第17話 グレンザールを目指す
翌朝、ハルムを出て徒歩でグレンザール方面に向かった。
街道は整備されているが、王都周辺ほど人通りは多くない。風は穏やかで、歩くにはいい天気だった。
三人で歩く。フィーナは後ろ。だるそうに歩いているが、遅れはしない。だるそうにしてるだけで身体能力はかなり高いんだろうな。
「グレンザールまであと何日だ」
「徒歩で三日。途中にいくつか村があるから、野宿は避けられるはずです」
イリスが答えた。ファレンに向かった時と同じだ。イリスは道程の把握が正確で、移動に関しては頼りになる。
世間知らずでは、あるが教養はある。
街道沿いの小さな村に差しかかった時、異変に気づいた。
村の入口に人が集まっている。騒いでいるわけではないが、顔つきが暗い。何かがあった後の空気だ。
何でも屋の勘が反応する。これは面倒事の匂いだ。
「何かあったのか」
村人の一人に声をかけた。中年の女が振り返る。
「……数日前に、変な連中が来てね。じいさんが一人、おかしくなっちまったんだ」
「おかしく?」
「自分の名前も分からなくなって。ぼうっとしてるだけで、話しかけても返事がない。飯は食べるし、息もしてる。ただ、中身がないっていうか……」
奪名か。
リーデンの広場で見たものと似ている。でも、完全に抜け殻になったあの商人とは少し違うようだ。
老人は村の集会所にいた。
椅子に座って、窓の外をぼんやりと見ている。目に光はあるが、焦点が合っていない。名前を呼ばれても反応が鈍い。
リーデンの商人は完全に空っぽだった。こっちはそうじゃない。何かが残っている。でも、何かが足りない。
イリスが老人の前にしゃがみ込んで、しばらく観察していた。
「……これは完全な奪名ではありません」
「完全じゃない?」
「真名の一部だけが抜き取られています。全てを奪うのではなく、一部を切り取るような……実験的なやり方です」
実験。
その言葉で、エルド・カーシュの研究テーマが頭に浮かんだ。
「真名の欠損は人為的に発生させることが可能か」。
可能かどうかを調べるために、実際に人間で試しているということか。
「治るのか」
「分かりません。完全な奪名には回復手段がほとんどない。でも一部だけなら、時間が経てば……ただ、前例がないので断言はできません」
イリスの声は冷静だったが、目の奥に怒りがあった。
フィーナは集会所の入口に立ったまま、中に入ろうとしなかった。
「……入らないのか」
「入れないよ。私が近づくと、あの人の真名に負担がかかるかもしれない。弱ってる真名に、こっちの気配がぶつかる」
真名を持つ人間が近づくだけで、傷ついた真名に影響を与えてしまう。
イリスも同じだ。真名の知識があるからこそ、距離を取って観察している。必要以上に近づかない。
俺は老人の隣の椅子に座った。
革鞄から干し肉を一本出して、半分に折って老人の手に握らせた。
老人がゆっくりと視線を動かした。俺の顔を見ている。いや、見ているのかどうかも怪しい。焦点は合っていないが、こっちに反応はした。
「腹、減ってないですか」
返事はなかった。
でも、老人の手が干し肉を握ったまま離さなかった。
「俺はノウムって言います。何でも屋やってて。この村に用があったわけじゃないけど、通りかかったから」
何でもない話をした。
天気がいいこと。街道の道が歩きやすかったこと。宿の飯が美味かったこと。
意味のない話だ。でも俺にはこれしかできない。真名の知識もないし、回復する力もない。
ただ、俺が隣にいても、老人は怯えなかった。
真名を持つ人間が近づけば、傷ついた真名が反応して、怯えや苦痛を引き起こすかもしれない。でも俺には真名がない。何も持っていない。だから何も届けないし、何も奪わない。
からっぽの人間が隣に座っているだけ。
それだけで、老人の強張っていた肩が、少しだけ下がった気がした。
「……ノウム」
フィーナの声が、入口から聞こえた。
振り返ると、フィーナが俺を見ていた。
何を考えているか分からない顔で、でもどこか――眩しいものを見ているような目をしていた。
「……何だ」
「何でもない」
フィーナが目を逸らした。壁にもたれかかって、いつものだるそうな姿勢に戻る。
イリスが村人に話を聞いていた。
「数日前に来た人たち、何人ぐらいでしたか」
「四、五人だったかね。黒い外套を着てた。ただ一人だけ違う格好の人がいたよ」
「違う格好?」
「上等な服を着てて、丁寧な話し方をする男だった。名前は聞いてないけど、偉い人みたいだったねえ。他の連中に指示を出してたから」
上等な服。丁寧な話し方。偉い人。
俺の頭に浮かんだ顔がある。たぶんイリスも同じだ。
フィーナの方を見た。
フィーナの表情は変わっていなかった。だるそうな顔のまま。でも、さっきまで壁にもたれていた背中が、ほんの少しだけ離れていた。
「知ってる人間か」
「……さあ。でも、嫌な予感はする」
それ以上は言わなかった。
名前は出さない。でも俺にもフィーナにも、たぶんイリスにも、同じ顔が浮かんでいる。
あの飄々とした笑み。嫌味のない声。力の抜けた佇まい。
波長が合うと思った。かっこいい男だと思った。
だが、違和感があった。
……嫌だな。そいつが、この老人をこうした側にいるかもしれないのは。
♢ ♦︎ ♢
村を出た。
日が傾き始めた街道を、三人で歩いている。
面倒事の規模がまた変わった。文献を集めるだけの組織じゃない。実際に人間を使って実験をしている。そしてその背後にいるのは、たぶん――
考えるのをやめた。考えても今は確証がない。確証がないうちに決めつけるのは、何でも屋として正しくない。
でも、フィーナが王都を出る前日に言った「気をつけて」の重みが、さっきよりずっと重くなっていた。
「飯、どうする」
「……村でパンを買いました」
「イリスが選んだやつか。なら日持ちするな」
後ろからフィーナの声が飛んできた。
「私の分は?」
「各自って言っただろ」
「……けち」
面倒事はまだ続くらしい。というか、ここからが本番なのかもしれない。
グレンザールまで、あと二日。




