第3話: 文字を知らない男
硬い穂先が、掌の冷たいところに触れた。
羽根の軸を削っただけの、ひどく素朴な筆だった。シスターが、痩せた指でそれを俺の手に握らせた。指が、藁よりも冷たい。その冷たさが、軸を伝って俺の掌へ移ってくる。この施設には、子供を温める火も、人を温める手も、もうほとんど残っていない。残っているのは、この筆一本と、すり減った木の板きれと、わずかな墨だけ。前世なら備品台帳の最後の一行に「要更新」と書いて誰にも読まれずに終わる類の、その一本だ。
「これは、筆です」シスターは、短く区切って言った。「ものを書くための、道具。——もう一度。筆」
配給が回りはじめて、幾日かが過ぎた朝のことだった。
ことの起こりは、前の日の昼にあった。
壁の木板の前で、俺は炭の印を足していた。誰がいつ配ったか、その線と点だ。字ではない。字は、いまだに読めない。形は追えるのに、意味がどこからも入ってこない。何度見ても、傷の連なりにしか見えない。あの感じだけは、最初の朝から、何ひとつ変わっていない。
読めないと分かると、なぜだか喉の奥が、ちょっとだけ詰まる。理由は、うまく言えない。前世で読み書きを生業にしていた人間が、急にそれを取り上げられたら——たぶん、そういう疼きなのかもしれない。そう片づけようとして、片づけきれない一画ぶんが、いつも喉に残る。
その横顔を、シスターが見ていたらしい。
「読みたいのですか」彼女は言った。問い詰める声ではない。事実を一つ、置いただけだ。「その板の字が」
俺は答えに詰まった。読みたい、と即答するのは、たぶんまずい。子供がそんな口を利けば、誰かに見られている。前世の癖だ。提案を出した瞬間に「なんで君がそれを知ってる」と振り向かれる、あの感触。会議室にいなくても、あの目だけはついてくるらしい。だから、首を半分だけ振った。
「印は、読める。俺がつけたから。けど、その上のは……読めない。形は分かるんだ。意味だけが、入ってこない」
言ってから、子供の喉でこういうことを言うと、ずいぶん理屈っぽく響くな、と思った。七歳児が「形は分かるが意味が入ってこない」とは、たぶん言わない。苦笑が漏れそうになったのを、こらえた。
シスターは、すぐには何も言わなかった。木板の字を、長いこと見ていた。読もうとしているのではない。何かを勘定し直している背中だった。前世で、要望書をめくりながら予算の桁を数え直す上司の背中を、何度も後ろから見た。だいたい、ああいう止まり方をする。
それから、振り向かずに、低く言った。「明日の朝、配給のあとに来なさい。少しだけ、教えます」
慰めも励ましもなかった。決めたことを置いただけだった。決裁印を一つ押した人の声に近かった。
翌朝、配給はティナが数え、年嵩の子が配った。俺は柄杓を握らなかった。握らなくても、列は崩れなかった。仕組みが、ちゃんと俺の代わりに立っていた。それを土間の隅で見届けてから、シスターのところへ行った。
彼女は、配給庫の脇の、いちばん日の差す板間に座っていた。膝の上に、表紙の擦り切れた一冊。聖典だろう。革の縁が、手垢で黒くなめされている。その横に、墨を含ませた粗紙が一枚と、昨日の木の板きれ。それだけが、この施設の学びの道具のすべてだった。前世なら備品リストにすらならない。けれど、ここではこれが全財産らしい。
「字を知る者は、この街にはそう多くいません」シスターは、聖典の上に手を置いて言った。「お役人さま。商家の番頭。聖堂の者。——それくらいです。あとの皆は、ひとつの字も持たずに過ぎていきます。生まれてから、死ぬまで」
その口ぶりは、嘆きではなかった。塩の値や薪の本数を言うのと、同じ声だ。
俺は内心で、その数字を勝手に均してみた。役人と番頭と聖職者だけが字を持ち、あとは持たない。前世なら、ひと言の指標で片づけて、手を打つ前提の数字にしていた。けれどここでは、その指標を口にする相手すらいない。検討する側に、字を持つ者しかいないのだから。なるほど。そういう設計なら、世の中はなかなか動かないわけだ。
「持たないと、どうなるんだ」俺は訊いた。本当は、見当はついている。けれど、この子の口から先に答えを出してしまうのは、まずい。問うほうが安全だった。
シスターは、節くれだった指で、聖典の革表紙をひとなでした。
「証文を読めません」彼女は言った。「借りた覚えのない額が書かれていても、分からない。働いた日数を削られていても、分からない。量りをごまかされても——気づけません。字を知らないということは、そういうことです」
彼女の指が、火傷の痕の上で止まった。古い、炊き出しの跡だ。
「字が読めれば、騙される回数が一つ減る。それだけでも、生きるのが少し楽になります」
慰めではなかった。願いだった。誰かを救う、という大きな話ではない。せめて、こちらから一人ぶん、騙される側を減らしておきたい——そういう、いちばん低いところから出された願いだった。前の人生で、俺はこういう願いの脇を、何度も素通りした。手が足りない、予算がつかない、来期に回す。机の上で順番待ちにしたまま、結局読まずに終わった願いを、いくつ積み上げたか分からない。あの積み残しが、いま、子供の高さから俺を見上げている。
「教えてくれ」俺は言った。子供の喉の、いちばん素直なところで。「いいから、教えてくれ。覚える」
シスターの灰色の目が、わずかに揺れた。それから、彼女は筆を、俺の手に握らせた。
最初は、女神アウラの名の、頭の一字だった。
縦に一本、引く。それから、肩のあたりで、短く払う。シスターの指が、俺の指の上に重なって、軸を動かした。彼女の指は、骨ばっていて、痩せていて、藁よりも冷たい。けれど、動きそのものには迷いがなかった。同じ字を、何百回と、子供の手に書かせてきた指だ。それが、軸ごしに伝わってきた。指導の手つきというのは、業界が違っても、だいたい同じ温度をしている。前世で、新人に判子の押し方を教えた俺の手も、たぶんこんなふうだったろう。
「これは、“水”の字に似ています」彼女は、別の一画を足しながら言った。「水。——飲む水の、水。覚えやすいでしょう。皆、これから先に覚えます」
俺はその形を、目で追った。
その瞬間に、おかしなことが起きた。
形が、ほどけた。
うまく言えない。墨の線が、ただの傷の連なりではなく、上から下へ流れていく一筋の——水のように、見えた。一度そう見えてしまうと、もうただの線には戻らなかった。手のほうが、それを覚えていた。シスターの指が離れたあとも、俺の指は軸を握ったまま、さっきの動きをなぞろうとしていた。引いて、払う。どこかで、この動きをやったことがあるらしい。記憶の引き出しに手を伸ばすより先に、引き出しのほうが開いている、という妙な感触だけがあった。確かなのは一つ。掌の冷たいところが、軸を握っているあいだだけ、ほんの少し冷たくなくなっていた。それだけだ。
「もう一度、書いてごらんなさい」シスターが言った。「ひとりで」
俺は書いた。粗紙の上に、墨で。線が震えた。子供の腕は、まだ筆の重みに慣れていない。形は、いびつだった。脳が知っているのに手がついてこない、というのは、前世で利き手を痛めたとき以来の感覚だった。それでも、さっきシスターが書いたものと、同じ字だった。読める。自分で書いた字が、読める。
息が、ひとつ、引っかかった。
最初の朝、木板の字が読めないと分かったとき、同じところがこうなった。あのときは、読めないことで。いまは、読めたことで。理由は相変わらず、自分でも分からない。たかが一字だ。水の字、ひとつ。なのに、子供の薄い胸は、それをうまく収めきれずにいた。軽口は、出てこなかった。出すところではない、と、胸のほうが先に決めていた。
次の字は、もっと速かった。
“火”だ。シスターが書いて見せた。俺は、一度見た。指が、もう動いていた。引いて、開いて、点を二つ。書いた。いびつだが、読める。三つ目の字は、シスターの指を借りなかった。四つ目も。
シスターの手が、いつのまにか、止まっていた。
俺の手元を、彼女はじっと見ていた。叱る目ではない。褒める目でも、なかった。声を、上げなかった。「まあ」とも「すごいわ」とも言わない。どこで覚えたのか、とも訊かない。この子は何者か、とも。あの問いが前にも一度、彼女の喉まで来て止まったのを、俺は横顔で見ている。今度も、同じだった。問いは、口には出されなかった。
代わりに、彼女は、自分の手元の聖典に目を落とした。革の縁の、手垢で黒くなめされたところ。あの黒さは、年月だ。何百回、何千回と、同じ頁をめくった指の跡。その頁を、彼女は長いこと見ていた。
「わたくしは」彼女は、低く言った。俺にではなく、その頁に言うような声だった。「この一冊を読めるようになるのに——年を、いくつも使いました。冬を、何度も越して」
それきり、続けなかった。比べた、とは言わない。速い、とも言わない。ただ、自分が辿るのに何年もかかった一筋を、この子は幾日で抜けていく。その隔たりの輪郭を、聖典の手垢の黒さに、指でそっとなぞっただけだった。
俺は、何も言わなかった。言えることが、なかった。前の人生で、俺は字を知っていた——のだろう。だから、いまの指がこんなに迷わない。たぶんそういうことだ。けれど、それを、この人に言うことはできない。言っても通じない。仮に通じたとして、それは、彼女が冬を何度も使って渡った川を、俺は橋の上を歩いて越えたと告げるだけのことだ。橋の存在を知らない人の前で、橋を渡って見せる。前世なら、研修で何度も叱られた類の振る舞いだ。ここに研修はないが、やっていいわけでもない。
だから、いびつな字を、もう一つ書いた。わざと、ゆっくり。線を震わせて。子供の手の未熟さの中に、自分を隠した。本当は答えが出ているのに、その場で考えているふりをして頷いてみせる——前世で覚えのある手つきだ。あれを、まさか藁の上で、七歳の腕でやることになるとは思わなかった。シスターはそれを見ていた。見て、何も言わなかった。隠す賢さも、もう持っているのね——そういう目を、彼女は一瞬だけした。けれど、それも口には出さなかった。出さないことで、何かを認めた人の横顔だった。
数は、字よりも、なお速かった。
シスターは、小石を使った。板間に、五つ並べる。三つ取る。残りは、いくつ。二つだ。それから、三つに五つを足す。八つ。彼女は、子供に教えるときいつもそうするように、短く区切って繰り返した。「五から三を引く。残りは——二。もう一度。五、引く、三」
俺の口は、彼女が二度目を言い終わる前に、答えを出していた。出してから、しまった、と思った。速すぎた。前世でも、こういう先回りで何度も損をした。資料が配られた瞬間に結論を言ってしまい、進行役に睨まれる。場の速度に合わせるのが、昔から下手だった。死んでも直っていないらしい。
シスターの手が、小石の上で止まった。
彼女は、俺を見なかった。小石を見ていた。それから、ひとつ、息をついた。長い、低い息だった。咎める息ではない。怖がる息でも、なかった。ただ、目の前で起きていることの大きさを、自分の中で一つずつ置き直しているような息だった。
「ティナに」彼女は、ようやく言った。小石を、ひとつ、また並べながら。「あなたが数を教えた、と聞きました。配給の」
「教えた、ってほどじゃない」俺は言った。「あの子はもともと数えてた。誰にも頼まれずに。俺は、その役に名前をつけただけだ」
シスターは、頷きも、否定もしなかった。小石を見たまま、低く続けた。「あの子が近ごろ、数を口にします。声に出して。前は、指だけだったのに。誰かに数え方を、教わった顔をしています」
その声に、感心はなかった。驚きも、ほとんどなかった。事実を、ひとつずつ置いていく。配給庫の鍵の数を勘定し直すときと、同じ声だった。
「あなたは教わって覚える。覚えて、すぐ人に渡す」彼女は言った。「七つの子の、することでは——」
そこで、言葉が切れた。続きを、彼女は言わなかった。ない、と言いかけたのか、ありません、と言いかけたのか。どちらにせよ、その先は横顔の中に仕舞われた。問いは、また口には出されなかった。彼女は出さないと決めた人だった。訊くより、見ているほうが早い。前にも、その口の閉じ方を、俺は見ている。
答えずに済んだことに、俺は少しだけ息をついた。前世が地方公務員で、過労で死んで、気づいたら藁の上にいました——どう言い換えても、通じる言葉にならない。翻訳の前に、訳す先の語が、この世界に存在しない。
昼間、ティナが、俺の隣に座った。
誰もいない土間の隅だ。膝を抱えて、こちらを見ずに、ティナは言った。「シスターさまに字、習ってるんだって」
「ああ」
「ずるい」声に、棘はなかった。むしろ逆だ。羨ましいのを隠しきれていない子の声だった。「わたしも、数はもう数えられる。あんたに教わったから。でも、字は……知らない。証文の字とか、台帳の字とか」
台帳、という言葉に、俺はふと止まった。この子は、配給の炭印を「台帳」と呼ぶ。誰も、そう教えていない。出納の記録を指す言葉を、自分で見つけてくる。前世なら、こういう子は配属の取り合いになる人材だ。——もっとも、ここには配属も取り合いもない。あるのは、藁と、空腹と、覚えのいい一人の子供だけ。俺の勝手な見立てだが、外れてはいないと思った。
「習いたいか」俺は訊いた。
ティナは、しばらく黙っていた。それから、低く言った。「……騙されないために、いるんでしょ。字って」
俺は、すぐには答えなかった。シスターの言葉が、耳の奥で鳴っていた。字が読めれば、騙される回数が一つ減る。それだけでも、生きるのが少し楽になる。あれは、シスターが低いところから出した願いだった。同じ願いを、いま、この子が自分の言葉で言い当てている。教えた覚えのないことを、子供のほうが先に拾っている。
「そうだ」俺は言った。「ティナの言うとおりだ。だから、覚えた字はティナにも回す。シスターから俺へ、俺からティナへ。——そういうふうに、しよう。一日にひとつでいい。崩れない順で」
ティナは、こちらを見た。数を追うときの、あの据わった目で。「あんた、いつもそれだね。順番」
「ああ」俺は笑った。作り笑いじゃなく、ちゃんと笑えた。「順番なんだ。昔から、これだけは直らない。前にも一回、それで死にかけてる」
ティナは、死にかけてる、の中身を訊かなかった。訊かないことが、たぶん、この子なりの優しさだった。前の人生で、俺はその種の優しさを、何度も見落とした。忙しさを言い訳にして、訊いてこない相手を「問題なし」に分類して、次の案件へ進んだ。あの分類の下に、いくつ取りこぼしたか、もう数えようがない。
夜。火の落ちた土間に、また藁の冷たさが戻ってきた。
昨日と、同じ冷たさだ。背骨の裏側から上がってくる、あの底冷え。けれど、掌の、筆を握っていたところだけは、まだその動きを覚えている。引いて、払う。引いて、開いて、点を二つ。指が、暗がりの中で、勝手にそれをなぞっていた。前にも、こうして指が形を覚えていたことが、あった——のだろうか。確かめようは、なかった。確かなのは、なぞっているあいだ、その指先だけは底冷えの外にあったことだった。
壁際で、ティナが、まだ起きていた。指を折って、眠る子供の頭を数えている。一、二、三。今度は、声には出していない。出さなくても、もう止まらない指だった。一度数え方を覚えた子は、やめられない。前の俺がそうだったように、やめられないものを、この世界にもう一人ぶん増やしてしまったらしい。罪なのか善なのか、判定する役所は、ここにはない。
俺は、目を閉じた。閉じても、頭は止まらない。
今日、俺はまた一つ、目立った。子供が数日で字を覚える。数を、口より速く出す。それを、シスターが見た。声を上げず、問いを口に出さず。けれど、見たことを忘れる人ではない。あの聖典の手垢を長いこと見ていた背中を、俺は知っている。あれは、何かを勘定し直していた背中だ。前世なら、ああいう背中のあとには、必ず一枚、誰かの机に書類が回る。
頭の中で、勝手にその書類が一枚、組み上がっていく。口数を減らすとき、施設がいちばん選びやすい子供がいる。扱いにくく、目立ち、身寄りがない。配給を当番にして、俺はその三つを、もうとうに揃えてしまった。そこへ字が加わる。読み書きのできる子は、外で使い道がある。年季奉公でも、辺境の管理名目でも。——売る側の帳面から見れば、字を覚えた俺は、ただの厄介な子供から、値のつく子供に書き換わった。前世の俺なら、そう注記して回覧に乗せただろう。回覧に乗せる相手も、いないのだが。
皮肉なものだ。騙されないために覚えた字が、俺を、いちばん安く売り渡せる札に近づけていく。合ってほしくない計算ほど、よく合う。これも前世で学んだ。学んでも、防げたためしはない。
けれど——それを、惜しいとは思わなかった。前の人生で、俺は人が去り、地図から名前が薄れていく土地を、何度も見送った。見送るたびに、覚え書きの一行を残した。読み返す者のいない、一行を。あれが無駄だったとは、いまも思わない。一行でも書いておけば、何が手遅れだったかを、次の誰かが知れる。たとえそのときには、もう手遅れだとしても。
字を覚えるというのは、たぶん、そういうことだ。読めなかった傷の連なりが、意味になる。意味になれば、こぼれたものを、こぼれたと、書いておける。書いておけば、忘れずに済む。俺の武器は、剣でも魔法でもない。読んで、数えて、書いておく。それだけだ。今日まで、その三つのうち一つを、俺は持っていなかった。今日、ひとつ戻った。前の俺が、机の上で最後まで欲しかったのは、たぶん、それだった。
外の路地で、また、誰かが歌っていた。粗い節だ。けれど、言葉だけが、雨漏りの滴の合間を縫って、はっきりと入ってきた。
——女神に見放された谷がある。地図にない土地がある。行った者は、誰も還らない。
歌い手は、同じ一節を二度繰り返した。最後に、ひとつだけ、声を低くして付け足した。
——あの名は、口にするな。
背筋が、すっと冷えた。火が落ちているせいだけではなかった。けれど今夜は、その付け足しが、昨日までと少し違って聞こえた。口にするな、と歌うということは、その名にはまだ字がある、ということだ。今日、俺は字が何であるかを、ようやく少しだけ知った。だから、今夜の歌は、昨日までと別の場所に引っかかった。
忘れられた土地の名は、誰も歌わない。歌う必要がない。けれど、この谷の名は、口にするなと、わざわざ節をつけて伝えられている。消えていない。隠されている。忘れさせるなら、ただ黙っていればいい。黙っていれば、勝手に薄れる。それがいちばん安い。なのに、誰かが手間をかけて、口を噤ませている。安いほうを選ばずに、高いほうを選んでいる。前世で、そういう不自然な高さに、何度か出くわした。たいてい、その下に隠したいものがあった。
——分からない。今は、何も分からない。情報がない。データのない会議は、ただの感想の言い合いだ。だから、結論は出さない。なぜ忘れさせるのではなく、口を噤ませるのか。その引っかかりだけを、頭の隅の、前に書きつけた一行のすぐ下に、もう一行だけ書き足した。鉛筆も帳面もない。書く先は、まだ頭の中だけだ。
藁は、まだ冷たい。鳴る腹も、明日へ続く。けれど、読めない文字は——もう、明日へは続かない。今日、ひとつ、読めた。明日は、たぶん、ふたつ。持っていないものを並べると、相変わらず壮観だ。子供の体。鳴る腹。値のついた自分の名。だが、その一覧から、今日、一行だけ消えた。読めない、の一行が。
体の内側から湧いていた、あの別種の冷たさ。薄まり方は、昨日とそう変わらない。ただ、薄まっている場所が、ひとつ増えた。指の、筆を握っていたところだ。たった一字、水の字を、覚えただけのことで。
壁の木板に、炭の印が並んでいる。その隣の、傷の連なりだったものが、暗がりの中でひとつだけ、意味を持って見えた。水、と。読めてしまうと、もう、ただの傷には戻らなかった。
俺は、伏せた筆のほうへ、手を伸ばさなかった。明日でいい。一日にひとつ。崩れない順で。穂先は、墨を吸ったまま、暗がりで、ゆっくりと乾きはじめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第三話です。シスター・メルが、ロウに文字と数を教えはじめる話でした。
第一話で、ロウは木板の字が読めないと分かったとき、なぜか喉が詰まりました。その理由を、彼自身は最後まで言葉にしません。今回、初めて字に触れて、書けた一字が読めたとき、同じところがまた塞がる——その対称だけを、静かに置きたかった。彼の武器は剣でも魔法でもなく、ただ「読み、数え、書いておく」こと。その三つのうち、彼はこれまで一つを持っていませんでした。今回それが、たった一字ぶん、戻ります。出発点が、火も手も足りない施設の、筆一本と小石だった、という地味さに尺を取りました。
メルは、ロウの異常な速さに、驚きの声を上げません。彼女は「慰めの前に必ず事実を置く」人で、問いは口に出さず、聖典の手垢の黒さを長く見つめることで、自分が冬を何度も使って渡った道を、この子が幾日で抜けていく隔たりを、ただなぞります。「字が読めれば、騙される回数が一つ減る」——彼女のこの言葉は、救済ではなく、いちばん低いところから出された願いです。
そして、字を覚えたことが、ロウを「値のつく子供」に変え、口減らしの帳面の上の名を、また一画濃くしていきます。覚えた字を、彼はすぐティナに回そうとします。彼の現代人の頭は、ずっと役所の人みたいに理屈をこねていますが、本当に大事な場面では、その軽口がふっと消えます。その落差を、楽しんでもらえたら嬉しいです。
連載でじっくり育てる作品です。評価・ブックマーク・感想をいただけると、次を書く励みになります。次話、孤児院に、徴税庁のお役人がやって来ます。




