第97話 制御は渡せない
夜のうちに街道の脇へ荷を降ろした一団は、朝を待って正面から門をくぐってきた。
先頭に立っていたのは、あの外套の男だった。国の勘定方実務差配のフェンウィック。前に来たときと同じ折り目のきちんとした身なりで、供の数だけが前より増えていた。荷運びではない。検分の道具を提げた者と、身なりのいい書役が後ろに控えている。
「早い刻から失礼します」
フェンウィックは受付台の内側のユークへ、丁寧に頭を下げた。
「先日の資産評価の続きに参りました。記録はたいへん結構でした。回り方も噂どおりだ。……ですが、勘定方の務めとしては紙の上の数字だけでは値を確定できません。今日は水を配っているというその現場そのものを、実地で確かめさせていただきたい」
男の目は前と同じだった。欲しがっている目。良い地所のどこから手を付ければ自分のものになるかを算段している、買い手の目だった。
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実地という言葉がどこを指しているのかは、すぐに分かった。
フェンウィックの供が視線を送っていたのは、受付でも水質の検分場でもなかった。その奥。第五沈殿槽へ通じる運用区画の入口だった。配分の最終調整を握る、砦のいちばん深い場所。
「見ていただける現場と、そうでない場所があります」
ユークは静かに言った。声を荒げはしなかった。ただ、線を先に引いた。
「配っている水そのものは、いくらでもお見せします。どの枝へ、どれだけ、どの順で落ちているか。水質も量も、その場で汲んで確かめていただいて構いません。ですが、配分の調整そのものに触れる区画――あそこへはお通しできません」
「触れるとは申していません」
フェンウィックの声は丁寧なままだった。
「見るだけです。評価には、制御が現にどう働いているかの実地の確認が要る。数字が本物かどうかは、動かしている仕組みをこの目で見なければ判じられませんのでな」
「見るだけで済まないのが、あの区画です」
ユークは退かなかった。
「あそこは狭い。人が立ち入れば、それだけで配分の流れに息がかかる。調整の途中に人の手が近づけば、水はそれを外からの指図と読み違えることがある。……見るだけのつもりが、触れたのと同じ結果になる。だから通せません」
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フェンウィックの眉がわずかに動いた。丁寧な口上の裏で、算盤の珠が別の目を弾いた顔だった。
「野良の迷宮の仮の管理者が」
書役の一人がたまりかねたように口を挟んだ。
「国の勘定方の実地確認を拒むのですか。それは無主の資産を私的に囲い込んでいる証しにもなりますが」
その言葉が卓に落ちた。拒めば「無主資産の私的占有」と重ねる。押せば通る、という圧だった。
だが、その圧を受けたのはユークではなかった。
壁際に控えていたミレアが、記録帳を開いたまま静かに顔を上げた。
「先日こちらへ来られたときの控えが、ここにあります」
ミレアの声は、監査部にいた頃のあの醒めた速さだった。
「国の勘定方実務差配フェンウィック様来訪。目的、資産評価。評価の範囲は、記録の閲覧まで。――これはそちらの申し出を、そのまま書き取ったものです。制御区画への立ち入りは、初めから評価の範囲に入っていません。範囲を越えるなら、それは評価ではなく別のことです。別のことなら、別の名であらためて申し出ていただく必要があります」
書役が言葉に詰まった。ミレアは越えたときに越えたと分かるよう、先に線を書いておいた。その線が、いま効いていた。
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ユークは押し問答を続けなかった。代わりに、壁のほうへ手を向けた。
「見たいものが制御なら、制御をお見せします。区画へ入らずに」
運用区画の壁面が、淡い緑の光で満ちはじめた。灯苔精のルーメが、配分の魔力流を壁いっぱいに映し出していた。第五沈殿槽から伸びる枝の一本一本が、緑の脈で打っている。クルン村へ落ちる枝は太く、坑区の枝はほどよく、どこにも滞りがない。赤みは一点も走っていなかった。
「これがいま働いている制御です」
ユークは光を示した。
「あの区画の中で起きていることは、全部この壁に出ています。人が中へ入って覗き込むより、ここで見るほうがよほど広く、よほど正しく見える。配分がどう回っているか確かめたいなら――中ではなく、ここでいくらでもどうぞ」
フェンウィックの供が壁の光を見上げた。検分の道具を提げた者が、思わず光の脈を目で追っている。中へ踏み込んでも、これ以上のものは見えない。その事実が、光のほうから静かに突きつけられていた。
同時に、砦の外縁の通路で糸巡りのシルクスの網が細く震えていた。パス越しに返ってくる感触が、供のうち二人が検分の列を離れ、運用区画の脇の別口へ回り込もうとしている足取りを、ユークの背へ伝えてくる。どの足がどこへ動いたか。網はそれを一つも取りこぼさず、あとで並べられる形で辿っていた。
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フェンウィックはしばらく壁の光を見ていた。
それから、丁寧な笑みを口元に戻した。値踏みをいったん下ろす笑みだった。
「……結構な仕掛けだ。中を見ずともこれだけ見えるなら、確かに立ち入る要はないのかもしれません」
言葉は退いていたが、目は退いていなかった。この壁で足りると言いながら、それでもあの区画の中を欲しがっている。見えるだけでは足りない。触れて、握って、初めて自分のものになる――そう算段する目は、笑みの下で消えていなかった。
「今日のところは、記録とこの壁で評価を持ち帰ります」
フェンウィックは供を促した。
「ですがフェルド殿。仮の管理者というのは、あくまで仮です。仮のものは、いつか確かなものにし直さねばならない。……その日が来たとき、この壁の向こうをいつまでも閉じておけるかどうかは、また別の話でしょう」
男は丁寧に頭を下げて、供を連れ門のほうへ戻っていった。
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その背が見えなくなってから、ミレアが記録帳に書き足した。
制御区画への立ち入り要求あり。範囲外につき謝絶。壁面表示にて配分制御を開示、代替とした。――日付と刻を添えて、越権の一歩手前で押し返した事実を綴じた。
「越えてはこない。今日は」
ミレアは帳面を閉じながら言った。だが、その声は安堵していなかった。
「越えたと書かれるのが、まだあの人にも痛いうちは。……でもあの言い方だと、痛くなくなる日を待つ気ですね」
「ああ」
ユークも同じことを感じていた。フェンウィックは制度の顔をして押してきた。制度の顔で押す相手は、制度の線で押し返せる。壁を見せ、範囲を書き、群れで足取りを辿れば、今日は退く。
だが、そのフェンウィックの後ろには、まだ顔を見せない格の高い主がいた。制度の線が痛くなくなる日を待てるのは、待てるだけの後ろ盾があるからだった。
その晩、シルクスの網がまた震えた。
今度は昼間の丁寧な足取りとは違った。夜の街道の脇に残っていたはずの一団の一部が動いていた。門からではなく、外縁の崩れた旧流路のほうから、身なりを落とした数人が灯りも持たずに砦の際まで近づいてきている。丁寧な評価の裏で、丁寧でない手が別の口からあの区画へ手を伸ばそうとしていた。
ユークは盤の前で指を止めた。押し問答では退いた。だが、退いたのは表の手だけだった。裏の手は、言葉を待つ気がなかった。
パス越しにフェズの尾がひとつ揺れた。グランの角が、旧流路の暗がりで低く身構えた。制御は渡せない。渡さないために――今度は言葉ではなく、群れが静かに動きはじめていた。




