第2話 黒髪の女
面倒事からは全力で逃げる。
何でも屋としての鉄則その一だ……いや、二だったか? まあ、どっちでもいい。
広場を離れ、大通りを早足で歩く。
街の兵士が奪名犯を取り押さえている間に、この街を出る。顔を覚えられたら事情聴取だの証人だのと面倒なことになる。
正義感なんて、腹の足しにもならない。
腹……飯は……次の街で何とかしよう。掲示板、結局見れなかったな。
空腹のまま街を出るのは辛いが、面倒事に巻き込まれるよりはましだ。
人混みに紛れて街の東門に向かう。門さえ出れば、あとは適当に歩いて次の街を目指すだけだ。いつも通りの撤退。いつも通りの放浪。
何も変わらない。何も変わらないはずだった。
「待ってください」
俺のことじゃないよな?
歩く速度を少し上げる。
「待ってくださいと言っているんですが」
あー、駄目だこれ。
声が近い。しかも足音が速い。明確にこちらを追いかけてきている。
……聞こえなかったことにするのは無理があるな。
足を止めて振り返ると――さっきの黒髪の女が、数歩後ろに立っていた。
走ってきたはずなのに息が乱れていない。整った顔立ちに冷たい目。近くで見ると、服装は質素だが仕立てが良い。生地の選び方に品がある。どこかの良い家の出か、あるいはかつてそうだったか。
そして目の奥に、広場で感じたのと同じ――ぞっとするような熱。
……嫌な予感しかしない。
「何か用ですか」
「さっきの戦い、見ていました」
「ああ、はい。大勢見てたと思いますけど」
「あなた、何者ですか」
直球すぎる。
せめて、最初にワンクッション挟むと思っていたが、この女。前置きも世間話もなしにいきなりそれか。
「何でも屋。通りすがりの」
「……それはさっきも聞きました」
あ、聞いてたのか。敵と俺のやり取りまで聞いてたってことは、結構近くで見ていたらしい。あの状況で近くにいられるのは、肝が据わっているのか、別の理由があるのか。
「何でも屋が答えですよ。嘘は言ってないです。それ以上でもそれ以下でも」
「では質問を変えます」
女が一歩、距離を詰めてきた。近い。
逃げたい。逃げた方がいい。何でも屋の勘がそう言っている。
だが足が動かない。別に威圧されてるわけじゃない。
ただ、この女の目が、何かを確かめずにはいられないという、切実さを帯びていた。
「あの広場で、あなたは真名解放の威圧を受けていませんでした」
「……威圧?」
「真名を解放した人間の近くにいると、周囲の人間は体が強張ります。立っているのがやっとになる。あの広場にいた人間は全員、その影響を受けていました」
言われてみれば、確かに野次馬たちの様子はおかしかった。膝を震わせていたり、座り込んでいたり。恐怖で腰が抜けたんだろうと思っていたが――そうじゃなかったのか?
「あなただけが、平然と立っていた。走って相手に近づき、戦闘まで行った。あの距離で威圧を受けない人間は普通いません」
「……たまたまじゃないですか。俺、鈍いんで」
「鈍さの問題ではありません」
即答された。
「威圧は真名を通じて作用するものです。鈍感だから効かないとか、気合いで耐えたとか、そういう話ではない。真名を持つ人間には、例外なく作用します」
妙に詳しい。
というか、詳しすぎる。真名について、ここまではっきり仕組みを語れる人間にはそうそう会わない。酒場の酔っ払いとはわけが違う。
「……あなた、何者ですかって聞きたいのはこっちなんですけど」
「イリスです」
「……聞いてない」
「聞かれたので答えました」
こいつ、ペース崩れないな。
歴戦無敗である何でも屋の口八丁が通じる相手じゃない。
理詰めで来る人間に酢漬け香辛料は効かない。物理的には効くけど、たぶん怒られる……怒られるどころじゃないか。
「……ノウムです。何でも屋の。それで、結局何が言いたいんですか」
「少し、話を聞いてもらえませんか」
「今から街を出るところなんですけど」
「すぐ終わります」
すぐ終わる。この手の「すぐ終わる」がすぐ終わった試しがない。
護衛の仕事で「荷物は少ないから」と言った商人の荷馬車には、荷馬車三台分の荷物が積まれていたり、ちょっとした揉め事が大規模な抗争だったりしたことがある。
だがイリスの目を見ると、断る隙がなかった。この女は「いいえ」を受け付ける構造をしていない。
「……手短にお願いします」
「あなたに、確認したいことがあります」
イリスがもう一歩、距離を詰めた。
冷たい目の奥の熱が、さっきよりも強くなっている。近くで見ると、それは興味とか好奇心とか、そんな軽い言葉で収まるものじゃなかった。
もっと大きなものだ。
すがるような、と言ってもいいかもしれない。
……何でそんな目で俺を見るんだ。
「あなたには――真・名・が・な・い・」
「…………は?」
意味が分からなかった。
真名がない? 何を言ってるんだ、この人。
偽名なら持っている。ノウム。さっき名乗った通りだ。
いや——偽名じゃなくて真名の話をしているのか? 俺の真名がな・い・?
そもそも、自分の真名なんて知らない。知らないが、それは別に俺だけの話じゃないだろう。
知らないのとな・い・のは、違うんじゃないのか。
何か言い返そうと口を開きかけて、イリスの目を見た。
冗談を言っている目じゃなかった。




