第19話 偽善者
「ノウムさん」
イリスが俺を呼ぶ。
イリスの近くに行くと、机の上に書類を広げ、鋭い目つきで怒りを押し殺している顔をしていた。
「見てください」
書類の一枚を指さした。
整った筆跡に、見覚えのある署名があった。
セーラス・ヴェイン。
「指示書『研究対象の経過観察を継続。被験体との接触は私が直接行う』」
被験体との接触は私が直接行う、か。
わかっていたが、どこかで信じたくない自分がいた。
あの時、学術院の前で声をかけてきた時。
「お困りですか」とあの笑顔。あの力の抜けた佇まい。
善意だと思った。波長が合うと思った。かっこいい男だと思った。
全部、観察だったのか。
「……最初から全部知っていたんですね。あの人は」
イリスの声は冷静だったが、手が震えていた。書類を持つ指に力が入りすぎている。
フィーナは窓際に立っていた。外を見ている。顔が見えない。
いつもの雰囲気は消えていた。何も読めない背中だった。
「他にも書類がありました」
イリスがもう一枚を広げた。
「研究記録です。日付は……19年前」
俺が生まれた頃だ。
「『被験体への施術は生後間もなく実施。真名形成前の段階で核を除去。経過観察:真名は発現せず。身体及び知能の発達に異常は認められない。実験は成功と判断する』」
生後間もなく。
真名形成前の段階で核を除去。
俺が泣くことしかできなかった頃に、誰かが俺の中から真名の核を抜き取った。
本人の意志も、記憶も、何もない頃に。
イリスが俺を見ていた。冷たい目の奥に、複雑そうな感情が宿っていた。怒りと、それから――申し訳なさのようなもの。なぜイリスが申し訳なさそうな顔をするのか分からなかった。
「……被験体、か」
声に出してみた。
思ったより平坦な声だった。
「そりゃ波長が合うわけだ。俺のことをよく知ってる人間だったんだから」
皮肉で言ったつもりだった。でも、うまく笑えなかった。
書類を机に置き、窓の外を見る。
グレンザールの旧市街は静かだった。夕日が古い建物の壁を赤く染めている。
怒り、だと思う。たぶん。でもどこに向ければいいか分からない。セーラスに? エルド・カーシュに? 19年前の誰かに?
分からない。分からないから、いつもの言葉が出た。
「……腹、減ったな」
誰も笑わなかった。
いつもならイリスが「さっき食べたばかりです」とかそんな、言葉が出てくるところだ。そしてフィーナが「だはは」と笑いながら、「仲良いね」と茶化してくる。
でも二人とも、何も言わなかった。
それがいつもと同じ意味じゃないと、バレてしまったから。
♢ ♦︎ ♢
拠点を出た。
日が暮れかけている。旧市街の通りに、人の影はなく、潜入した時より、旧市街に寂しさが漂う。
「セーラスはまだ俺たちの動きを知ってる」
歩きながら言った。声はいつも通りに戻っていた。戻したんじゃない。戻った。何でも屋は切り替えが早くないとやっていけない、いちいち一喜一憂していたら、何でも屋なんてやっていけないからな。だからもう、戻った。
……たぶん。
「あの拠点を見せたのは余裕だから。俺たちが何を知っても、どうにもならないと思ってる。なら、次は向こうから来る」
「……迎え撃つってこと?」
フィーナが後ろから聞いた。まだ、俺のことを気にしているのか、声色がいつもと少し違う。
「待つ。ただし、こっちの場所で。こっちの準備で」
「準備って、何をするの」
「あるもの全部使えるような準備だ」
グレンザールの旧市街。使われなくなった工房が並ぶ区画。人目が少なく、建物が多く、逃げ道もある。
この地形を使う。
セーラスが来るなら、俺が選んだ場所で迎える。真名の力がない分、場所と道具と段取りで埋める。
何でも屋として四年間やってきたことの、全部を使う。
「……イリス」
「はい」
「真名の『干渉』の詳しい仕組みを教えてくれ。リーデンで拘束されているのは見たが、他にもあるのか?」
「そうですね……抑制と強制があります。抑制は特定の能力や行動を封じるもので、強制は、相手に行動を強いることができるものです」
なるほどな、真名っていうのは恐ろしいな。
「干渉の範囲と距離は」
「相手の真名を把握していれば、視認できる範囲で干渉可能です。そして、距離が近いほど効果は強いですが、複数人への同時干渉は集中力を大きく消耗します」
「フィーナの真名はバレてるか」
「……たぶんね。保護局にいた頃の記録が残ってるはずだから」
フィーナの声に力がなかった。自分の真名が敵に知られているということの重さを、一番分かっているのはフィーナ自身だろう。
「なら、対策を考える。明日一日かけて準備する」
「君が仕切るの、珍しいね」
「こういう局面は俺の得意分野だからな」
宿に向かって歩く。
さっきまでと違い、力強い三人の足音が石畳に響いている。
明日、準備を始める。
セーラス・ヴェインを、迎え撃つために。




