第4話: 黒嶺以北、査定対象外
その朝、土間に上がってきた足音は、子供のものではなかった。
革の底だ。藁を踏まない歩き方をしている。湿った土を、踵から置いて、爪先で抜く。この施設の床は、長いこと誰の靴も知らずに来た。子供は裸足か、布を巻いた足で、藁を撫でるように歩く。だから、その足音だけが、はっきりと毛色違いに聞こえた。
背骨の裏側の冷えとは、別のところがすっと冷えた。前世でもそうだった。聞き慣れない足音は、頭で警戒するより先に、皮膚のほうが勝手に身構える。どうやら俺の出来は、そのあたりが古いらしい。
配給の前だった。ティナが鍋の前で頭数を数えはじめる、いつもの刻限だ。鐘は、まだ鳴っていなかった。
来たのは、ひとりだった。
濃い色の上着を着ていた。袖口に、すり切れの一つもない。施設のどの大人より、ずっと厚い布だ。腰に革表紙の帳面と、木の算盤を提げている。歩くたびに算盤の珠が、かちり、と低く触れ合った。子供たちのざわめきの上に、その音だけが、几帳面な拍子を置いていく。前世で言うなら、書類の角を揃えてから喋り出すたちの人間だ。会ったことはないのに、種類だけは知っている。
顔は、覚えにくい顔だった。怒ってもいない。笑ってもいない。子供を見にきたというより、子供の数を見にきた目だ。あの目つきだけは、なぜか見覚えがあるように思えた。窓口の向こう側からこちらを数字で見てくる目。前の人生で、向けられた側にも、向けた側にもいたのだろう。確かめようはない。ないが、たぶん外れてはいない。
シスターが、奥から出てきた。腰の鍵束が、いつもより低い位置で鳴っていた。彼女は役人の前で、深く頭を下げた。子供に向けるときの、あの伸びた背筋とは違う折れ方だった。背中の角度ひとつで、誰が上で誰が下か、この部屋の力の地図が描き直される。それが、見ていて分かった。
「お役人さま」彼女は言った。声が薄かった。「お早いお着きで」
役人は、頷きとも言えないほど顎を引いた。それから、帳面を開いた。革の表紙が、乾いた音を立てて割れる。中の粗紙に、細かい字がびっしり詰まっていた。俺の立っていたところからは、字としては読めない。ただ、列だ、と分かった。名と数の列。あれは人を数えるための帳面だ。前世で似た形のものを、嫌になるほど繰ったように思う。思うだけだ。だが、その勘の手触りは、妙に確かだった。
「並ばせなさい」役人は、それだけ言った。
短い。よけいな語が一つもない。前世で、そういう喋り方をする人間が机の島にいた。無駄を削ったというより、相手に向ける分の言葉を端から積んでいない、という削り方だ。
シスターが、子供たちに向き直る。いつもの配給前の声より、半分ほど低かった。「列に。壁のほうへ並んで。背の順は、いりません」
子供たちは、のろのろと動いた。配給の列とは、空気がまるで違った。前へ出れば早く食える列なら、皆われ先に行く。これは、その真逆の列だ。前へ出たくない者の列だった。誰もが半歩ぶん後ろへ下がろうとして、互いに肩を押し合って、結局、押し出されるように壁際へ並んでいく。誰も、自分から先頭には立たない。
俺も並んだ。ティナが、すぐ後ろにいた。鍋の前から、いつのまにか離れて、列の中へ紛れていた。数えるときに折れる指は、いまは折れていない。腿の横で、固く握り込まれていた。数えるのをやめている、というより、数えるのが怖い顔だった。
役人が、列の端から歩きはじめる。革の底が、藁を踏まずに、土を踏む。かちり、と算盤が鳴る。一人の前で止まり、帳面に目を落とし、また歩く。子供の顔は、ほとんど見なかった。見るのは帳面のほうだ。指が、紙の上の一行を、上から下へなぞっていく。名を確かめる指だった。
ひとり目の前で、役人は何も言わなかった。ふたり目でも。三人目の子のところで、指が、紙の上で一度止まった。
「これは、いくつだ」
シスターが、横から答えた。「八つになります」
役人は、その子を見なかった。帳面の、止めた指の先に、短い印をつけた。墨ではない。爪の先で、紙に、軽く筋を入れただけだ。それから、また歩いた。
俺は、その筋を見ていた。子供たちは見ていない。名の横に、爪で、線を一本。それが何の線なのか、子供たちは知らない。知らないほうがいい類の線だ。前世で、ああいう線を引く側の机に座ったことがあるように思う。たしか、残す名と、外す名を分ける線だった。机の上では、線の下に体温があることを、わりと簡単に忘れていられた。忘れていられるように、机というのは作られている。
俺の番が、来た。
役人の革の底が、俺の正面で止まった。算盤の珠が、ひとつ、低く鳴って、止まった。
彼は帳面に目を落とした。指が、紙の上を滑っていく。俺の名のあるところを探しているらしかった。見つけた指が、そこで止まる。短く、止まった。それから——彼は、初めて、子供のほうを見た。俺を、見た。
覚えにくい顔の、薄い色の目が、俺の上にあった。長くはなかった。けれど、ひとり目の子のときよりも三人目の子のときよりも、その止まり方ははっきりと長かった。
驚いた目では、なかった。そこが、ふつうの物語と違うところだ。物語なら、ここで大人が目を見開いて「ほう、この子は」とでも言うはずだ。この役人は、そういう顔をしなかった。賢いね、とも、すごいね、とも言わない。彼が量っているのは、利口さじゃない。値段のほうだ。前の人生で、人が一日いくらで動くかを値踏みする声を、俺は聞いた覚えがある。この目は、それを声でなく、目でやっている。
「字を読むか」役人は言った。
声に、感心はなかった。塩の量を訊くのと、同じ声だ。
俺は、子供の喉の手前で、一拍だけ迷った。
読める、と言えば、目立つ。読めない、と言っても、シスターが横にいる。彼女は嘘をつかない人だ。問われれば、事実を一つ、ことりと置く。だから俺がここで首を振っても、それはすぐにめくれる。めくれた嘘は、黙っていたよりも高くつく。それも前世で覚えた。
「少しだけ」俺は言った。子供の喉の、いちばん低いところで。「水の字と、火の字。それくらい」
多すぎず、足りなくはなく。配給の汁を、椀の底に決めるときと同じだ。読めないと言えば、めくれて、もっと悪い。全部読めると言えば、線が一本、濃くなる。そのあいだの底を、指二本ぶん。割り算なら、俺の専門だ。専門が割り算の七歳児というのも、いざ役人の前で実演してみると、なかなか妙な絵面ではあった。
役人は、頷かなかった。否定もしなかった。ただ、帳面の俺の名のところに、爪で筋を入れた。さっき、八つの子の名の横へ入れたのと、同じ筋だ。けれど、俺のところでは、彼の指が、一度では離れなかった。同じ筋を、もう一度、上からなぞった。線が、二本ぶんの深さになった。
彼は何も言わずに、次の子へ歩いた。算盤が、また、かちりと鳴った。
俺は息を、ひとつだけついた。背骨の裏の冷えとは別のところが、まだ、冷たかった。
列が、終わった。
役人は、壁の木板の前に立った。配給の炭印が並んでいる、あの板だ。誰がいつ配ったか、ティナが数を覚えていられるように、線と点で残してある板。
彼は、それを長いこと見た。読もうとしているのではない。字ではないと、すぐ分かったらしい。子供の引いた、ただの線と点だ。それでも、見た。何が書いてあるかではなく、なぜ、こんなものが、ここにあるのか。それを勘定し直しているような目だった。前世で、想定外の数字が一行混じった資料を、上の人間がこうやって見ていた。だいたい、ああいう止まり方をする。困っているのではない。出所を探している。
「これは、誰が」彼は、振り向かずに、シスターに訊いた。
シスターは、すぐには答えなかった。半拍、置いた。「配給の当番でございます。子供らが自分らで、順を」
「子供が」役人の声に、抑揚はなかった。けれど、その短い言葉の置き方に、ほんのわずか、間があった。点を打つ前に、筆をひと呼吸止めた、その間だ。
彼は、板から目を離さなかった。出所を探す目のまま、片手で帳面を繰る。見ているのは板、繰っているのは帳面。手元が、留守になる。その留守の拍子に、懐から、もう一枚の薄い紙が半分すべり出た。帳面より小さい。覚え書きのような、折り目の多い紙だった。本人は、気づいていない。板のほうに気を取られている。
俺は、列の中から、それを見た。
見ようとして見たのではない。彼がそれを帳面の中へ押し戻すまでの、ほんの短いあいだだ。墨の字が、二行か三行。子供の俺には、半分も読めない。けれど——覚えたばかりの字が、その中にいくつか混じっていた。覚えたての字というのは、傷の連なりの中から、ひとりでに浮き上がってくる。読めるようになると、もう、ただの傷には戻ってくれない。それが少しだけ、厄介だった。見たくないものまで、勝手に読めてしまう。
その紙のいちばん下の余白に、ほかとは違う筆で、一行だけ書き足されていた。本文ではなく、後から誰かが端へ書き添えたような字だった。
黒嶺以北、査定対象外。
黒嶺、は、読めなかった。けれど、その音は、知っていた。夜の歌が、節をつけて運んでくる、あの名だ。北、対象、外。その三つは、覚えた字の中にあった。査定、は読めない。けれど、すぐ横に、役人がさっき子供の名の横へ引いていた、あの爪の筋と同じ形の線が引かれていた。残す側と、外す側を分ける線。それと、同じ形だった。
役人の指が、その紙を帳面の中へ戻した。革の表紙が、乾いた音を立てて閉じた。
ほんの、瞬きの間のことだ。
頭の中で、いくつか、線が引かれそうになった。
歌の谷の名。役人の紙の余白。残す名と外す名を分ける、爪の筋。子供の名と、土地の名に、同じ形の線。三つを線でつなげば、もっともらしい絵が一枚、すぐ描ける。
——いや。やめておく。
断片を三つ並べて、つなげて、全部分かった気になる。前の人生で、それをやって何度も外した。データのない会議は、感想の言い合いだ。線をつなぐのは気持ちがいい。気持ちがいいから、危ない。手元にあるのは、読めない名と、爪の筋ひとつと、粗い節の歌だけだ。それで結論を出すのは、空いた欄に勝手に数字を書き込むのと同じことだ。
分からないものは、分からないまま、頭の隅へ置く。それだけだ。引っかかったという覚えだけを、覚え書きに。理由は、書かない。書く材料が、まだ何もない。
役人は、長くはいなかった。
シスターと、奥で何か言葉を交わしていた。土間までは、届かなかった。届いたのは、最後の、ひとことだけだ。
「春までに減らす数は、追って報せる」
減らす。ここでは、その言葉を、口減らしに使う。子供を、ひとり、どこかへ売る。前の人生なら、書面の一行で済んだ言葉だ。合計欄が、ひとつ繰り下がる。それだけの、一行。それが、革表紙の帳面と几帳面な算盤の音と一緒に、薄い土間の空気の中へ、ことりと置かれた。書面の一行に体温があることを、その人はたぶん、机の上では忘れていられる。前の俺が、そうだったように。違いは、いま俺が、その一行のほうの側にいる、ということだけだ。
役人は、来たときと同じ歩き方で出ていった。革の底が、藁を踏まずに、土を踏む。算盤の珠が、遠ざかりながら、かちりと最後に一度鳴って、それきり聞こえなくなった。
足音が消えても、土間の空気は、すぐには戻らなかった。何かが、まだ、そこに残っているような気配だった。沈黙が、子供たちの肩の上に、低く積もっていた。誰も口をきかなかった。きく言葉を、誰も持っていなかった。俺も、持っていなかった。
配給は、いつもより遅れて始まった。
ティナが、鍋の前に立った。頭数を数える指が、いつもより、ゆっくりだった。一、二、三。声には出さない。けれど、その数え方が、いつもの——数が気持ちよく合っていく数え方とは、違っていた。数えても、何かが合わない、という顔だった。数えるのが好きな子の、いちばん苦手な顔だ。数えても答えの出ないものを、それでも数えようとしている顔。
年嵩の子が、柄杓を握った。まだ食っていない子から。小さい子から。手順は崩れなかった。役人が来ても、列は崩れなかった。それだけが、いつもと同じだった。俺は、その列を土間の隅で見届けた。柄杓は、握らなかった。握らなくても回る。そこまでは、もう来ている。仕組みは、ちゃんと俺の代わりに立っていた。今日くらいは、それが少しだけ、ありがたかった。
昼間、ティナが、俺の隣に座った。
誰もいない土間の隅だ。膝を抱えて、こちらを見ずに、ティナは言った。「あの人、あんたの前で長く止まってた」
数える子は、こういうものを見ている。誰の前で、何拍止まったか。それを勘定している。たぶん、本人も止めようがない。俺の数えるのが止まらないのと、同じだ。
「気のせいだろ」俺は言った。言ってから、嘘だな、と自分で分かった。あの止まり方は、ひとり目の子のときより長かった。俺も、それを数えていた。ふたりとも同じものを数えて、口では別のことを言っている。妙なところで気が合う。あまり、嬉しくない種類の気の合い方だった。
ティナは、しばらく黙っていた。それから、低く言った。「字、読めるって言ったでしょ。あんた」
「少しだけ、な」
「読める子は、外で使い道があるんだって」ティナは、膝に顔を半分埋めて言った。「誰かが前にそう言ってた。年季奉公でも、どこでも。読める子は、高く売れるって」
俺は、すぐには答えなかった。
ティナの言ったことは、当たっていた。当たりすぎていた。騙されないために覚えた字が、いちばん高く、俺を売り渡せる札に近づいていく。前から分かっていたことだ。今日、それが、役人の爪の筋の深さになって、目の前に出てきた。それだけだ。皮肉だな、と思う前に、計算が合った、と思った。合ってほしくない計算ほどよく合う。それも前世で学んだ。学んでも、防げたためしは一度もない。
ここで、軽口のひとつも返せれば、楽だった。返せなかった。返すところでは、なかった。胸のほうが、先にそう決めていた。
「ティナ。字を覚えるの、やめておくか」俺は言った。
ティナは、顔を上げた。数を追うときの、あの据わった目で。「なんで」
「読める子は、高く売れるんだろ。ティナが言ったんだ」
ティナは、長いこと、俺を見ていた。それから、ゆっくり、首を振った。「やめない」声は低かったが、迷いはなかった。「読めないままだと、ずっと騙される。売られた先でも。どっちにしても売られるなら、せめて読めるほうがいい。最初にそう言ったの、あんたでしょ」
俺は、子供の喉の手前で、言葉に詰まった。
その通りだった。最初にそれを言ったのは、俺だ。あのとき俺は、その字が、この子をどこかで高く売り渡す札にもなることを、口には出さなかった。出せなかった。いま、この子は、それを自分で勘定して、それでもなお読めるほうを選んだ。九つか、十の子が。前の人生で、こういう天秤をその場で量れる人間を、俺はずいぶん探した。探して、見つからなかった。なのに、ここに、藁の上にいる。順番が、また、おかしい。
「……ああ」俺は言った。やっと、それだけ言った。「ティナの言うとおりだ。読めるほうがいい。やめなくていい」
ティナは、頷いた。それきり、何も言わなかった。膝を抱えたまま、しばらく、ふたりで、土間の隅に座っていた。役人の足音は、もう聞こえない。なのに、減らす、というあの言葉が、まだ部屋のどこかに落ちたままだった。ふたりとも、それを見ないようにしていた。見れば拾ってしまう。拾えば、もっと重くなる。それが分かるくらいには、ふたりとも、ものを数える子供だった。やがて、沈黙が、ふたりのあいだに、静かに積もった。重くは、なかった。冷たくも、なかった。ただ、そこに、あった。たまに、そういう黙りがある。前の人生では、それを埋めようとして、よけいなことを喋った。今日は、喋らなかった。
夕方、配給庫の脇で、シスターと、すれ違った。
今日は、教えの日ではない。膝に、聖典はない。彼女はただ、片付けの手を止めて、そこに立っていた。役人の革の底が、まだ、この板間のどこかに残っているような刻限だった。
彼女は、慰めを先に出さなかった。塩の値を言うのと同じ声で、事実を一つ、先に置いた。「あの方は毎年、冬の手前に来ます。何人減らせるか。それを繰りに」
俺は、何も言わなかった。彼女が、役人の止まった拍数を数えていたことは、その横顔で分かった。ティナと、同じように。この施設で、数える人間が、いつのまにか三人に増えていた。増やしたのは、たぶん、俺だ。
彼女は、膝の上の手を、火傷の痕の上で一度、組み直した。問い詰める声ではなかった。事実の続きを、置くだけの声だった。
「読んで数えて、書いておきなさい。どこへ行っても」彼女は言った。「それだけは、誰にも取り上げられません」
慰めではなかった。低いところからの願いだった。誰かを救う、という大きな話ではない。せめて、こちらから一人ぶん、丸腰の人間を減らしておきたい——そういう、いちばん低い場所から出された願いだ。前の人生で、俺はこういう願いの脇を、手が足りないという理由で何度も素通りした側にいた。机の上で順番待ちにしたまま、読まずに終わった願いを、いくつ積んだか、もう数えようがない。あの積み残しが、いま、子供の高さから、俺を見上げている。
俺は、頷いた。子供の喉の、いちばん素直なところで。「覚えとく」とだけ、言った。それ以上は、言えなかった。言えば、たぶん、子供の薄い胸が、それを収めきれなかった。
シスターは、それきり何も言わなかった。組み直した手を、膝の上で、ほどこうとはしなかった。日が、板間の床をゆっくり渡っていく。その影が、彼女の手のところまで届く頃には、俺は、もう立ち上がっていた。
夜。火の落ちた土間に、また藁の冷たさが戻ってきた。
昨日と、同じ底冷えだ。背骨の裏側から上がってくる、あの冷え。けれど今夜は、それが、いつもと少し違った。昨日までほんのわずかずつ薄まってきていたものが、今日、後ろから、つめたい手で押し戻された。革の底の足音が、まだ、どこかで鳴っている。あの音は、薄まりかけたものを、もう一度、外から試しに来た音だった。本当にこれは温まるのか、と、確かめに来た音だ。
壁際で、ティナが、まだ起きていた。指を折って、眠る子供の頭を数えている。一、二、三。今夜は、いつもより遅い。数えても、何かが合わない、あの数え方のままだった。それでも、指は止めなかった。一度数え方を覚えた子は、合わない夜でも、数えるのをやめられない。前の俺が、そうだったように。やめられないものを、もう一人ぶん、この世界に増やしてしまったらしい。罪なのか善なのか、判定する役所は、ここにはない。
俺は、目を閉じた。閉じても、頭は止まらない。
今日、役人の爪が、俺の名の横を、二度なぞった。それを、ティナが見ていた。シスターも見ていた。俺自身も数えていた。三人が、同じものを数えて、誰も、声には出さなかった。字を覚えたことが、俺を「値のつく子供」に変えた。そこまでは、前から分かっていた。今日、その値が、爪の筋の深さになって、目に見える形で出てきた。それだけだ。これまで、毎晩、頭の隅へ書きためてきた予感がある。値のつく子供から、減らされる子供までは、たぶん近い。その予感が、今日、足音になって土間へ上がってきた。子供の喉で、それは言わない。言ったところで誰にも通じない。だが頭の中では、確かにそう繰り上がった。予感の欄がひとつ、現実の欄へ繰り上がった。
けれど——それを、惜しいとは、思わなかった。ティナが言った。読めないままだと、売られた先でも、ずっと騙される。シスターも言った。覚えたものは、誰にも取り上げられない。ふたりとも、別の場所から、同じ底にたどり着いていた。読める、ということは、丸腰でなくなる、ということだ。たとえ、その同じ字が、自分を高く売り渡す札になるとしても。札になるなら、なればいい。丸腰で運ばれるよりは、ずっといい。
俺の武器は、剣でも魔法でもない。読んで、数えて、書いておく。それだけだ。今日まで、その三つのうち一つを、俺は持っていなかった。少し前に、その一つが戻ってきた。戻ってきたとたん、それが値札にもなった。そういう道具らしい。両刃なのは、たいてい、いちばん効くものだ。
外の路地で、また、誰かが歌っていた。粗い節だ。けれど、言葉だけが、雨漏りの滴の合間を縫って、はっきりと入ってきた。
——女神に見放された谷がある。地図にない土地がある。行った者は、誰も還らない。
歌い手は、同じ一節を二度繰り返し、最後にひとつだけ、声を低くして付け足した。
——あの名は、口にするな。
背筋が、すっと冷えた。火が落ちているせいだけではなかった。けれど今夜は、その付け足しが、昨夜とは、また少し違って聞こえた。
口にするな、と歌が言う土地。査定対象外、と役人の紙の余白に書き足されていた土地。その二つの名の頭に、同じ字があったように思う。歌の運ぶ名と、紙の余白の名が、同じ字で始まっている。確かめたわけではない。その字は、まだ読めない。けれど、音が重なった。歌の音と、覚えたばかりの三つの字が、頭の中で、隣り合った。
残す者と、外す者を分ける線。役人の爪が、子供の名の横へ引いたのと同じ形の線が、土地の名の横にも引かれていた。子供を外すように、土地も外されている。それなのに、歌は、その土地を忘れろとは言わない。口にするな、と言う。
ここが、引っかかる。前の夜から、ずっと同じところが引っかかっている。忘れられた土地は、誰も歌わない。歌う必要がない。黙っていれば、勝手に薄れる。それがいちばん安い。なのに、誰かが手間をかけて、口を噤ませている。安いほうを選ばずに、高いほうを選んでいる。前世で、そういう不自然な高さに、何度か出くわした。たいてい、その下に、隠したいものがあった。
なぜ、外したはずの土地を、忘れさせず、口だけを噤ませるのか。なぜ、その線が、口減らしの子の名の横の線と、同じ形をしているのか。並べてはみた。並べても、答えのところは、空いたままだ。今は、何も分からない。情報がない。だから、結論は出さない。出してはいけない。出したくなったときが、いちばん危ない。それも、前世で学んだ。
頭の隅の、覚え書きに、もう一行、足された。前の三行の、すぐ下に。読み返す者の、まだいない一行として。鉛筆も帳面もない。書く先は、いまも、頭の中だけだ。それを書きつけている自分に気づいて、また、少しだけ苦笑が漏れた。子供の喉から、掠れた音で。一度死んだのに、まだ覚え書きを足している。前の人生で、最後まで抜けなかった性分だ。役人の足音にも、爪の筋にも、それは消えなかった。たぶん、これを消すには、もう一回くらい死なないと足りない。
体の内側から湧いていた、あの別種の冷たさは、薄まる途中で今日、押し戻された。それでも——凍りは、しなかった。押し戻されただけだ。押し戻されたというのは、まだ押し合っている、ということでもある。完全に持っていかれたわけじゃない。藁の冷たさも、減らす数を追って報せるというあの声も、明日へ続く。読めない文字だけが、もう、明日へは続かない。今日また、ふたつか、みっつ、読めた。北、外、対象。覚えたくない場所で覚えた字ばかりだったが、覚えたものは覚えたものだ。
壁の木板に、炭の印が並んでいる。その隣の、傷の連なりだったものが、暗がりの中でいくつか、意味を持って見えた。水。火。北。外。子供を帳面から外す者が、爪で引く一本の筋。谷の名を口にするなと、歌が節をつけて伝える、その用心。その二つが、暗がりの中で、どこか、同じ一画から始まっているように見えてならなかった。なぜそう見えるのかは、分からない。見えるからといって、そうだとは限らない。線が一本、まだ足りない。足りない線を勝手に引かないこと——それだけが、いま俺にできる、いちばん大事な仕事だった。
目を閉じても、耳の奥で、まだ算盤が鳴っていた。かちり、と一度きり。春までに減らす数は、追って報せる——あの一行は、まだどこにも書かれていない。書かれていないだけで、もう、決まっている。決める側の机に、俺はいない。机の外の、数えられる側にいる。
その机が、どこにあって、誰が珠を弾いているのか。俺はまだ、何も知らない。子供の腕では、覗きにも行けない。けれど、知らないままでは、たぶん、守れない。前の人生で、いちばん多く取りこぼしたのは、いつも、自分の机の外で起きていたことだった。中の数字ばかり睨んで、外を見にいかなかった。それで、町がひとつ消えた。
明日でいい。一日にひとつ。崩れない順で。それでも、いつか、外を見にいく。数えるだけでは、もう足りない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第四話です。孤児院に、王室財務府の役人がひとり来る話でした。
第一話から、ロウは「字を覚えて目立った子は、口減らしの筆頭になる」という危うさを、頭の隅に書きためてきました。今回、その危うさが、はじめて現実の足音として土間に上がってきます。役人はロウに過剰な感心をしません。彼が量っているのは利口さではなく、売り値です。読める子は外で使い道がある——その値踏みの目が、ロウの名の横の線を、一本ぶん深くしていく。その線の形が、彼の懐の紙の、ある土地の名の横の線と、同じだった。今回は、そこだけを置きました。
ロウは、その一行の意味を分かりません。分かったことにもしません。断片を三つ並べてつなげて、全部分かった気になる——それを彼は前の人生で何度もやって、何度も外しています。だから今回も、つなげたくなる手を自分で止めて、頭の隅にもう一行、書きつけるだけ。歌の付け足しと、紙の余白が、同じ字で始まっていた。その重なりだけを、答えのないまま置いてあります。理由は、物語の本当に終わり際まで取っておきます。
ロウの内心はずっと現代の役所の人みたいに理屈っぽく、自分に乾いたツッコミを入れ続けます。けれど、役人の爪が名の横を二度なぞる場面や、ティナが「やめない」と言う場面では、その軽口がふっと消えます。その落差を、楽しんでもらえたら嬉しいです。ティナとシスターが、別々の場所から同じ底——「読めるほうが、丸腰でなくなる」——にたどり着く。その短いやり取りが、今回いちばん書きたかったところでした。
連載でじっくり育てる作品です。評価・ブックマーク・感想をいただけると、次を書く励みになります。次話、ロウの「測る目」が、施設の外の搾取に届かない無力にぶつかります。




