第28話 宿のない夜
道中三日目。予定していた村に辿り着いた。
地図の上では十数軒の集落があるはずだった。
家はある。畑もある。井戸もある。
人だけがいない。
「……どうなってんだ」
街道から集落に入って、最初の家の前に立つ。扉が半開きになっていて、中を覗くと、食卓の上に食べかけの粥が残り、椅子が倒れている。
「計画的に引っ越したわけじゃなさそうですね。荷物がほとんど残っています」
イリスが隣の家を確認しながら言った。
「何かから逃げたってこと?」
フィーナが周囲を見回している。
地面を見ると複数の足跡。全部南を向いていた。
北方向から来た足跡に合流した足跡が周辺に多数ある。
「足跡が全部南に向いてる。北から来たものに合流してそのまま南進したのか」
「北……となると」
「ああ、俺たちの目指している場所ラズヴェルだな」
ラズヴェルに近づくほど、状況が悪くなる。多数の不安要素に加え、今度は無人の村。
何が起きているのか分からないが、俺たちはそこに向かって歩いている。
「どうする。このまま進むか」
「進むしかないよ。戻っても仕方ないし」
「……はい。情報はラズヴェルにあるはずですから」
進むことに異議がある者はいない。
ただし、今日はここで泊まる。日が傾き始めていたし、次の村までは遠い。
宿はあった。当然営業していないが、建物は使える。鍵は開いていた。逃げる時に施錠する余裕はなかったんだろう。
中は埃っぽかったが、ベッドも毛布も残っている。部屋は二つ。
普段なら男女で分けるが、無人の村で離れて寝るのは得策じゃない。
「一部屋に集まろう。交代で見張りをする」
「賛成。こういう場所で一人は落ち着かないからね」
「分かりました」
広い方の部屋に三人分の寝床を作った。ベッド一つと、床に毛布を敷いたのが二つ。イリスは遠慮したがベッドを使わせて、俺とフィーナは床だ。
問題は飯だった。食堂はない。当たり前だ。宿の主人がいないんだから。
「保存食の在庫は」
「干し肉がまだ残っています。硬いパンも少し」
「それだけか……鍋を借りるぞ」
宿の厨房に入って、鍋と水を見つけた。井戸の水はまだ使える。
鍋に水を張って、干し肉をちぎって放り込む。道端にある野草を何本か引き抜き、短剣で切って加えた。火打ち石で火を起こして、煮る。
即席スープだ。
「器用だねぇ、料理もできるんだ」
フィーナが鍋を覗き込みながら言った。
「料理じゃない。煮ただけだ」
「煮たら料理でしょ……」
四年間、毎日こうやっていた。一人で火を起こして、一人で鍋に何かを放り込んで、一人で食べて、一人で寝た。
別に辛くはなかった。それが普通だったから。
「ずっと一人で旅をしてたから、このくらいできないといけないからな」
「……今は三人ですね」
イリスが小さく言った。鍋の湯気を見ながら。
「ああ。だから量が三倍いる。野草が足りないかもしれない」
「そういう意味じゃなくて……」
「分かってるよ」
分かっている。でも、こういう時にまともな返しができない。
スープが煮えた。器がないので、宿にあった椀を三つ借りて注いだ。
三人で床に座って、鍋を囲んで食べた。
味は我ながらまずい。塩気が足りないし、野草も臭みがある。
でもフィーナが「悪くないじゃん」と言って、イリスが黙々とおかわりをした。
……まあ、温かいだけましだ。
日が落ちる。無人の村の夜は、音がなかった。
虫の声すらなく、風が窓を揺らす音だけが、時折聞こえる。
全員が一斉に眠りに入るのは危険だと判断し、交代で見張りをすることが決まった。
見張りの順番は、俺が最初、フィーナが深夜、イリスが明け方。
イリスが先に寝た。壁にもたれて書類を読んでいたが、いつの間にか目を閉じていた。書類が膝からずり落ちかけている。
そっと書類を抜き取って、横に置いた。起こさないように。
寝顔は穏やかだった。起きている時の鋭さが全部消えて、年相応の顔をしていた。
そういえば、フィーナもイリスの寝顔のこと言ってたな、この事だったのか。
窓際に座って、外を見た。月明かりが無人の家々を青白く照らしている。
静かすぎて、落ち着かないな。
「……ねえ」
フィーナの声がした。毛布にくるまったまま、目だけが開いている。
「なんだ」
「寝れない。こういう場所は落ち着かなくて」
小声での会話。イリスを起こさないように。月明かりだけの部屋で、お互いの顔がぼんやり見える程度の暗さだった。
「ラズヴェルのこと、知ってるんでしょ」
少し間を置いた。
「……何で分かった」
「グレンザールでイリスちゃんがラズヴェルの名前を出した時、君の顔が一瞬変わってたよ」
観察眼は相変わらず鋭い。ぼけっとしているくせに、人のことはちゃんと見ている。
「昔、少しだけいた。あんまりいい思い出はないけどな」
それだけ言った。詳細は言わない。言う気もなかった。
フィーナも追わなかった。「……そう」と返しただけだった。
沈黙が落ちた。嫌な沈黙じゃない。音がない分、お互いの呼吸だけが聞こえている。
「私もさ」
フィーナが天井を見ながら言った。
「保護局にいた頃のこと、あんまりいい思い出じゃないんだよね」
「だるかったからじゃなかったのか」
「それもあるけど」
フィーナの声が少しだけ低くなる。
「人を助ける仕事のはずなのに、助けられない人も多かった。真名を干渉された人は助けられる。私の力で解除できるから。でも、奪名された人の前に立つと……何もできなかった」
あの村の老人。集会所の入口で、フィーナは中に入れなかった。
「真名の気配が負担になるから」でもそれだけじゃない、入っても何もできない自分を知っていたということか。
「干渉は解除できる。でも、失われたものは戻せない……そういう場面がたくさんあった。たくさんありすぎて、だるくなったんだよ」
今の「だるい」には、いつもとは違う重みがあった。
何か気の利いたことを言うべきなんだろうが、見つからなかった。俺にはそういう引き出しがない。
でも、ただ黙っているのも違う気がする。
「……ごめんね。変な話しちゃった――」
「――うまく言えないんだが」
言葉を探すことには慣れていない。頭が痒くなる。
「……それは、あんたが何もしてこなかったって話じゃないだろう」
「……」
「その……できなかったことが残ってるだけで……できてきたことまでが消えてるわけじゃない」
フィーナは何も言わず、長い沈黙だけが返ってくる。
月明かりの中、フィーナの表情はよく見えない。
「……そういうとこだよ」
「え?」
「おやすみ」
しばらくして、呼吸が穏やかになった。寝入ったらしい。
「そういうとこ」ってどういうことだ? 変なこと言ってしまったのか? 慣れないことはするもんじゃないな。
俺は見張りを続けた。
無人の村の夜は、最後まで静かだった。魔物も来なかった。人も来なかった。
ただ静かな夜だった。
目が覚めると、窓から朝の光が差し込んでいた。フィーナはもう起きていて、昨夜の鍋を温め直していた。
「おはよう。残りのスープ、温めたよ」
「……ありがとう」
「お礼なんていいよ。私は温めただけだから」
三人で残りのスープを分けて飲んだ。昨夜より味が染み込んでいて、まずくなっていた。
宿代の銀貨を置いて村を出た。
北に向かって歩く。フィーナは今日も俺の少し前を歩いていた。
ラズヴェルまで、あと二日。




