第36話 準備不足
身体が熱い。
鏡は見ていないが、自分の目元が疲れているのは分かる。北区の暗がりを窓から見て、色々な想定をしているうちに気がついたら、日が昇っていた。
つまり、眠っていない。
「ん、ちょっと、君」
フィーナがスープの匙を止めて、こちらを見た。
「目、腫れてるよ」
「そうか?」
「寝てない?」
「ああ、まあ」
軽く返した。
フィーナは、それ以上は聞かなかった。代わりに、自分のパンを半分ちぎって、俺の皿に置いた。
「せめて、いっぱい食べときなよ」
「……悪い」
イリスも、俺の顔を見て何か言いかけて、飲み込んだのが見えた。
……仲間に気を遣わせてるようじゃ、まずいな。
作戦が始まれば集中する。そのはずだ。
♢ ♦︎ ♢
昼過ぎ、俺は一人で現場を回った。
市場の外縁、連中が潜みそうな路地、俺が身を隠せる屋根の位置、フィーナが待機する物陰、イリスが歩く予定のルート。
昨日、頭の中で描いた地図を、実際の距離感で一つずつ確認していく。
候補地点は三つ。市場の北東の角、東の仕立て屋跡、北西の酒屋の閉店跡。どれも夕方には人通りが極端に減る。俺の本命は北東の角だが、残りの二つも屋根伝いに数十秒で届く位置に配置を組んだ。
……我ながら、準備はしたつもりだ。
宿に戻ると、イリスが部屋で服を選んでいた。目立たない色の、だが若い女と一目で分かる装い。
イリスはちゃんと服選びの勘を持っていた。没落とはいえ、貴族の娘だ。こういう感覚は残っているのだろう。
「大丈夫か」
「……はい」
短く返ってきた。
手が、少しだけ震えていた。
「嫌になったら、いつでも言え」
「……大丈夫です」
嘘だと分かる。だが、踏み込まなかった。
昨日、イリスは俺に覚悟をぶつけた。その覚悟を俺のお節介で塗り潰すわけにはいかない。
震える手で、それでもやると決めているイリスを、信じるのが仲間の役目だ。
♢ ♦︎ ♢
夕方。
市場の店仕舞いが始まる時刻。俺は北東の角の、閉店した金物屋の屋根に潜んでいた。
瓦が傾いて、体重をかけると軋むが、動く時は、軋まない位置を選んで足を置く。屋根伝いに走る時の経路は、昼のうちに確認済みだ。
視界には、市場の外縁が広く入る。
イリスが歩き始めた。
一人で、目立たない歩幅で、でも「獲物」として認識される程度の緩さを保って。あれは練習して出せるものじゃない。緊張と演技が混ざって、ちょうどいいバランスになっている。
フィーナは視界の端、閉店した八百屋の裏口近くの物陰にいる。俺の位置からはかろうじて確認できるが、路地を歩く連中からは完全に死角だ。
一周目。
イリスが市場の外縁を一周する間、何も起きなかった。人通りが、少しずつ減っていく。
二周目。
北東の角に近づく頃には、市場の東側はほとんど無人になっていた。閉まった店の鎧戸が風で軋む音だけが響く。
――来た。
二周目がまもなく終わる、イリスが東の仕立て屋跡に差しかかった時、別の路地から男が二人現れた。
一人がイリスの前に、もう一人が後ろに回り込もうとする。
予想の範囲内だ。北東の角ではなかったが、三つの候補地点の一つ。俺の位置からは、屋根伝いに十数秒で届く。
瓦に手をかけ、走り出そうとした時――
視界の隅で、何かが動いた。
市場の端、閉店した乾物屋の軒下。
人影だった。
一人、立っていた。
気づいた瞬間、その人影と目が合った。相手は腕を下ろしたまま、じっとこちらを見ている。
……俺は、今、動くべきだった。屋根の上で立ち止まっている場合じゃない。
屋根の瓦を蹴って、次の屋根に跳ぶ。いつもより、一歩が重かった。
視界の先で、前の男がイリスの腕を掴んでいる。イリスが声を出したが、形になる前に飲み込んだ。
後ろに回った男が、イリスの口を塞ごうとしている。
真名干渉ではない。声を出させず、そのまま運ぶつもりだ。物理的な制圧。連中のやり方。
だが、イリスが硬直してしまっている。恐怖で動けない。
フィーナが物陰から駆け出したのが、視界の端に見えた。
――このままじゃ、間に合わない。
屋根の端から飛び降りる。路地の石畳に着地した瞬間、反動で左膝に痛みが走る。
イリスの口に、男の手が届きかけている。
フィーナが、後ろの男の背に追いついた。
――解放したのか。
駆けつけた瞬間、男を見据えたフィーナの足運びが、いつもの気だるさと全く違った。纏う空気が、わずかに重くなっている。
男の体格はフィーナより大きい。だが、フィーナは男の肩を後ろに強く引き、そのまま投げた。
「――イリスちゃん!」
叫び、フィーナがイリスを自分の背後に庇った。
前にいた男がイリスの腕を離し、仲間が投げられたことに一瞬動揺する。
その男は、自分の背後から俺が来ていることにも気づいており、俺に警戒の比重を置いているようだ。
走りながら、懐から煙玉を一つ抜いた。
男の足元に投げ込む。
白い煙が弾けて、男の視界を奪う。
煙の中に踏み込み、短剣の柄で男の側頭部を打った。
男が崩れ落ちる。
二人、制圧。
……いや。
顔を上げた。
さっきの乾物屋の軒下。
人影は、もういなかった。




