第30話 北の港町
丘を越えた瞬間、海が見えた。
灰色がかった青。水平線が空と溶け合っている。その手前に、街が広がっていた。
石造りの建物が海岸線に沿って並び、港には帆柱が何本も突き出ている。街の規模はグレンザールより大きい。北方最大の港町。ラズヴェル。
二度目のこの景色だった。前に見た時と同じ海、同じ街並み。あの時は一人で、この丘の上で「でかい街だな」と呟いた記憶がある。
「……綺麗ですね」
イリスが隣で息を呑んでいた。
「海鮮が楽しみ」
フィーナは相変わらずだった。
「表の街道は使わない。東の海岸線沿いに回る」
丘を下りて、街道から外れた。東の海岸線に沿って伸びる細い道。漁師が船着場まで通うために使う小道で、岩場の上を歩く。潮風が強く、足元が濡れていた。
先導は当然俺。二年前もここを歩いたから。
「足元、気をつけろ。岩が滑る」
「はい」
イリスが慎重に歩いている。岩場は歩き慣れていないらしく、一歩ずつ確かめるように足を置いていた。
手を貸そうと腕を伸ばしかけた。
「大丈夫です」
断られた。
断った直後、イリスの足が濡れた岩の上で滑った。体が傾く。
腕を掴み、引き戻す。イリスの体が元の位置に戻った。
「……ありがとうございます」
「大丈夫じゃないだろ」
「……善処します」
フィーナは後ろで平然と歩いていた。
戦闘面も含めてフィーナは逞しいな。
ちらりとこっちを見て、何も言わずに視線を戻した。
岩場を抜けると、小さな入り江に出た。東の漁港だ。
漁船が何隻か停泊しているが、人の姿がない。網を繕う漁師も、魚を運ぶ商人もいない。港町の漁港にしては静かすぎた。
漁港から裏通りに入る。狭い路地。石壁に挟まれた道を歩いて、街の中に入った。
ここでも最初に気づいたのは、人の少なさだった。
港町なのに活気がない。商店の半分は板で窓を塞いでいる。通りを歩く人間がほとんどいない。
ただし無人の村とは違う。家の中に住民がいる。窓の隙間からこちらを窺う目が、いくつかあった。怯えている目だ。
街の記憶を辿りながら歩く。
二年前と変わっている場所、変わっていない場所。あの角を曲がれば市場がある、あの路地を抜ければ港が見える。体が覚えている。
この通りで仕事を受け、あの酒場で飯を食った。
そして。
あの宿で、あ・い・つ・と組んでいた。
通りすがりに見えた宿の看板が、一瞬だけ目に留まった。まだ営業しているのかは分からない。分からなくていい。
「どこに向かっているんですか」
「泊めてもらえそうな宿を探してる」
「あるかなぁ」
「なきゃ困る」
見つけた宿屋は、全て扉が閉まっており、営業していなかった。
今日も野宿か? と考えていた時、裏通りに、小さな宿を見つけた。
看板が傾いており、ダメ元で扉を確認すると開いていた。
中に入ると、宿の主人が顔を上げた。五十過ぎの男。疲れた顔をしていたが、客が来たことに少し表情が緩んだ。
「泊まれますか」
「あ、ああ、泊まれるよ。部屋は余ってる……最近は客なんてほとんど来ないからな」
「何があったんですか、この街」
宿の主人が溜息をついた。
「半月くらい前からだ。黒い外套を着た連中が北区にある富豪の空き家に居座り始めてね。最初は数人だったのが、いつの間にか増えて、その周辺も……はぁ、今じゃあの辺り一帯を仕切ってて、名前を盗って……」
「憲兵は? 奪名をしているなら保護局も絡んでくるんじゃないですか?」
「名前を盗られたのは憲兵なんだよ……出張所の職員は逃げて、連中が出張所を閉鎖させた。港が止まったのも、あいつらが船を押さえてるからだ。商売ができなくなって、住民は出ていく一方さ」
「……何が目的なんですかね」
「さあな……北区に近づいた奴は追い返されるし、中で何やってるかは分からない。ただ、真名を奪われた人を引き摺って北区に連れて行ってるって話は聞いたよ」
実験か。
「なるほど……ありがとうございます。しばらく世話になります」
「気をつけなよ。北区には近づくなよ」
部屋を二つ取り、銀貨を払う。
部屋に荷物を置いて、俺の部屋に集まった。食堂は一階にあるが、今日は部屋で話す。壁が薄いから声を落として。
「整理しよう」
床に座って、声を抑えながら話す。
「残党は北区の空き家に拠点を構えている。富豪の空き家って言ってたから、中々の規模なはずだ。そして、船を押さえて港を閉鎖。保護局の出張所は機能停止。住民は怯えている」
「グレンザールとは、規模が全然違いますね」
「向こうは一拠点だったが、ここは街の一角を丸ごと押さえてる。人数も多いはずだ」
「で、どうするの。グレンザールの時みたいに広場に立って待ち構える?」
「さすがにそれは無理だ。相手の数が分からない。正面からぶつかるのは下策だ」
「なら」
「まずは偵察する。北区の拠点の規模、人数、配置。それを把握してから作戦を立てる」
偵察……それなら。
「明日、俺一人で北区を見てくる」
フィーナの口が一瞬動いた。何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに出てきたのは短い問いだけだった。
「……一人で?」
「偵察は一人の方が目立たない。俺は街に溶け込むのも慣れてる」
「危険ではないですか」
イリスが聞いた。
「危険じゃないように動くのが偵察だ。見つからなければ危険はない」
「見つかったら?」
「その時は逃げる。何でも屋の鉄則その一だ」
「鉄則なんてあるんだ。何番まであるの?」
「覚えてない」
フィーナが少しだけ笑った。だが、いつもの笑顔とは違う、目だけが笑っていなかった。
反対はしなかった。俺が一人で動いた方がいいと、分かっているんだろう。
夜になり、窓からラズヴェルの街並みを見る。
北側は暗かった。灯りが少ない。
二年前と違う景色だ。




