第3話 理の外
真名がない。
言葉の意味は分かる。言葉として理解できる。だが、意味が分からない。
「……どういうことだ」
「そのままの意味です。あなたには真名がない。存在しない」
「いや、待ってくれ。真名ってのは誰でも持ってるもんだろ。知らないだけで」
「そうです。誰でも持っています。自覚がなくても、真名は必ずそこにある。生まれた時から」
イリスの声は淡々としていた。
「でもあなたには、それがない。知らないのではなく、存在していない。……少なくとも、私にはそう見える」
「見える?」
「真名に関する知識が深ければ、ある程度は感じ取れます。真名を持つ人間には、固有の……気配のようなものがある。あの広場にいた全員にそれがあった。奪名犯にも。奪名された商人にさえ、残り香のようなものがあった」
イリスが俺を真っ直ぐに見た。
「あなたにだけ、何もなかった」
……何もない、か。
何でも屋のくせに、何もないと言われるのは少し傷つくな。
いや、そういう話じゃないか。
「じゃあ聞くけど、真名がないと何が困るんだ? 今まで普通に生きてきたけど」
「困らないから問題なんです」
意味が分からない。困らないなら問題ないだろ。
「真名がない人間は、本来存在しません。真名とは人の本質そのもの。それがないということは、この世界の理の外にいるということです」
理の外。
大層な言い方だな。何でも屋が世界の理の外にいるってのは、なかなか壮大な話だ。
「威圧が効かなかったのも、それが理由です。威圧は真名を通じて作用する。あなたには真名がないから、共鳴する先がない。だから何も届かない」
あの広場で、周りの人間が膝を震わせてたのに俺だけ平気だった理由。
恐怖に鈍いわけでも、度胸があるわけでもなく。
単に、受け取る器がなかったということ。
……なんか、仲間はずれにされたみたいでそれはそれで寂しいな。
強いから効かなかったわけじゃなくて、蚊帳の外だったから効かなかった。
「あなたは真名解放もできない。そうですよね?」
「……まあ、やり方を知らないし、やったこともないけど」
「やり方の問題ではありません。解放する真名がないんです」
やっぱり直球だ、この人。濁したり、オブラートに包んだりしない人だ、この人。
でも否定できる材料がない。
そもそも真名を意識して生きたことがない。
いや、真名がないから意識してこなかったのか?
「逆に言えば、真名に関するあらゆる力が、あなたには届きません。干渉も、奪名も。味方の力も」
「味方の力も?」
「真名を通じた鼓舞や支援。仲間の真名解放に呼応して力が底上げされることもある。そういったものが、全て届かない」
つまり、敵の力も味方の力も、どっちも素通りするってことか。
損してるのか得してるのか分からないな。
いや、奪名されないってのは相当な得か。さっきの商人の目を思い出すと……あれだけは勘弁だ。
でも味方の恩恵も受けられないってのは……まあ、そもそも味方がいないから関係ないか。
「……で? わざわざ追いかけてきて、俺に真名がないことを教えてくれたのは親切心か?」
「いいえ」
即答。清々しいぐらいの即答だ。
「私にも……真名に関する問題があります。詳しくは今は話せません。ですが、あなたの存在は、その問題を解く鍵になるかもしれない」
話せません、ときた。
こっちには色々喋らせておいて、自分の事情は伏せるのか。
まあ、初対面で全部話す方がおかしいか。俺だって自分の過去を初対面の人間に語る趣味はない。
目の奥の熱。さっきからずっとあるやつ。
興味だけじゃない。必死さだ。
こいつは何かを抱えていて、俺にそれを解いてほしいと思っている。
「……つまり?」
「私と一緒に来てください」
来た。
面倒事の本命が来てしまった。
初対面の女に「一緒に来い」と言われるのは、何でも屋の仕事を4年やってきて初めてだ。依頼とも違う。頼み事とも違う。もっと個人的な、切実な何か。
何でも屋の鉄則その一。面倒事からは全力で逃げる。
……いや、二か? さっきもそんなこと考えてた気がする。
問題は、これが面倒事なのかどうかだ。
イリスの目を見る。
冷たい目。でもその奥に、ぞっとするほどの熱。
断れば、こいつはたぶん引き下がる。追いかけては来ない。あの切実さは、押しつける類のものじゃない。
断れば、俺はまたいつも通りの放浪に戻る。次の街で掲示板を見て、仕事を受けて、飯を食って、また歩く。
何も変わらない。
……何も変わらない、か。
それで、いいのか?
「飯は出るのか?」
「……は?」
「飯。食事。腹が減ってるんだ。飯が出るなら考える」
イリスが、一瞬だけ目を瞬いた。
冷たい顔が、ほんの少しだけ崩れた。
困惑。たぶん、想定していた返答の中にこれはなかったんだろう。
「……出します」
「じゃあ考える」
行くとは言ってない。考えると言っただけだ。
でもまあ、たぶん――考えた時点で、答えは出てるんだろうな。
何でも屋の勘が、そう言っている。




