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真名殺しの無銘 〜名前を奪う世界で、俺だけが奪われない〜  作者: 佐木凛人
第2章

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第33話 二人で聴き込み

 朝食は昨日と同じ、魚介のスープと硬いパン。ただし今日はスープに刻んだ葱が散らしてあった。昨日よりほんの少しだけ手が込んでいる。

 宿の主人の意地のようなものだろう。客が減っても、手を抜かない。


「んー、葱の香りがいいね」


 フィーナがスープを啜りながら目を細めた。


「あんたらが旨いって食ってくれるから、こっちもやる気が出るってもんだ」


 主人は苦笑しながら、厨房に戻っていく。

 イリスはパンを一口齧って、俺の方をちらりと見た。何か言いたげな目をしていたが、結局何も言わずにスープに視線を戻した。

 昨夜、俺が一度宿を出たことに気づいているのか。気づいていないのか。


「今日は俺とフィーナで街を歩いてくる。イリスは宿に残って、昨日の情報を紙に落としておいてくれるか」


「……私が、ですか」


「情報をまとめる作業はイリスの方が得意だろ。戻った時に突き合わせがしやすい」


 イリスは数秒、俺の顔を見た。何か言おうとして、飲み込んだ。


「……分かりました」


 声に、いつもよりほんの少しだけ硬さがあった。

 フィーナはスープを飲み干して立ち上がった。


「じゃ、行こっか」


 ♢ ♦︎ ♢


 街に出ても、方針が定まっていたわけじゃなかった。

 中央通りを外れて、裏の通りを歩く。店の半分以上は板で窓を塞いでいる。残党の拠点がある北区には近づかない。今日は南寄りから街の空気を拾う。


「何を探すか、決まってる?」


 フィーナが歩きながら聞いた。


「決めてない。歩いてみて、何か引っかかるのがあればそれを追う」


「行き当たりばったりだ」


「何でも屋はそんなもんだ」


 フィーナは小さく笑って、それ以上聞かなかった。


 裏の通りに入って、しばらく歩いた時だった。

 足が、自然に止まった。

 一軒の小さな店の前。


「洗い物承ります」

 色褪せた木の看板。店先に洗濯物を干す紐が張ってある。

 ただ、洗濯物が一枚もなかった。

 港町の洗濯屋。しかも看板を出している以上、商売は続けているはずだ。にもかかわらず紐が空っぽで、張った紐だけが風に揺れている。

 それだけなら「客が減った」で説明がつく。

 引っかかったのは、窓だった。


 薄暗い店の奥、居間と思しき部屋の卓袱台。

 少女が一人、座っていた。

 十代後半くらい。亜麻色の髪。整った顔立ちをしている。

 だが、目が動かない。

 卓袱台の一点を見ているようで、見ていない。焦点が合っていない。

 昨日、北区の路地で布に包まれて運ばれていた人間を思い出した。


「……君」


 フィーナが隣で、窓の方を見ていた。


「ああ。見えた」


「行くの?」


「いや」


 俺は首を横に振った。


「今日は通り過ぎる。事情も分からず家に踏み込むのは、最悪の手だ。親父さんに聞いてみる」


 フィーナは頷いて、俺と並んで歩き出した。

 洗濯屋の前を、ゆっくりと通り過ぎる。少女はこちらに気づいた様子もなかった。


 ♢ ♦︎ ♢


 酒場は、一軒だけ開いていた。

 昼過ぎの店内は薄暗く、客は漁師風の男が二人、昼から酒を飲んでいるだけだった。

 俺たちは隅の席に座り、安い魚料理と水を頼んだ。

 俺は旅商人のふりをすることに決めていた。仕事を探しに来たが、街がこの有様で困っている、という演技でいこう。

 それなら現地の情報を集めて回っていても不自然じゃない。


「兄ちゃん、どこから来たんだい」


 漁師の一人が、絡むでもなく声をかけてきた。退屈していたんだろう。


「グレンザールから。商売の話で来たんだが、港が止まってるって聞いてなかった」


「そりゃあ運が悪いな。もう半月になるよ」


「港を止めてるのは、例の連中ですか」


 漁師が鼻を鳴らした。


「そうさ。船頭の何人かは逆らって、今は行方知れずだ。残った奴らは連中の言うことを聞くしかない。船を出したい時だけ、連中が許可を出す仕組みだ」


「……酷いですね」


「それだけじゃねぇ。一度、夜にな」


 もう一人の漁師が、声を低くした。


「北区の方から、女の悲鳴と、男の怒鳴り声が、同時に聞こえた夜がある。あれは、殺されてる声だった」


 店内が一瞬静かになった。

 フィーナは水を飲みながら、表情を変えずに聞いている。


「連中の中には、妙な奴もいるらしいぜ」


 また別の方向から声がした。カウンターの奥で、酒場の主人が口を開いていた。


「妙な奴、というと」


「紙束だの、瓶だの、器具だのを運び込ませてる奴がいるんだ。見張りとは格好が違う。学者みたいな風体だって、市場の連中が言ってた」


「研究者が、あの中にいる……」


 俺の呟きに、酒場の主人が頷いた。


「何の研究だか知らねぇが、ろくなもんじゃないのは確かだ」


 フィーナが水のコップを置いた。


「その学者みたいな人、何人くらいいるんですか」


「さあ、はっきりとは。ただ一人や二人じゃないって話だ」


 フィーナはそれ以上聞かなかった。

 俺も、これ以上踏み込むと旅商人のふりが崩れる。適当に世間話をもう少し続けて、酒場を出た。


 外に出て、フィーナが息を吐いた。


「研究、続けてるんだね」


「ああ」


「セーラスがいなくなっても、残党の中で、同じことを続けてる」


「……潰す理由は、十分だな」


 フィーナは少し歩いてから、低く呟いた。


「うん」


 短かった。

 だが、今日のフィーナの「うん」は、いつもの「うん」より重かった。


 酒場を出て、真っ直ぐ宿に戻る、日はまだ完全には傾いていなかった。

 食堂のテーブルで、イリスが紙に何か書き込んでいた。俺が昨日伝えた情報――見張りの数、配置、交代周期、勝手口の位置――が、整った字で図解されている。


「戻ったぞ」


「……どうでしたか」


 イリスが顔を上げた。声はいつも通りだが、俺とフィーナを交互に見る目が、朝よりほんの少しだけ鋭くなっていた。


 厨房から親父さんが顔を出した。


「早かったな。茶でも飲むかい」


「ありがとうございます……一つ聞いていいですか」


「なんだい」


 俺はイリスの紙から目を離して、親父さんに向き直った。


「裏通りの洗濯屋がありました。看板は出ているのに、紐には何も干してなくて。家の中に外をずっと見つめている娘さんが一人」


 親父さんの手が止まった。

 一瞬の沈黙があった。親父さんの顔が曇る。


「……見ちまったか」


 親父さんはしばらく黙っていた。湯が沸く音だけが厨房から聞こえる。

 やがて、低い声で言った。


「……あの家のことは、俺の口からは話さない。話す筋合いの話じゃねぇんだ」


「……」


「ただ、一つだけ言わせてくれ。もし、あんたらがあの家を訪ねる気なら――」


 親父さんが、俺の目を真っ直ぐ見た。


「あの人の心を、これ以上、乱さないでやってくれ。それだけだ」


「……約束します」


 親父さんはそれだけ言って、厨房に戻っていった。

 茶を出す話は、どこかに流れた。


 部屋に上がって、三人で床に座った。

 フィーナがイリスの図を見ながら、今日聞いた話を伝える。


「そして、拠点の中に研究者がいる。一人や二人じゃない。紙、瓶、器具を運び込ませている」


「……エルド・カーシュの研究を、続けているんですね」


 イリスの声が、わずかに硬くなった。


「それと、港。船頭は連中に押さえられてる。逆らった奴は行方不明だ」


 一通り書き終えると、紙の上にはラズヴェルの現状がある程度の解像度で浮かび上がっていた。


「……街に出ている二人組を押さえれば、拠点の内部情報が取れます」


「ああ。そして拠点の人数が減っている時間帯に合わせて、何らかの動きが取れる」


 フィーナが頬杖をつきながら口を開いた。


「でも、それって、誰かが標的になってる前提だよね」


 沈黙が落ちた。

 連中を押さえるためには、連中が動かないといけない。連中が動くためには、獲物が必要だ。


「……囮が要ります」


 イリスが静かに言った。


「囮……か……」


 俺は腕を組んだ。


「囮なら、俺が――」


「――私が、やります」


 一瞬の沈黙が流れる。

 フィーナが頬杖を外して、静かに口を開いた。


「……囮は最終手段にして、別の方法を考えようよ」


「……今日は、ここまでだ。方針は見えた。あとは明日、もう一度詰める」


 イリスは何か言おうとして、飲み込んだ。

 フィーナは、苦虫を噛み潰したような顔をして、立ち上がる。


「じゃあ、私、先に部屋戻るね」


 フィーナが出ていった後、イリスは紙を片付けながら、顔を上げずに呟いた。


「……今日は、フィーナさんと、お疲れさまでした」


「ああ」


「次は、私も一緒に、行けますか」


 イリスの声は、平坦だった。

 平坦だからこそ、何かを抑えていることが分かった。


「ああ、明日は三人で動こう」


「……はい」


 イリスは紙を胸に抱えて、部屋を出ていった。

 扉が閉まった後、俺はしばらく天井を見た。

 囮の問題。イリスを囮にするという選択肢。

 明日、あの洗濯屋に行くかどうかの判断も含めて、まだ答えは出せなかった。

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