第32話 邂逅
イリスとフィーナが部屋を出てからしばらく考えていた。窓の外はいつの間にか夜の闇に包まれていた。
昼間見た富豪の空き家――残党の拠点も、輪郭だけが夜空に沈んでいる。
宿の主人が注意していた「北区には近づくな」の言葉が、昼と夜で違う重さで響く。
奪名被害者のこと。拠点攻略のこと。考えなければいけないことは様々ある。
だが、俺が気にしているのは。
――ハディ。
昼間、路地を横切った男の歩き方が、まだ頭に残っている。左肩がわずかに下がった歩き方。二年前、俺が毎日横で見ていた歩き方だった。
フィーナにもイリスにも、あいつのことは話していない。話す機会を逃した、というより、話さない判断をした。
仲間に背負わせる話じゃない。俺の個人的な因縁だ。
……そう自分に言い聞かせている時点で、少し怪しい。
煙玉と投擲ナイフが入った、革鞄だけを持つ。戦いに行くわけじゃない。確かめるだけだ。
宿の扉を、音を立てないように開けた。
……確かめるだけだから。
♢ ♦︎ ♢
夜のラズヴェルは、昼以上に静かだった。
港町なのに、潮騒以外の音がない。閉店した店の前にゴミが積まれ、誰も片付けていない。
昼と同様、住民は家に閉じこもっている。窓の隙間から漏れる数少ない灯りが、微かに道筋を照らす。
二年前の夜はこうじゃなかった。
港に近い通りは夜市が立ち、干し魚と潮の匂いが混ざり合って、酒場からは笑い声が溢れていた。俺が居た安宿の屋根裏で、夜になるとあ・い・つ・と二人で、稼いだ分を数えながら飯を食いに出た。
……ああ、思い出したところで仕方ないな。
足が自然に向かう先があった。
大通りから一本入った、細い路地の奥。看板もろくに出ていない、地元の漁師と酔っ払いしか来ない酒場。二年前、あいつが仕事の話をよく持ち込んできた場所だ。
路地に入ると、酒場の明かりがぼんやりと漏れていた。営業はしているらしい。
表から入る気はなかった。店の裏手に回る。昔から、あ・い・つ・が出入りに使っていた勝手口がある。
優先しなければいけないのは、これではない。
だが……
勝手口の横の壁に、背中を預けて待った。
どれくらい待ったのかは分からない。十分か、三十分か。
やがて、勝手口が開いた。
出てきた男の、左肩がわずかに下がっていた。
「……ハディ」
男の足が止まった。
ゆっくりとこちらを向いた顔は、昼間に路地の向こうで見た顔だった。
ただ、昼より老けて見えた。目の下の隈が深い。頬が削げている。
元々、華奢な奴だが二年で、ここまで痩せるものなのか。
「……ノウム」
ハディが、俺の名前を呼んだ。
声が掠れ、驚いてはいる。だが、取り乱してはいない。
まるで、予期していたような反応だ。
「久しぶりだな」
俺がそう言うと何秒か、沈黙があった。
酒場の中からくぐもった笑い声が漏れてくる。それ以外の音がない。
「なんでここにいる」
ハディが聞いた。
「仕事で来た」
「……何でも屋か」
「ああ」
ハディの目が、俺の全身をさっと見た。服装、装備、姿勢。昔と同じ癖だ。仕事に入る前、あいつはいつも相手をこうやって見ていた。
「関わるな。この街から今すぐ、出ろ。」
「……は?」
「耳が悪くなったか。関わるな。帰れ」
ハディの声は平坦だった。脅しでも忠告でもない。
「あんた、残党側なのか」
ハディは答えなかった。
目を逸らしもしない。認めることも否定もしない。
息を一つ吐く。
二年前のことを訊くのに、こんなに準備がいるとは思わなかった。
準備しているうちに、訊きたい気持ちの大半が風化していくのを感じる。
「あの金の話については何もないのか?」
ハディの顔が、ほんの少しだけ動いた。
「……悪かった」
それだけだった。
「今更どうにもならねぇのは分かってる。言い訳もしねぇ」
謝罪は短かった。短すぎるくらいだった。
俺は、自分の中で何が動くのか、少し待ってみた。怒りが湧くか、赦す気持ちが湧くか、何かが動くはずだと思った。
動かなかった。
あいつは昔、俺の金を持って消えた男で、今、俺の前で「悪かった」と言った男だ。それだけの話。どっちでもいい男に、戻った。
……二年、長かったんだな。
「分かっ――」
「――もう一度言う」
ハディが、俺の言葉を遮るように口を開いた。
「関わるな。ここは、昔お前が見た街じゃない」
昼間の残党の見張り、奪名された人間を運ぶ二人組、港の閉鎖、保護局の機能停止。全部、俺が自分の目で見た。
「昔お前が見た街じゃない」。そんなことは、言われなくても分かっている。
「……余計なお世話だ」
ハディは、何も返さなかった。
俺は踵を返した。ハディは引き止めなかった。足音も追ってこない。
振り返らなかった。振り返っても意味がない。
♢ ♦︎ ♢
宿に戻ると、一階の食堂にフィーナが一人で座っていた。
テーブルに肘をついて、湯気の立つカップを両手で包んでいる。燭台の明かりが、気だるそうな横顔を照らしていた。
俺に気づいても、驚いた様子はなかった。
「……眠れなかったのか」
「んー、そんな感じかな。君は?」
「ちょっと、風に当たってた」
「ふぅん」
フィーナは、それ以上聞かなかった。
聞かないことが、フィーナの問いかけ方なのだと、最近ようやく分かってきた。
「温かいの、飲む?」
「いや、寝る」
「そっか」
俺は階段を上がり、部屋に戻った。
扉を閉めて、革鞄を雑に放り投げ、ベッドに横になると、天井の木目が目に入った。
ハディのことは、やはり仲間には話さないでおこう。話す必要がない話になった。
……あとは明日からの偵察だ。やることは変わらない。




