第26話 飯代
グレンザールでの生活も一週間を超えた。
何でも屋の仕事は順調だった。
害獣駆除魔物退治の後も、掲示板から仕事をいくつか拾った。荷物運び、壊れた柵の修繕、迷子の犬探し。何でも屋の名に恥じない雑多さだ。
一つ一つの報酬は大きくないが、積み重ねたおかげで革鞄の中が久しぶりにずっしりしていた。
イリスは変わらず毎日支局に通っていて、フィーナの方もそろそろ終わるらしい。
となると、グレンザールを出るのもあと少し。
で、一つ気になっていることがある。
最近、イリスの様子がおかしい。
昼に仕事を終えて宿に戻ると、イリスが食堂で一人で座っていた。
テーブルの上には飯はない。
ここ数日、こればかりだ。以前のイリスなら、俺より先に食堂にいて、もう食べ始めているか、少なくとも注文は済ませていたはずだ。
「お疲れ様です」
「おう……食わないのか」
「……先に食べていてください」
また同じ返事だった。
飯を食わない人間じゃないはずだ。食堂で注文の仕方がわからなかったことがあったが、食欲はちゃんとある。
何か言おうと思ったが、イリスの目がテーブルの木目に落ちていて、こっちを見ようとしなかった。
ここで押しても答えは出てこないだろう。
とりあえず自分の分だけ頼んで、食べた。
イリスはその間ずっと、何も頼まず、何も言わなかった。
ちょうど飯を食べ終えた頃、フィーナが書物を数冊抱えて支局から戻ってきた。
食堂に入ってきて、イリスの前の空のテーブルと、俺の皿を見比べた。
何も言わずに俺の向かいに座って、持ってきた書物を開いた。
イリスは「私は部屋に戻ります」と小さな声で言って、席を立った。
イリスの足音が階段を上がっていく。
食堂に俺とフィーナだけになった。
「なあ」
「なあに」
「イリス、最近飯を食ってない。何か知ってるか」
フィーナが書物を置き、俺と目を合わせる。
「……君、鈍いね」
「は?」
「いや、鈍いっていうか……気づいてるのに原因が分かってない感じかな?」
「……」
「最近変わったこと、一つあるでしょ。君の周りで」
変わったこと。
……仕事を始めた。金を稼ぎ始めて、飯代を自分で出すようになった。
ああ。
そうか。
「……俺が飯代を出すようになったから、か」
「やっと分かった?」
フィーナが頬杖をつく。
「イリスちゃんにとって、ご飯代を出すのは君と対等でいるための手段だったんだよ。それがなくなったら、自分がただ付いてきてるだけの人になっちゃうって考えちゃってるんだよ。あの子、そういうの気にするタイプでしょ。そんなことないのにね」
確かにそうだ。
イリスは最初から「ご飯は出します」と言っていた。あれは単なる条件提示じゃなく、この旅の戦力としての意思表示だったのか。
それを俺が無自覚に取り上げてしまったんだ。
「どうすりゃいい」
「これは君自身が考えるべき問題だよ」
フィーナはそう言うと視線を書物に戻した。
考えた。
イリスに必要なのは、金の問題じゃない。イリスがここにいる理由だ。
俺はそういう気の利いたことは言えない。でも、一つだけ、嘘じゃないことが言える。
席を立って、階段を上がった。イリスの部屋の前で足を止め、扉を叩く。
「……はい」
「降りてこい。飯食うぞ」
「……大丈夫です。お腹は空いていないので」
「嘘つけ。朝も大して食ってなかっただろ」
扉の向こうが沈黙した。
「頼みがあるんだ。降りてきてくれ」
しばらく間があって、扉が開いた。
イリスの表情はどことなく、落ち込んでるように見えた。
「……頼み、ですか」
「ああ。食堂で話す」
二人で食堂に戻った。フィーナはまだ書物を見ていた。目だけを動かし俺たちを見たが、何も言わなかった。
イリスが俺の向かいの席についた。
「頼みってのはな」
「はい」
「今日から飯代はあんたが出してくれ」
イリスの目が上がった。
「……え?」
「人の金で食う飯の方が美味いんだよ」
イリスが俺を見ている。意味が分からないという顔をしていた。
「リーデンであんたに飯を出してもらった時、あの煮込み、自分の金で食うよりずっと美味かった」
「……同じ煮込みですよ」
「同じはずだが、違うんだ。何でかは分からない。でも、あんたが出す飯は美味い。自分で稼いだ金で食うより美味い。断言できる」
理屈としては意味が分からないだろう。俺だって分かっていない。
でも嘘じゃなかった。リーデンで初めてイリスに飯を出してもらった時の、あの煮込みの味を覚えている。腹が減っていたからかもしれない。偶々、美味い部分に当たっただけかもしれない。でもそれだけじゃなかった気がする。
「宿代と道具の金は俺が出す。旅の経費も俺が持つ。でも飯代だけはあんたに出してほしい。頼む」
イリスが黙った。
テーブルの木目を見ている。でも、さっきまでとは違う。目の奥に、何かが戻りかけていた。
「……分かりました」
声が小さかったが、さっきとは全然違う小ささだった。
さっきのは萎んだ声。今のは、飲み込んだ声。
「なら、早速、お願いしてもいいか?」
「……さっき食べてませんでしたか?」
「言っただろ? 人の金で食う飯は美味いって。そんで、美味い飯は、別腹なんだよ」
「なんですか、それ」
イリスが呆れるように言った。
「でもわかりました。今日からご飯代は私が出します。煮込みとパンとスープでいいですか」
「もちろんだ」
「フィーナさんもそれでいいですか」
「いいよー」
イリスが店の主人に声をかけた。「三人分、お願いします」。
三人分。自分の分も含めて。
声が戻っていた。
飯が来た。煮込みとパンとスープ。いつもの組み合わせ。
一口食べた。
……やっぱり美味い。自分で出す飯より、美味い。
何でだろうな。本当に分からない。
「どうですか」
「美味い」
「……それは、よかったです」
イリスが少しだけ笑った。少しではあるものの、初めてイリスの笑顔を見た。
フィーナが握り拳から親指だけを立てて、俺を見る。
どうやら、お姉さん的にも正解だったらしい。
「よし、そろそろ出発の話をしよう」
「イリスの調査はどうだ」
「一通り読み終えました。グレンザールで得られる情報はこれ以上ないと思います。回復に関する記録はやはり、ラズヴェルに送られている可能性が高いですね」
「フィーナの後始末は」
「これで終わったよ。もう自由の身」
フィーナが自身が持ってきた、書物を手で軽く叩きながらそう言った。
「じゃあ、明後日に出るか。明日一日で準備を整えて」
「わかりました」
「はいよー」
ラズヴェル。
あんまりいい思い出はない。でも、あの時と今は違う。




