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第98話 殺さず通さず

 旧流路の暗がりを灯りも持たずに近づいてくる足取りは、五つだった。


 糸巡りのシルクスの網が、その一つ一つをユークの背へ順に送ってくる。先頭の二人は身なりを落としてはいたが、歩き方に迷いがなかった。昼間、フェンウィックの供に混じっていた検分方の者だ。残る三人は、荷を運ぶ手だろう。手にしているのは得物ではなく、細い鉄の棒と布に包んだ何かだった。配分槽の弁をこじ開けるための道具。パス越しに返ってくる感触が、その形までユークに教えていた。


 討つな、とユークはまず自分に言い聞かせた。


 夜陰にまぎれて弁へ手をかけようとする一団を、群れで囲んで叩き伏せるのはたやすい。グランの角の一突きで、旧流路の古い岩は落ちる。フェズの牙は、暗がりでこそ冴える。だが明日の朝、そこに倒れた人間が一人でもいれば、それは「野良の迷宮が国の使者を襲った」というたった一行の記録に化ける。再審査を握る側が、いちばん欲しがっている一行だった。


 傷つけず、入れず、退路だけは残して通さない。いちばん難しくて、いちばん効く守り方がそれだった。


---


 最初に動いたのはフェズだった。


 旧流路の入口の崩れかけた岩陰から、ぬっと影が立ち上がる。撹乱牙のフェズの、しなやかな体躯だった。先頭の男が息を呑んで鉄の棒を構えた。だがフェズは、その男へは向かわなかった。すっと横へ流れ、暗がりの奥――弁とは反対の行き止まりの枝坑のほうへ、わざと足音を立てて駆け抜けていく。


「あっちだ」


 男の一人が低く言った。灯りのない闇の中で、動くものの気配だけを頼りに、一団の半分がその枝坑のほうへ釣られて折れた。フェズの尾が闇の奥でひとつ揺れた。囮の役目を心得た揺れだった。


 残る二人が、それでも弁のほうへまっすぐ進もうとする。検分方の二人だ。こちらは気配に釣られなかった。


 その足もとが、ふいにずぶりと沈んだ。


---


 汚泥浄めのモルトが、旧流路の底へ静かに水を回していた。


 乾いていたはずの石畳が、いつのまにか薄く泥を敷いていた。汚泥処理でいつも扱う、あの粘る泥だ。足を取られた男がたたらを踏む。転びはしない。怪我をするほどの深さではないからだ。ただ、前へ進む速さが削がれる。一歩が二歩ぶんの手間になる。急いで来た者ほど、その粘りに苛立った。


 その苛立ちが足もとから目を上げさせた、その隙に――


 闇が白く満ちた。


 灯苔精のルーメだった。旧流路の壁いっぱいに、淡い光がいっせいに灯る。灯りを持たずに闇へ紛れてきた者にとって、それは目つぶしに等しかった。暗さに慣れていた目が、急な光にくらむ。同時に、光はただ明るいだけではなかった。壁を伝う魔力の脈が複雑に絡み合い、どちらが順路でどちらが行き止まりか、見分けをつかなくさせている。可視化のための光を逆しまに使って、道そのものを読めなくしていた。


「くそ、どこだ」


 検分方の男が目を細めてうめいた。来た道さえ、光の中であやふやになっている。


---


 崩し積みのグランが動いたのは、そのときだった。


 旧流路の天井から、ぱらぱらと小石が落ちる。崩落ではない。落としてよい分だけを正確に落とす手当てだった。弁へ通じるいちばん細い枝道の入口に、グランの角が古い岩をそっと寄せる。ひと抱えほどの岩が二つ、三つ。塞ぐというほどではない。ただ、人が身をかがめてやっと通れるほどに道を締めた。


 締められた道の先で、フェズがまた影を躍らせる。釣られた男たちがそちらへ気を取られる。そのあいだに、グランは次の枝道をまた一段締めていく。


 弁はすぐそこにあった。手を伸ばせば届く距離に。だが、そこへ至る道が進むほどに細く、遠く、絡まっていく。力ずくで岩をどければ、崩落が来る。それは来た者にも分かった。傷つけられているわけではない。追い立てられているわけでもない。ただ、進めない。押しても引いても、灰環という迷宮そのものが静かに道を閉じていく。


 ユークは盤の前から動かなかった。ただ、パス越しに五体の噛み合いをひとつずつ確かめていた。シルクスが位置を送り、フェズが釣り、モルトが足を鈍らせ、ルーメが道を隠し、グランが締める。誰も爪を立てていない。誰も牙を剥いていない。それでいて五人の侵入者は、弁の前あと十歩のところで完全に足を止めていた。


---


「――これは」


 地上の受付台の前で、その一部始終を別の目が見ていた。ザグレス・オードだった。夜のうちに砦へ詰めていた老いた元冒険者は、外縁の騒ぎに駆けつけてきた若い運び屋たちを腕を広げて押しとどめていた。


「行くな。手を出せば負けだ」


 ザグレスの声は低く、揺るがなかった。


「向こうはこっちが人に手を上げるのを待っている。一人でも殴ってみろ。明日には『魔物を使って人を襲う危険な迷宮』だ。……見ておけ。ユークはそうはさせん。あれは拳の勝負をしていない」


 運び屋の一人が、握った石を悔しげに地へ落とした。灰環の水で畑を潤してきた者たちだ。夜盗まがいの手で弁を狙われて、黙っていられる道理はない。だが、ザグレスの言うことも分かっていた。ここで人が血を流せば、この砦は守った側から襲った側へ書き換えられる。


 そのじりじりと堪える人の輪の内側で、ミレアだけが静かに手を動かしていた。記録帳を開き、時刻を添えて一行ずつ書き取っていく。


 旧流路より侵入五名。うち二名、配分弁への接近を試む。灯りを携えず、弁の開放具を所持。――誰がどこから何を持って入ったか。シルクスの網が辿った足取りを、そのまま越えたと分かる形に綴じていく。


---


 弁の前で足を止めた五人は、しばらく進む道を探して暗がりの中を行きつ戻りつした。


 だが、進めば締められ、締められれば戻り、戻れば光に道を失う。そのうち先頭の検分方の男が舌打ちして、鉄の棒を下ろした。


「……今夜は無理だ」


 力ずくで押し通れないと悟った顔だった。無理を続ければ、崩落に巻き込まれる。それは、こじ開けに来た側がいちばんよく分かっていた。灰環は討ちに来ない。だが、絶対に通さない。討たれるより、その静けさのほうが始末に負えなかった。


 五人は来たときと同じ旧流路の暗がりへ退いていった。フェズが、その退路だけは締めずにあけておいた。追いはしない。逃げ道を断てば、追い詰められた者は暴れる。暴れさせないために、道は一本残す。それも守り方の一つだった。


 最後の足音が旧流路の奥へ消えてから、ルーメの光がゆっくりと常の明るさへ戻っていった。モルトの泥が静かに底へ引く。グランが締めた岩を、崩落しないようまた一つずつ元の位置へ戻し始める。何事もなかったかのように、旧流路はまたただの古い水の道に戻っていった。


 人的な被害は、どちらにもなかった。壊れたものもなかった。ただ、ミレアの帳面にだけ越権の一夜が消えない形で残った。


---


「討たずに済んだ」


 ユークはようやく盤の前で息を吐いた。


 群れの五体がパス越しに、疲れではない、噛み合いの後の静かな満ちた感触を返してくる。誰が欠けても、今夜の守りは崩れていた。シルクスがいなければ足取りは読めず、ルーメがいなければ道は隠せず、グランがいなければ締められず、モルトがいなければ足は止まらず、フェズがいなければ釣れなかった。最強の一体がいたわけではない。ただ、五つの役目が正しく噛み合っただけだった。


「これが明日効きます」


 ミレアが帳面を閉じながら言った。


「昼の丁寧な評価と、夜のこじ開け。同じ日の同じ相手が、片方で紙の値踏みをして、片方で弁を狙った。……その二つが一つの帳面に並べば、『評価』の建前はもう使えません。越権を自分たちで証してくれました」


 ユークはうなずいた。強引に踏み込んだ夜が、皮肉にも相手の手の内をいちばん確かな記録にして残していった。


---


 その静まり返った旧流路の奥で。


 配分槽へ通じる中枢のいちばん深い暗がりが、ふいに淡く明るんだ。


 コアの示す、あの滲む一語だった。「配分」の隣に、これまで読めそうで読み切れずにいたもう一文字。それが今夜、群れが弁を守り切ったのを見届けたかのように、ほんの一画ぶんだけ濃く浮かび上がっていた。


 守る、と読めた気がした。あるいは、隔てるとも。ユークにはまだ判じられなかった。ただ、その一語が「配り余った水を分ける」だけの機能のずっと先を指していることだけは伝わってきた。


 ――全部が読めたら。


 ユークはその滲みを見上げながら、背筋が冷えるのを感じた。今夜、弁ひとつをあれだけの手で奪いに来た相手だ。もしこの一語の意味が余さず明るみに出れば。灰環は地域を潤す迷宮であることをやめ、もっと大きな何かを握る資産として、今度こそ国そのものが本気で手を伸ばしてくる。


 ユークはルーメへ静かに念を送った。表示の魔力の形だけを記録に。読み解きはしなくていい。今はこの一語を明るませすぎないことのほうが、守ることだった。


 滲みは一画ぶんだけ濃いまま、それ以上は晴れなかった。誰にも読ませないよう、コア自身が封をし直したかのように。ユークはその暗がりに背を向け、明日監督院がこの越権の記録を前に、どんな顔で落とし所を探ってくるかを静かに考え始めていた。

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