第40話 口封じの後に残ったもの
短剣の柄を布で拭いていた。
宿の部屋。夕方の光が傾いて、床に長い影を落としている。
今夜の待ち伏せに向けて、道具を一通り点検していた時だった。
「――そういえば」
ふと、手が止まった。
「昨日の男、持ち物を見てない」
フィーナとイリスが俺を見る。
「あー」
フィーナが短く応えた。自分も忘れていたという顔だった。
イリスは頬に手を当てて、少し目を逸らす。
「……私も、すっかり」
三人とも、昨日の襲撃の後は、宿に戻って情報整理と作戦会議で手一杯だった。男たちの身元を探る余裕はなかった。
もう一つ、気にかかっていることがある。
「それに、柱に縛ったままだ。一日近く経ってる」
悪人だ。奪名に加担していた連中だ。
それでも、縛って置き去りにした人間が、そのまま放置されているというのは、何か引っかかる。
「……行こうか」
フィーナが立ち上がった。
「今夜の待ち伏せの前に、廃屋の様子も確認した方がいい。連中がまた来てる可能性もある」
イリスも頷いて、地図を畳んだ。
陽が落ちきる前に、三人で廃屋へ向かった。
♢ ♦︎ ♢
廃屋の外観は昨日のままだった。裏手の木戸が、わずかに開いている。
昨日、俺たちが出入りした時は、確かに閉めた。
「誰か入ってる」
声を落として言った。
フィーナは身構え、イリスは少し離れた路地の陰に身を寄せて、外の見張り役に回る。
俺は先に、裏口から中へ入った。フィーナが一拍遅れてついてくる。
土間の先、奥の板間。
薄暗い中で、最初に目に入ったのは、柱に縛ったままの男の姿だった。
うなだれている。
喉の下が、赤黒く濡れている。
足が止まった。
床に転がしていたもう一人の男。フィーナに投げられて気絶していた奴だ。念のため、柱の脚にロープで繋いでおいた。そいつも、同じように喉をやられていた。
両方、既に冷たくなっているのは見なくても分かった。
……口封じだ。
縄は解かれていない。そうなると、逃がす気はなく、ただ黙らせるためだけに、ここに来たということか。
一瞬、動けなかった。
背後に立っていたフィーナが、俺の横に並んだ。何も言わなかった。肩が触れるか触れないかの距離だった。
――奥の部屋で、布が擦れる音がした。
意識を戻す。
俺は音を立てずに、奥へ続く戸の横に身を寄せた。フィーナも反対側に回る。
戸の隙間から覗くと、男が二人いた。
一人は、柱の男の懐を探って、何かを抜き取ろうとしている。
もう一人は、入口の方を警戒している見張り役だ。
懐を探っている男の手元に、木札が見えた。
――回収されたら、終わる。
俺は壁際の物陰から煙玉を一つ取り出して、戸の奥へ投げ込んだ。
狭い部屋の中で、灰色の煙が噴き上がる。二人の男が同時に咳き込んだ。
その瞬間にフィーナが踏み込む。煙で見えず、鈍い音と、壁に押し付けるよう音が聞こえた。
懐を探っていた男の方は、煙で方向を見失っていた。俺が背後から回って、首に腕をかけた。抵抗される前に足をかけて、床に落とす。
そいつの手が、何かを握りしめたまま硬直していた。
煙が晴れる。
フィーナが俺を気にするような目線に気づく。
見張り役の男が、一瞬の隙を突き、フィーナを振り払い裏口へ駆け出した。
「やばっ」
「追わなくていいぞ、フィーナ」
もう俺たちの存在は、バレてるはず。それに、下手に追って、こいつらの情報を失う方がまずい。
「……ごめんね」
「謝らないでいい。俺が心配だったんだろ?」
「うん……」
フィーナが小さな声で言った。
俺は、床に落ちていた男の拳を開かせた。木札が三枚。
それから、死んだ男たちの懐を改めて探った。靴の中、帯の内側、床板の僅かな隙間。
紙片が数枚出てきた。連絡点の位置らしき地図の切れ端。暗号めいた走り書き。
一番下の紙片に、読み取れる文字があった。
欠・損・研・究・
俺とフィーナの目が合った。
♢ ♦︎ ♢
宿に戻る道中、三人とも口数は少なかった。
絞め落とした男は、廃屋を出る寸前で目覚め、ふらふらと逃げていった。
フィーナは俺の半歩後ろを歩いていた。さっきの「うん……」の声が、まだどこかに残っている気がした。
宿の部屋に戻って、床に紙片を並べる。
イリスが灯りを近づけた。
「……なぜ、連中がこれを持っているのか、分かりません」
イリスの指が、欠・損・研・究・の文字の上で止まっていた。
「連中は、移植の研究に暴走していたはずです。真名核を別の人間に移す方向へ。セーラスが目指していた方向――真名を持たない人間を作る研究とは、別の道に」
「……なのに、この言葉を持ち歩いてるってことか」
「はい」
イリスの声が少し低くなる。
「私にも、理由が読めません。残党が欠損研究の資料を残しているのか、それとも、これから手に取ろうとしているのか。あるいは、全く別の意味でこの言葉を扱っているのか」
フィーナが、紙片を一枚、指で撫でた。
「でも、連中がこの言葉を重く見てるってことは、確かだよね」
俺は腕を組んで、紙片を眺めた。
研究の中身は、今は分からなくていい。
知りたいのは、この四文字を餌にして連中が動くかどうか。それだけだ。
その答えを持っている人間が、一人いる。
「婆さんに聞く」
「今夜?」
「迷惑なのは承知だが、明日まで置いておけない」
フィーナが立ち上がった。イリスも地図を畳んで、地図と紙片を布にくるんだ。
三人で、夜の街を抜けて、丘の家へ向かった。
坂道は冷えていた。家の窓にまだ灯りがついているのが、下から見えた。
婆さんは起きていた。俺たちを見て驚きもせず、孫は奥で寝ている、と短く言って中へ通してくれた。
卓の上に、紙片を並べた。
「欠損研究」の四文字を見た瞬間、婆さんの眉が一段、動いた。
「……これは、どこで」
「廃屋で、男の懐から。口は封じられていました」
婆さんが長く息を吐く。
「中身は、あたしには分からない。研究のことは、保護局の仕事じゃなかった」
「そうですよね」
「ただ――」
婆さんの目が、紙片から俺の顔に移った。
「この四文字が文書に出る時、連中の上がやけに動く。それは、あたしでも分かる」
「……どうして、それを」
「奪名される前の所長だ。あたしの元部下の。あいつが一度だけ、言い残していたことがある」
婆さんが、手元の湯呑みを両手で包んだ。
「『この言葉が出る案件は、連中にとって特別だ。上が直接動くから、気をつけろ』と。当時は意味が分からなかった。今も、意味は分からない。ただ、連中がこの言葉に反応するのは、確かだ」
イリスが小さく頷いた。
「なら、餌として機能します」
「機能する。ただし、一度きりだ。連中も学ぶ。同じ手は二度通じない」
婆さんは立ち上がって、奥の棚から紙束を取り出した。一枚を抜いて、俺に差し出す。名前と住所が書かれていた。
「昔の部下の一人だ。まだ街にいる。動ける。連絡点への仕込みは、こいつに任せればいい。明日の朝一番で会いに行きな」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。ただ、前にも言った通りだ」
婆さんが、俺の目を見た。
「動き出したら、戻れない」
俺は、頷いた。
連中は、自分の駒でも平気で切る。次は、連中にこっちの動きを読ませない。
そう決めた。
丘を下りる時、フィーナが俺の隣を歩いていた。イリスが少し前を、地図を懐にしまいながら歩いていた。




