第7話 重い扉
道中二日目は、特に何もなかった。
魔物も出なかったし、盗賊にも会わなかった。
宿を出る直前までイリスは宿場で鍵の開け閉めを練習していて妙に満足そうな顔をしていた……鍵だぞ。
そんなわけで、三日目の昼前にファレンに着いた。
リーデンとは空気が違う。
石造りの建物が並ぶ古い街で、商人もちらほら見るが学者のようないかにも賢そうなやつが多い。すれ違う人間の服装も、どことなく堅い。本を抱えて歩いている奴が何人かいた。
何でも屋の仕事はあんまりなさそうだな、この街。
「こっちです」
イリスが迷いなく歩き出した。
食堂では何もできなかったこの女が、ここでは完全に別人だ。どことなく表情も自信に満ち溢れているような……?
足取りに迷いがない。この街に来たことがあるのか、あるいは事前に調べ尽くしているのか。
着いたのは、街の奥まった場所にある石造りの建物だった。
看板はない。窓が少なくて、外からは中が見えない。なんとなく怪しい雰囲気もするし、知らなければ通り過ぎる。
「文献保管所です。真名に関する古い資料がここに収められています」
「……普通の図書館じゃないのか」
「一般には公開されていません。ある程度の身分か、紹介状が必要です」
「身分、あるのか?」
「家は失いましたが、名前はまだ生きています」
没落しても貴族は貴族ってことか。鍵は開けられないのに、こういう場所には入れる。世の中よく分からないな。
イリスが受付で何か書類を見せると、すんなり通された。受付の男との会話も慣れたもので、丁寧だが無駄がない。真名の話をしている時と同じだ。自分のフィールドにいる人間の動き。
……ここではこいつの方が何でも屋だな。
俺はやることがないので、後ろをついて歩く。
人間ってのは得意分野に入ると変わるもんだな。
イリスが重厚な扉の前で足を止めた。ここが目的地ということだろう。
「ふんっ……」
イリスが一生懸命に扉を引いている。
まあ、見た目からして重そうな扉だもんな、
「代わるぞ」
「だ、大丈夫です」
何故、強がる? 自分の得意分野だから全部一人でやりたいのか。
待っているのは、正直時間の無駄だ。
「……え」
イリスの手の上に俺の手を重ねる形で取っ手を握る。
俺が力を加えて引くと、一瞬で扉が開ききった。
「よし、開いたな」
「……はい。ありがとうございます……」
「気にすんな」
保管所の中は薄暗かった。
石の壁に木の棚が並び、古い本や巻物がぎっしり詰まっている。埃の匂い。紙の匂い。インクの匂い。
嫌いじゃないけど、長居する場所じゃないな。
イリスは棚の配置を確認しながら奥に進んだ。迷わない。目的の場所を知っている。
一つの棚の前で足を止め、背表紙を指でなぞりながら文献を探していく。
真剣な横顔。広場で俺を見つめていた時の熱とは違う、純粋な集中。
こういう顔もするのか、この女。
しばらく見ていたが、イリスの手が止まった。
「……ない」
「ない?」
「あるべき場所にありません」
イリスが棚を確認し直す。一つ一つ丁寧に。でも結果は変わらない。
目当ての文献が、そこにはなかった。
隣の棚も確認する。分類が変わった可能性もあるんだろう。でも、ない。
イリスの目が変わった。広場で俺を見つけた時の目に少し似ている。何かを追い詰める目。
受付に戻って確認を取った。
管理人が記録を調べる。イリスが文献の名前を正確に伝えると、管理人は分厚い台帳をめくり、あるページで手を止めた。
「……ああ、これですね。三ヶ月前に正式な手続きで貸し出されています」
「貸し出し先は」
「記録によると……『エルド・カーシュ』。王都の学術院から委任状を持って来られた方です」
エルド・カーシュ。聞いたことのない名前だ。
イリスの方を見ると、彼女も知らない顔をしていた。ただし、その目は冷たさを増していた。
「返却の予定は」
「記載なしです。無期限貸し出しの扱いになっています」
「無期限……」
イリスが黙った。
俺でも分かる。「正式な手続き」で「無期限」。つまり、それなりの権限を持った人間が、意図的にこの文献を持ち出して、返すつもりがない。
偶然じゃない。
保管所を出た。
午後の日差しが眩しい。薄暗い建物の中にいた目が慣れるまで、少しかかった。
「……どういうことだ」
「真名なき者に関する文献を、わざわざ持ち出す人間がいるということです」
「俺みたいなやつに興味がある物好きが、あんた以外にもいるってことか」
「物好きではないと思います」
イリスの声が硬い。普段の淡々とした声とは違う。
「正式な手続きを使えるのは、相応の権限を持つ人間です。学術院の委任状まで用意している。個人的な興味ではなく、組織的に動いている可能性がある」
組織的。
あの広場で商人の真名を奪った若い男。あいつも組織の末端だとしたら。
……繋がってるのか?
「次は、その『エルド・カーシュ』を追うのか」
「はい。王都の学術院に手がかりがあるはずです」
王都、か。
何でも屋として四年間放浪してきたが、王都には近づいたことがない。面倒事の総本山みたいな場所だ。
……面倒事からは全力で逃げる。何でも屋の鉄則。
でもまあ、ここまで来て「じゃあ俺は帰る」ってのも据わりが悪い。
「飯、食ってから考えるか」
「……はい」
イリスが少しだけ力を抜いた顔をした。
怒っているのか、焦っているのか、それとも別の何かなのか。分かりにくい女だ。
でも、一つだけ分かることがある。
こいつは、諦める気がない。
文献がなかった。手がかりが消えた。普通なら折れてもおかしくない。
でもイリスの目は、折れるどころか、さっきより鋭くなっている。
……強いな。鍵は開けられないけど。




