第1話 真名が効かない
腹が減った。
干し肉を齧りながら、街の大通りを歩く。前の街で受けた護衛の仕事は三日間、荷馬車の上で商人の身の上話を聞かされ続けるという拷問だった。
報酬はまあまあ。飯代を引くとほぼ残ってない。
つまり腹が減っている。
革鞄の中身を頭の中で数える。短剣が二本、投擲ナイフが四本、煙玉が一つ、酢漬け香辛料の小瓶が二つ。
……武器より調味料の方が実戦で役に立つってのは、何でも屋の悲しい現実だ。
この街――リーデンとかいう名前だったか――はそれなりに大きい。交易の中継点だと聞いた。掲示板に行けば何かしら仕事はあるだろう。
飯が食える仕事であれば何でもいい。何でも屋なんだから。
「――あんた、冒険者かい?」
通りすがりの露店の親父に声をかけられた。腰の短剣と、くたびれた革鞄が目についたんだろう。
「まあ、似たようなもんです。何でも屋ってやつで」
「なら気をつけな。最近この辺り、物騒な話が多い」
親父が声を落とした。
「――名前を盗る連中がいるらしい」
「へえ。怖い話ですね」
軽く流して歩き出す。
名前を盗る、か。真名を奪うとかいう、ろくでもない連中の話。酒場で酔っ払いが震えながら語るのを何度か耳にした程度の知識しかない。
正直、自分にはあまり関係のない世界だと思っていた。
――この時は、まだ。
掲示板のある広場に差しかかったところで、空気が変わった。
人だかりができている。だが祭りだとか大道芸だとか、そういう楽しい人だかりじゃない。人々が後ずさりしている。逃げたいのに足がすくんで逃げられない、そういう顔だ。
……面倒事の匂いがする。普段なら避けて通る。
だが掲示板は広場の向こう側にあった。飯がかかっている。
人垣の隙間から、広場の中心が見えた。
二人の男が対峙している。
片方は中年の商人風の男。地面に膝をつき、顔は蒼白で、額に脂汗を浮かべていた。口が動いているが声になっていない。
もう片方は――若い男だった。俺と同い年くらいか。痩せた体に黒い外套。表情がない。無感情というより、感情を使う必要がないという顔だ。
そいつの周囲の空気がおかしかった。濃い。重い。大気そのものが、そいつの周りだけ質が違う。
真名を解放している。
見たことはないが、聞いたことはある。真名を解放した人間は纏う空気が変わると。
……なるほど。これが、そうか。
周囲の野次馬たちの様子がおかしいことに気づいた。
怯えている……のは分かる。目の前で物騒なことが起きているんだから当然だ。だがそれだけじゃない。
足が縫い付けられたように動けずにいる者。
膝から力が抜けてしゃがみ込んでいる者。
歯を食いしばって立っているだけで精一杯の者。
真名を解放した人間の力は、周囲にも影響するらしい。
俺は特に何も感じなかった。
若い男が口を開いた。
「――『マーチャント』」
一言。低く、だが広場の隅まで届く声。
直後、商人の体が硬直した。
膝をついたまま、まるで見えない鎖で全身を縛られたように一切の動きを止めた。指一本動かせない。目だけが狂ったように左右に動いている。
助けてくれ。誰か。声にならない悲鳴が、その目から溢れていた。
……あれが、干渉か。真名を知られ、呼ばれた人間に起こるという。
さっきの圧とは明らかに別物だ。名指しで、一人だけを縛り上げている。
若い男が商人に歩み寄る。ゆっくりと。追い詰める必要すらないという足取りで。
商人の額に、手を触れた。
――商人の目から光が消えた。
糸の切れた人形みたいに体が崩れ落ちる。さっきまで恐怖に震えていた目が、何も映さない空洞になっていた。
生きてはいる。胸は上下している。
だがそこにいた「人間」は、もういなかった。
奪名。
広場が静まり返った。
俺は干し肉の最後の欠片を飲み込んだ。
――胸糞悪い。
若い男が踵を返す。広場から去ろうとする。
人々は道を開けた。誰も止めない。止められるわけがない。圧で足が動かないんだから、そもそも立ち塞がるという選択肢がない。
……だよな。普通はそうだ。
だが男が広場の出口に向かう途中、その進路上に――たまたま、俺が立っていた。
飯がかかってるんだ。掲示板は広場の向こう側なんだ。
……いや、嘘だ。理由はそれじゃない。
さっき見た商人の、空っぽの目が――少しだけ、気に障った。
「……どけ」
若い男の声には感情がない。
「いや、掲示板見たいんで」
「……は?」
あ、怪訝な顔された。まあそうだろうな。
自分でも何を言ってるのかよく分からない。
若い男の目が細くなった。
俺を見ている。怪訝から、別の何かに変わった。
「――なぜ立っていられる」
「……は?」
「真名を解放した俺の前で、なぜ平然と立っている。ありえない」
何の話だ?
立ってるのが珍しいのか? ……確かに周りを見れば、野次馬たちは膝を震わせたり座り込んだりしている。あれは恐怖のせいだと思っていたが――違うのか?
よく分からないが、相手が動揺しているということだけは分かった。
そしてそれは、戦いにおいて最大の好機だ。
――四年間の放浪で学んだ、数少ない真理。
右手が自然と腰の短剣に伸びていた。
若い男も立ち直るのは早かった。動揺を押し殺して、黒い外套の下から細剣を抜き放つ。一直線に俺の喉を狙ってくる。
速い。
常人の反応で追いつける速度じゃない。真名解放中の身体能力ってやつか。
正面から受けたら終わる。だから受けない。
短剣の腹で軌道を逸らす。勢いを殺さず、進行方向だけを変える。
切っ先が頬を掠めた。一筋の熱。
……結構ギリギリだった。
そのまま懐に潜り込む。革鞄から引き抜いたのは――小瓶。
中身を顔面にぶちまけた。
「――っ!?」
酢漬け香辛料。目潰しである。
何の薬品でもない。ただの酢に香辛料を溶かしただけ。金はかからないが、目に入れば涙が止まらなくなる。
真名を解放していようが関係ない。目は目だ。
……何でも屋の知恵を舐めるなよ。
視界を奪われた男が反射的に後退する。
その足元に、蹴り飛ばした石を転がす。つまずいた一瞬――短剣の柄で手首を叩き、細剣を弾き飛ばした。
崩れた体勢の首元に、刃を突きつける。
「――はい、終わり」
息1つ乱していない……と言いたいところだが、心臓がかなりうるさかった。
真名解放した人間との戦闘は初めてだ。正直、速さが常軌を逸していた。あの細剣を逸らすのがもう少し遅れていたら、喉に穴が開いていた。
……勝ったからいいけど。
「あんた強いけどさ、剣しか使えないだろ。実戦じゃ、剣以外のもんが飛んでくるんだよ」
たとえば酢とか。
若い男は答えなかった。涙で滲んだ目で俺を見上げている。その顔には動揺と――恐怖が浮かんでいた。
俺の顔を見ているんじゃない。俺という存在を見て、怯えている。
「――お前は、何だ」
「何でも屋。通りすがりの」
騒ぎを聞きつけた自警団の足音が近づいてくる。
面倒事が増える前にここを離れよう。短剣を納め、広場の脇に身を引いた。壁に背を預けて、自警団が男を取り押さえるのを眺める。
……掲示板、結局見れてないな。もういいか。さっさとこの街を出よう。
――視線を感じた。
群衆の中に、一つだけ異質な視線があった。
野次馬の好奇心とは質が違う。観察するような。探るような。そして――何かを求めるような。
視線の主を目で追った。
群衆の端に、黒髪の女が立っていた。
整った顔立ち。冷たい目。周囲の人間が恐怖やら興奮やらで騒いでいる中、そいつだけが凪いだ水面みたいに静かだった。
だが目の奥に、ぞっとするほどの熱がある。
……なんだ、あれ。
目が合った。
女は逸らさなかった。こちらを真っ直ぐに見つめたまま、唇を微かに動かした。
声は聞こえなかった。
だがその口の形が、目に焼きついた。
何を言ったのかは分からない。
分からないまま、俺は群衆に背を向けた。
背中に張り付く視線を振り切れないまま、街の雑踏に紛れていく。




