死んだ先に、見られなかった光景があった。今度のは、捨てられる道の上に、書く道具があった。
馬車は、北西へ、進んだ。畑が、痩せていく。土が、白くなっていく。人の影が、減っていく。前世で、何百回も見た、あの向きだ。人が、土地を、捨てて去っていく向き。それを、いま、逆向きに——捨てられた土地のほうへ運ばれながら、見ていた。
誰も還らない、と、歌は言った。地図に、ない、と。
還らないのには、還らないだけの理由が、あるはずだ。地図から消えているのにも、消えているだけの理由が。その理由を、俺は、まだ、知らない。線が一本、足りない。足りない線を、勝手に引かない。五年、守ってきた。これからも、守る。
ただ——一つだけ書き足した。頭の隅の、五年前の覚え書きのすぐ下に、もう一行。今度は、頭の中ではなく、手の中の薄い帳面の、最初の一枚に。羽根ペンの先を、舌で湿らせて。揺れる馬車の上で、字が、曲がった。構わなかった。誰に読ませる字でもない。読み返す者の、まだいない一行だ。
——誰も要らない土地と、誰も握っていない土地は、同じ字で書けてしまう。
それが、何を意味するのかは、書かなかった。書く材料が、まだ、ない。けれど、五年前と、一つだけ、違った。五年前は、頭の中に書いた。今は、紙に書いた。火傷の痕の手が、握らせてくれた、その紙に。
馬車が、揺れた。北西の、空が、低く垂れていた。雪の、匂いがした。冬だ。何も作れない季節。蓄えだけで越す季節。飢饉が、牙を剥く季節。その季節に、何も知らない子供が一人、何も要らない土地へ、運ばれていく。前世で、いちばん多く取りこぼしたのは、いつも、自分の机の外で起きていたことだった。今度は、机の外そのものへ、運ばれていく。机は、ない。書く先だけは、手の中に、ある。
黒嶺、という名を、御者が前のほうで低く呟いた。仲介の男に、何か言ったらしい。届いたのは、その短い一語だけだ。黒嶺。歌の谷の名と、同じ字で始まる、あの音。役人の紙の余白に、書き足されていた、あの音。
その峠の向こうに、俺の行く先が、ある。誰も還らないと歌われ、地図から消され、それでも口にするなと歌い継がれている土地。
馬車は、その音のほうへ、進んでいった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第六話です。第五話で、ロウは届かなかった一日の終わりに、頭の隅へ「届く場所が、要る」と書きました。今回は、その「届かなさ」が、いちばん残酷な形で、ロウ自身に返ってきます。
第一話から第四話まで、ロウは「字を覚えて目立った子は、口減らしの筆頭になる」という危うさを、頭の隅に書きためてきました。今回、その順番が、現実に回りはじめます。誰かが悪意で線を引くのではなく、五年かけて痩せた籠と、空になった蔵と、減らない子供の頭数——その数が、勝手に線を引かせにくる。役所で人員整理の資料を繰った前世のロウが、いちばん見たくなかった構造です。間に七歳から十二歳への時間跳躍を置いたのは、その五年が「説明する歳月」ではなく「体と籠と人が、少しずつ痩せていった歳月」だったと、体感で見せたかったからでした。
この話の核は、シスター・メルが、止められないまま、わずかな筆と帳面をロウの手に握らせて送り出す場面です。ロウの武器は、ずっと「読んで、数えて、書いておく」だけでした。その武器を教えた人が、別れ際に、それを書きつける道具を握らせる。後にこの一本の羽根ペンと一冊の帳面が、谷を生かす帳簿の原点になります。重い場面では、ロウの軽口がふっと消えます。その落差を、楽しんでもらえたら嬉しいです。
そして、皮肉なことに、誰も要らない土地へ捨てられるという行き先が、ロウが五年探してきた「誰も握っていない場所」と、同じ形をしている。なぜその谷が地図から消されているのか、その理由だけは、物語の本当に終わり際まで取っておきます。
連載でじっくり育てる作品です。評価・ブックマーク・感想をいただけると、次を書く励みになります。次話、ロウは黒嶺峠を越え、初めてファロウ谷を見下ろします。誰も要らない土地に、独り、残されます。




