第14話 背を向ける
考えたところで腹が減るだけだ。
「真名の欠損は人為的に発生させることが可能か」。あの一文が頭にこびりついたまま、朝飯を食って、学術院に向かった。
眠れなかったかと聞かれたら、普通に寝たと答える。腹が減った状態でまともな判断ができた試しがない。寝るべき時に寝るのは何でも屋の基本だ。
隣を歩くイリスは、いつもより少しだけ口数が少なかった。あの一文が気になっているんだろう。
俺のことで考え込んでいるなら、それはそれで面倒だ。
「イリス」
「はい」
「朝飯、美味かったか」
「……普通でした」
「そうか」
会話にはならなかった。まあいい。
フィーナは学術院の入口で待っていた。壁に背を預けて、欠伸を噛み殺している。朝に弱いのか、単にやる気がないのか。たぶん両方だ。
「おはよう。君たち、朝から真面目な顔してるね」
「普通の顔だが」
「それが真面目なんだよ、君は」
言い返す気にもならない。三人で学術院の中に入った。
♢ ♦︎ ♢
以前と同じように、セーラスに応接室に案内された。
セーラスは椅子に腰掛けたまま、俺たちの話を黙って聞いていた。
エルド・カーシュの東区の拠点に行ったこと。もぬけの殻だったこと。残されていた書類。そして、「真名の欠損は人為的に発生させることが可能か」という研究テーマ。
「――それは、重大な発見だ」
セーラスはそう言って、わずかに目を伏せた。考え込むような仕草で、いつもの飄々とした軽さが少しだけ引っ込んでいる。
「エルド・カーシュがそこまで踏み込んでいたとは。保護局の監督下にあったはずだが……独自に動いていた可能性がある」
「書類に撤収先らしい地名がありました」
イリスが口を開いた。落ち着いた声だが、セーラスの表情を注意深く見ている。
「――グレンザールという街です」
セーラスが頷いた。
間がなかった。
「グレンザール」という名前を聞いて、一拍の驚きもなく、ただ頷いた。まるで知っている街の名前を確認しただけのような反応だった。
「地方の中規模都市だな。真名保護局の支局がある……なるほど、拠点を移すなら妥当な選択だ」
淀みなく、次の言葉が続いた。
「保護局を通じて調査を入れます。正式な手続きを踏めば、支局経由で拠点の所在を特定できるはずです。あなたたちはしばらく王都で――」
「待てない」
俺は言った。
セーラスが目を上げる。
「……待てない、ですか」
「あの書類に書いてあったのは、俺のことだ。たぶん」
言ってから、少しだけ後悔した。「たぶん」なんて曖昧な言い方をするつもりはなかった。でも断言するには、まだ足りない。
「保護局の調査を待っている間に、向こうはまた動く。拠点を変えるかもしれない。書類も証拠も消える」
「ノウム――」
「行く。イリスもそのつもりだろう」
隣を見ると、イリスは小さく頷いた。
「はい。グレンザールに向かいます」
セーラスは、しばらく俺たちの顔を交互に見ていた。それから、ふっと息を吐いた。力が抜けたような、諦めたような――あるいは、何かを確認したような笑みだった。
「……止めても無駄ですね。わかりました。ですが、こちらでも並行して動きます。何かわかれば連絡を入れますので」
「助かる」
「気をつけてください。エルド・カーシュが組織的に動いているなら、相応の能力を持った人物がいます」
その言い方が、やけに具体的だと思った。
でも、突っ込まなかった。
♢ ♦︎ ♢
学術院を出て、大通りに戻った。日差しが眩しい。王都の朝は人が多くて、三人で並んで歩くには少し窮屈だ。
フィーナが足を止めたのは、大通りの角を曲がったところだった。
「君たち」
いつもの気だるい声だが、少しだけ違った。
「私はここまでかな」
イリスが振り返った。俺も足を止める。
「……どういうことですか」
イリスが聞いた。
「そのままの意味。ここから先は、私が一緒にいると面倒が増える」
フィーナは肩をすくめた。風で髪が揺れている。
「元・保護局の人間が、保護局の関連機関を追いかけ回してるって知れたら、君たちまで目をつけられちゃうからね」
筋は通っている。元保護局という看板は、使い方次第で武器にも足枷にもなる。フィーナがそれを自覚しているなら、なおさら一緒にはいられない。
理屈としては分かる。
「世話になった」
俺はそう言った。引き止める言葉は出てこなかった。出す必要もなかった。そもそも、フィーナにここまで付き合ってもらう義理はない。むしろ、今まで付いてきてくれたことに感謝しないといけない。
「あっさりしてるね、相変わらず」
「あんたもだろ」
「まあね」
フィーナが笑った。力の抜けた、いつもの笑い方だった。
イリスは何か言いたそうにしていたが、結局、口を開かなかった。出会ってからまだ日が浅い。引き止める言葉を持てるほどの関係ではない。そう思っているのかもしれない。
フィーナが背を向けた。
二歩、三歩。
そこで一度だけ振り返って、俺を見た。
「――セーラス・ヴェインには気をつけて」
声のトーンが変わっていた。気だるさが消えて、芯だけが残ったような声だった。
「……なんでだ」
「勘」
それだけ言って、フィーナは大通りの人混みに紛れた。
追いかける間もなかった。というより、追いかけさせない歩き方だった。元保護局の人間の、人混みへの溶け込み方を初めて見た気がする。
♢ ♦︎ ♢
二人になった。
王都の大通りを並んで歩いている。さっきまで三人だったのに、急に横が広くなった感じがする。
「フィーナさん、どうして……」
「さあな」
分からない。セーラス・ヴェインに気をつけろ。理由は「勘」。
フィーナは嘘が下手なくせに、はぐらかすのは上手い。あれは勘なんかじゃない。何か知っていて、それでも言葉にしなかった。言えなかったのか、言わなかったのか。
――考えても、今は答えが出ない。
俺はそういうのを放っておける人間だ。気にはなるが、追わない。追ったところで、フィーナが答えを変えるとは思えない。
「ノウム」
イリスが呼んだ。いつもの声だが、少しだけ芯がある。
「明日、発ちましょう」
珍しかった。イリスが自分から「こうしよう」と言うのは。いつもは俺の判断を待って、それに乗るか降りるかで動く。たまに理詰めで反論してくるが、起点はだいたい俺だ。
今日は違った。
「ああ」
少し驚いたのが顔に出たらしい。イリスが目を逸らした。
「……何ですか」
「いや。珍しいなと思って」
「別に珍しくありません。合理的に考えて、早い方がいいだけです」
「はいはい」
「……その返事はやめてください」
宿に戻って、荷物の整理をした。大した荷物はない。元々、身軽に動ける分しか持っていない。イリスも同じだ。没落貴族に余計な荷物はないらしい。
グレンザールまでは馬車で3日。歩きなら倍。路銀を考えると、途中まで馬車で残りは歩きか。
「飯、食いに行くか」
「――はい」
いつもの答え。いつものやり取り。
でも昨日までとは、少しだけ違う気がした。フィーナがいなくなったからじゃない。
イリスが「明日、発ちましょう」と言った、あの声のせいだ。
明日、王都を出る。
グレンザールに俺の真名を奪った連中の、次の居場所に向かう。
ああ。飯食ってからな。




