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真名殺しの無銘 〜名前を奪う世界で、俺だけが奪われない〜  作者: 佐木凛人
第1章

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第15話 居心地悪い

 足音が二つに戻った。

 

 王都の市場は朝から騒がしい。

 露店が並び、商人が声を張り上げ、荷車が石畳を軋ませている。

 イリスと二人で歩くのは、王都に来る前が最後か、フィーナが加わってからは三人だったから、横の空き具合が少しだけ懐かしかった。

 懐かしいというほどの時間でもないけど。


「グレンザールまでの馬車を手配します。中継地点のハルムまで馬車で二日、そこからは徒歩になるかと」


「金は足りるのか」


「……足ります」


 間があった。

 足りるとは言ったが、余裕はないということだ。リーデンから王都まで、宿も飯も馬車もイリスの金で動いてきた。蓄えがあるとはいえど、没落貴族だ、支出はあっても収入はないもんな。


「次の街で何か仕事を受ける。何でも屋の出番だ」


「……いいんですか」


「いいも何も、あんたの金で飯食い続けるのもそろそろ限界だろ。何でも屋には何でも屋の稼ぎ方がある」


 イリスが少し目を伏せた。何か言いたそうだったが、結局「お願いします」とだけ返した。

 遠慮しているのか、申し訳なく思っているのか。たぶん後者だ。

 気にすることじゃないんだけどな。飯を食わせてもらった恩はあるし、何より――まあ、これは言わないでおく。


 ♢ ♦︎ ♢


 市場で旅の準備を揃える。

 保存食、水袋、治療用の布、火打ち石。あとは煙玉の材料と油壺の補充……酢も買わなきゃな。

 値段交渉は俺がやった。イリスはこういうのが駄目だ。露店の親父に言い値で買おうとするから、横から割り込む羽目になる。


「……すみません。値切るという発想がなくて」


「貴族は値切らないのか」


「使用人が全てやってくれましたので」


 鍵の時と同じだ。この女は日常の細かいことが壊滅的にできない。

 逆に、保存食の選び方ではイリスの方が詳しかった。


「この干し肉は塩の量が少ないので、三日目から味が落ちます。こちらの方が日持ちしますよ」


「……何でそんなこと知ってるんだ」


「食材の保存は錬金術の基礎知識です。真名研究にも通じるところがあります」


 真名研究と食材保存が繋がっている世界が、俺にはよく分からない。

 でもまあ、助かる。俺が値切って、イリスが選ぶ。悪くない分担だ。


 買い物を済ませて、大通りに戻った。

 荷物を抱えて宿に向かう途中、俺はふと口を開いた。


「なあ」


「はい」


「あの書類のこと。真名の欠損が人為的にどうこうってやつ」


 イリスの歩みが一瞬だけ遅くなった。


「もし本当に誰かにやられたんだとしたら、そいつに文句の一つでも言いたいな」


「……文句で済むんですか」


「済むだろ。真名がなくても今まで生きてこれたし。飯は食えるし、短剣は振れるし、酢漬けの香辛料は相変わらず強い」


 軽く言った。軽く言うつもりだった。

 イリスはしばらく黙っていた。俺の横を歩きながら、前を向いたまま。


「……あなたはいつもそうですね」


「何が」


「重いことを、軽く言います」


「軽いから軽く言ってるんだよ」


「嘘です」


 即答された。

 こいつの即答は毎回こっちの逃げ道を塞いでくる。


「あなたは軽く言える人じゃなくて、軽く言おうとする人です」


「……どっちでも同じだろ」


「全然違います」


 違うのか。

 何が違うのかは聞かなかった。イリスも説明しなかった。

 ただ、イリスの歩調がほんの少しだけ遅くなって、俺の歩幅に合った。

 リーデンを出た時、俺がイリスの歩幅に合わせたのを覚えている。今回は逆だった。

 ……何も言わなかった。言う必要がなかった。


 ♢ ♦︎ ♢


 宿に戻って、荷物を整理した。

 夕飯は宿の食堂で済ませた。王都最後の食事だ。明日からはしばらく街道飯になる。

 イリスはスープを飲みながら、ぽつりと言った。


「私が最初にあなたを追いかけた時、こうなるとは思っていませんでした」


「どうなると思ってた」


「真名の手がかりを得て、すぐに別れると。あなたは何でも屋で、私の問題に付き合う義理はないですから」


 そう言ってイリスが少し黙った。スプーンを皿の縁に置いた。


「でもまあ、飯が出る間は」


「出します」


 いつものやり取り。

 リーデンの食堂から始まった、二人だけのやり取り。

 でもイリスの声が、最初の時とは少し違った。あの時は切実さがあった。今は、それだけじゃないものが混じっている。

 何だろう。安心、に近いのかもしれない。

 気のせいかもしれないけど。


「明日は早いぞ。さっさと寝ろ」


「……はい。おやすみなさい」


「おやすみ」


 部屋に戻る。

 天井を見ながら考えた。

 リーデンの広場で、あの商人の空っぽの目が気に障って立ち塞がった。

 イリスが追いかけてきて、真名がないと告げられた。

 ファレンで文献が消えて、王都でセーラスに会って、フィーナと合流して、エルド・カーシュの正体が分かった。

 そして明日、グレンザールに向かう。

 振り返ると、けっこう遠くまで来たな。

 腹が減ったところから始まって、ここまで来た。

 ……明日も腹は減るだろうけど。


 ♢ ♦︎ ♢


 翌朝、東門に向かった。

 馬車の出発は朝の第二鐘。イリスと二人で門に着くと、馬車はもう停まっていた。

 荷物を積み込もうとした時、イリスが足を止めた。


「……ノウム」


「ん?」


 イリスの視線の先を追った。

 東門の壁にもたれて、だるそうに立っている女が一人。

 長い髪を適当にまとめて、目は半分閉じている。昨日と同じ格好だった。


「……何してるんだ」


「待ってた」


 フィーナが眠そうに答えた。


「昨日、ここまでって言ってなかったか」


「言った。言ったんだけどね」


 フィーナが壁から背中を離した。だるそうに。いつも通りに。

 でも、目だけは少し違った。半開きのまま、でもどこか据わりが悪い。


「離れられなかった」


 それだけだった。

 理由は言わない。言い訳もしない。ただ、三文字の事実だけ。

 ……こいつらしくないな。いや、こいつらしいのか。よく分からない。

 フィーナが一拍置いて、いつもの気だるい声に戻った。


「なんか、王都の居心地が悪くなっちゃったんだよね」


 だはは、とフィーナが笑いながら言う。

 だが、それが本当の理由ではないはずだ。

 本当の理由は、たぶん「セーラス・ヴェインには気をつけて」と言ったあの声の中にある。関わってからまだそんなに経ってないがこいつは多分、困っている人をほっとけないたちだ。だからきっと俺たちに着いてくる選択をしたんだろう。

 優しい奴だ。


 イリスが一歩前に出た。


「……歓迎します」


「堅いね、君は」


 フィーナが笑った。力の抜けた笑い方で、昨日の別れ際の芯のある声は、もうどこにもなかった。


 俺は何も言わずに馬車の御者のところに行った。


「座席、もう一人分追加で」


「追加料金がかかるよ」


「いくらだ」


「銀貨三枚」


「……飯代は各自な」


 背中越しに言った。誰に言ったのかは明確にしなかった。


 ♢ ♦︎ ♢


 馬車が動き出した。

 王都の東門が少しずつ遠ざかっていく。

 面倒事の総本山を出れて嬉しい気持ちはなかった。

 なぜならもっと面倒くさそうな現場に自ずと向かっているからだ。

 何をやっているんだ、俺は。


 馬車の座席は三人分。俺が右、イリスが左、フィーナが向かい。

 フィーナは乗り込んで五分で寝た。壁にもたれて、口が半開きで、完全に寝ている。朝早かったのか、そもそも夜通し門の前にいたのか。

 ……後者の可能性の方が高いのがおかしい。


 イリスがフィーナの寝顔を見て、呆れた顔をしていた。


「……この人、本当にこれで元保護局なんですか」


「勤めてた時は、こんなじゃなかったとか」


「……想像できません」


「それは、俺もだ」


 あの一撃を見れば、だるかろうが何だろうが実力は本物だと分かる。

 フィーナの寝息が馬車の揺れに混じっている。イリスは窓の外を見ていた。王都の街並みが流れていく。


 足音が三つに戻った。

 正確には足音じゃなくて、馬車の座席の重さが三人分になっただけだけど。

 面倒事はまだ続くらしい。

 面倒事だらけの旅で、何でも屋の鉄則は一つも守れていない。


 ……まあ、悪くない。

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