第16話 夜の宿
馬車で二日。中継地点のハルムに着いた。
ハルムは小さな宿場町だ。王都とグレンザールの中間にあって、旅人と商人が足を休める程度の場所らしい。宿が二軒、飯屋が一軒、あとは雑貨屋と井戸。
ファレンに行く途中の宿場を思い出す。あの時はイリスが鍵を開けられなくて、鍵を開ける練習をしてたな。
「部屋、三つ空いてるか」
「悪いね、二つしか空いてないんだ」
宿の主人が申し訳なさそうに言った。
三人で顔を見合わせる。
「俺が一人で、イリスとフィーナが相部屋でいいか」
「私は構わないよ。すぐ寝るし」
フィーナが欠伸しながら答えた。
イリスは微妙な顔をしていた。フィーナと同室が嫌なわけではないだろうが、何か言いたそうな間があった。結局、「……分かりました」とだけ返した。
何だろう、あの間。まあいい。
♢ ♦︎ ♢
夕飯は一階の食堂で三人で食べた。
ハルムの飯屋は当たりだった。煮込み肉が柔らかくて、パンもまともだ。街道沿いの宿場にしては上出来。
フィーナは相変わらず食べるのが速い。だるそうな顔のまま、皿が空になっていく。イリスは丁寧に食べている。この二人を並べると、性格の違いがよく分かる。
「君たちさ、いつもこんな感じなの?」
フィーナが水を飲みながら聞いた。
「こんな感じって?」
「こう、二人でいる時の空気。さっきからノウム君が何か言うと、イリスちゃんが返して、ノウム君がまた返して……なんか、ずっとやってるよね」
「やってない」
「やっていません」
同時に否定した。
フィーナだけが笑っていた。
「……仲いいね」
「違う」
「違います」
また同時だった。
フィーナの笑いが大きくなった。だはは、と力の抜けた笑い方。
「はいはい。違うんだね」
完全にからかわれている。
イリスの耳が少しだけ赤くなっている気がした。気のせいかもしれないけど。
♢ ♦︎ ♢
イリスが先に部屋に戻った。
俺は食堂に残って、道具の手入れをしていた。投擲ナイフの刃を研いで、煙玉の材料を調合する。小麦粉と灰を一定の配分で混ぜて、紙で包んで紐で縛る。地味な作業だが、これをやっておかないと実戦で使い物にならない。
何でも屋の武器は、普段の手入れが全てだ。
「まだ起きてたの」
フィーナが戻ってきた。
部屋に行ったはずだが、寝なかったらしい。
「イリスちゃん、もう寝てた。寝顔かわいいよ、あの子。起きてる時はあんなに鋭いのにね」
「そうか」
「興味ないの?」
「寝顔に興味を持つ方がどうかしてるだろ」
「ふうん」
フィーナが俺の向かいではなく、隣に座った。
距離が近い。肩が触れるほどではないが、手を伸ばせば届く位置だ。
……まあ、深く考えるのはやめておこう。
フィーナが俺の手元を覗き込んだ。煙玉の調合を見ている。
「君さ、本当にそれで戦ってるの。酢と油と煙で」
「悪いか」
「んーん。面白い」
フィーナが顎を手に乗せ、俺に目線を合わせる。
「私にはできない戦い方だなって思って」
「真名解放で一撃の方がよっぽど強いし、楽だろ」
「強いけどさ。真名解放って、楽じゃないんだよね」
声のトーンが少しだけ変わった。気だるさの下に、別のものが覗いた。
「使えば使うほど、自分の真名が周りに漏れる。解放するってことは、自分の真名を周りに晒すってことだから。近くに真名の感知が鋭い人間がいたら、何回か見ただけ看破されちゃう」
「だから使いたがらないのか」
「……まあね。保護局にいた頃は仕事だから仕方なかったけど。今は、できれば使いたくない」
真名を使うたびに、自分の弱点が世界に漏れていく。
それでも王都の路地裏で男を一撃で沈め、東区で二人を同時に叩きのめした。
使いたくないのに、使ってきたのか。俺たちのために。
……何か言った方がいいはずだが、言ったら、「別にそんなんじゃないよ」と流されるだけだ。
「俺の酢漬け香辛料、分けてやろうか。目に入れば真名解放してようが関係ない」
「えー……考えとく」
フィーナが笑った。いつもの力の抜けた笑い方だったが、目が少しだけ柔らかかった。
それから少し黙って、フィーナが口を開いた。
「君は怖くないの」
「何が」
「真名がないこと。誰かにやられたかもしれないってこと」
こいつ、知ってたのか。
いや、「真名なき者」の話を目の前でしてたな。
あの時点で、察していたんだろう。察しがいいのに悪いふりをする女だから。
「怖くはない。ただ、気に障る」
「気に障る?」
「勝手に俺の中から何かを抜いたやつがいるなら、そいつの顔は見たい。文句を言うために」
「……文句で済ませるんだ」
「イリスにも同じこと言われた」
「だはは。そりゃ言われるよ」
フィーナがすっと立ち上がる。
「おやすみ」
背中を向けて、階段を上がっていく。
……何だったんだ。
でも、嫌な気分じゃなかった。
煙玉の調合を終えて、テーブルの上を片付ける。




