第34話 洗濯屋の娘
朝食を終え、昨夜と同様、俺の部屋に三人で集まる。
「今日は三人で、あの洗濯屋に行く」
イリスが顔を上げた。フィーナはまどろみから覚め、いつもの気だるそうな視線をこちらに向けた。
「ただ、先に言っておく」
俺は二人を交互に見た。
「家の中の娘さんは、奪名された人だ。フィーナとイリスは、中には入れないかもしれない」
フィーナが静かに頷いた。
「あー、うん。近づくと負担かけちゃうね」
前に街道沿いの村で、奪名された老人に出会った時と同じことだった。真名を持つ者は、傷ついた真名を持つ者の隣に、迂闊に立てない。イリスも当然のように頷いている。
「私も、外で待ちます」
イリスの声に迷いはなかった。
「ノウムさんにしか、できないことです」
俺にしかできないことか……はっきりと言われてしまうと不思議な気持ちになる。
「真名がない」と言うのは、不利益しか無いはずだが、こ・う・い・う・時・は、俺しか隣に立てない。
正直、困っている人の支えになれるのであれば、このまま真名がなくたって……
「じゃ、行こっか」
フィーナがいつもの調子で立ち上がった。
♢ ♦︎ ♢
裏通りの洗濯屋は、昨日と同じように紐が空っぽで、看板だけが風に揺れていた。
扉の前に立って、俺は一度深呼吸した。
勝手に踏み込むのは違うと昨日決めた。今日も、そのつもりだ。
「こんにちは」
声をかけると、奥から女が出てきた。
四十代の半ばくらい。痩せた体に、くたびれたエプロン。目の下の隈が深い。
「……洗濯なら、承ります……けど」
「違うんです」
俺は首を振った。
「旅の者です。この街のことで、少し話を聞かせてもらえませんか」
女の顔が、わずかに曇った。
何の話か、一瞬で察したんだろう。俺たちの後ろに立っているフィーナとイリスを見て、それから俺に視線を戻した。
「……あんたら、何者だい」
「何でも屋です。ラズヴェルに仕事で来ました」
嘘ではない。依頼の中身は言わない。それだけだ。
女はしばらく俺たちを見ていた。判断している目だった。
やがて、ゆっくりと扉を大きく開けた。
「……入んな」
俺が敷居をまたごうとすると、フィーナとイリスは外で足を止めた。
女が二人を見て、眉をひそめる。
「あんたたち、どうしたんだい」
「近づくと、あの子に負担かけちゃうので」
フィーナがそう答えると女は一瞬、言葉の意味を掴みかねたような顔をした。
「負担って、何だい」
「真名の気配。私たちが近づくと、あの子の弱ってる真名が、こっちの気配とぶつかって辛くなっちゃうんですよ」
女が目を見開いた。
それから、ゆっくりと、娘の方を振り返った。
居間に座っている娘の背中を見ている。
「……じゃあ、あたしも」
「……」
フィーナは、答えなかった。
女はしばらく娘の背中を見ていた。何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見える顔で。
「……そうかい」
それだけ呟いた。
俺に向き直って、扉を押さえ直す。
「……あんたは、入んな」
俺だけが、敷居をまたいだ。
♢ ♦︎ ♢
店の奥の居間は、狭くて薄暗かった。
小さなテーブルの向こうに、少女が一人座っていた。
十代後半くらい。亜麻色の髪。整った顔立ちをしている。
ただ、目が動かなかった。
こちらに視線を向けているのに、見ていない。焦点が合っていない。
「エリカ」
女が娘の正面ではなく、少し離れた位置に腰を下ろした。
「お客さんだよ」
「……」
俺は、娘……エリカの隣に、少し距離を空けて座った。
娘は俺の方を見なかった。視線は揺れない。
まるで、認・識・さ・れ・て・い・な・い・かのようだ。
真名の細かい理屈は、俺には分からない。だが、今までの情報と、エリカの反応の無さから、絞れる。俺には真名の気配がないから、エリカの負担にならない。
気づかれない代わりに、苦しめもしない。
それが、俺にできる唯一のことだ。
「あたしは、ミリィ」
女が名乗った。
「エリカの母親だ……三週間前、この子はやられた」
「何処で」
「北区の市場だよ。野菜が安いって言うからね。夕方、一人で買い物に行って、戻ってこなかった」
ミリィの声は低かった。
「次に見たのは、家の前に担がれて置かれた時だった。男二人が、この子を運んできて、そのまま置いて去った。見せつけるように」
「家まで運んでくる……?」
「そうさ。連中は、奪った人間を全員連れて行くわけじゃない。たまに、こうやって家に返してくる。家族に、街に、見せつけてる」
奪名を実行した直後の人間を、家族の前に投げ置く。恐怖の拡散として、これほど効率的な手はない。
「連中のやり方、分かる範囲で教えてもらえませんか」
「……夕方だよ。昼の人通りがあるうちは手を出さない。日が傾いて、市場が店仕舞いを始める頃。必ず二人組で動いてる」
「狙われるのは」
「若い娘か、一人で歩いてる年寄り。連れがいる相手には手を出さない。抵抗されない相手を選んでる」
頭の中に、情報が積み重なっていく。昨日酒場で聞いた話と繋がる。
ミリィが、エリカを見た。
手を伸ばしかけて、途中で止めた。
宙で、手が震えていた。
フィーナの言葉が、まだミリィの中で鳴っているんだろう。
きっとこの人は三週間、抱きしめる時も、髪を撫でる時も何処となく違和感を感じていたんだろう。
その違和感の正体が自分が近づくことにより、生まれるエリカの苦痛から来るものだと教えてしまった。俺がこの家に行くと決めてしまったせいで……
「この子はもう戻らない。分かってる。今更返してほしいなんて言わないよ」
「……」
「ただ、もう、誰もこの子みたいにならないでほしい。それだけなんだ」
ミリィの目は泣いていなかった。
泣く段階を過ぎた目だった。
泣くことすら、娘の真名に負担をかけるかもしれない。この人はそこまで考えて、泣くのをやめたのかもしれない。
俺は何も言わず、頷いた。
約束はできない。全員を助けられるとは限らない。できない約束はしない。
だが、頷くくらいはする。
ミリィがふと、俺とエリカを交互に見た。
「……あんた、エリカが嫌がってないね」
「そうみたいですね」
「この子、最近、あたしが近づくと肩に力が入るんだ。さっき、あんたの連れが教えてくれて、ようやく、腑に落ちたよ。真名の気配が、この子を苦しめてるんだって」
ミリィが、宙に浮いたままの自分の手を見た。
「あたし自身が……この子を……苦しめてたんだね……」
「……」
「でも、あんたが隣に座っても、そんなことはなさそうだね」
俺はエリカの方を見た。
「……ありがとね。真名のこと教えてくれて。あんた達が教えてくれなかったら、あたしはエリカの嫌がることをする嫌なお母さんのままだったよ」
俺は答えなかった。
真名のことを知っているだけの俺に、母親の三週間を返す言葉はなかった。
奪名された者にとって、真名の気配が近くにいるというのは、どれほどの苦痛なのか分からない。苦痛の反応を見せるだけで、一切苦痛を感じていないかもしれない。
そんな可能性を考えると、俺がこの家に踏み入れようと決めなければ、現状の幸せを維持していたんじゃないのか?
甘く見ていた。奪名被害者とその家族の関係を。壊してしまった。自己都合の行動で。
そんな後悔を抱えながら、洗濯屋を出た。




