第96話 誤りだったと実物が言う
照会の日はこちらから出向くのではなく向こうが来た。
街道を上ってきたのは監督院の一団だった。先頭の痩せた中年にユークは見覚えがあった。前に査察へ来て配分槽の前でしばらく動かなかった男。即時の接収を退けられて来た時と同じ静けさで帰っていった男。ヴェッセルだった。
今度の手にあるのは査察の書式ではなかった。再審査の照会状とあの束が革の鞄から覗いていた。立会人が二人記録係が一人。物々しくはないが慣れた並びだった。
「またお邪魔します」
ヴェッセルは整えられた受付台を前と同じ目で端から端まで測ってからそう言った。
「今日は迷宮を見に来たのではありません。……人を確かめに来ました」
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卓を挟んで両者が座った。
ユークの隣にミレアが控え壁際にはザグレスが腕を組んで立った。ヴェッセルは鞄から束を取り出すといちばん奥の一枚をこちらへ向けてゆっくりと卓に置いた。
古い日付の監督院の書式。数年前ユークを追い出したときのあの裁定書だった。
「先に確かめておきたいことがあります」
ヴェッセルはその一枚を指で押さえた。
「戦果なし。討伐適性なし。保全部の落伍者。現場偏重で昇進不適――ここに書かれているのはあなたですねフェルド殿」
「その紙にそう書いてあります」
ユークは短く答えた。書いてあると言った。私だとは言わなかった。
「率直に申し上げます」
ヴェッセルの声は丁寧なまましかし底が硬かった。
「過去に組織から不適格と裁定されて追われた人間に地域の水を握る迷宮を任せておけるとは監督院の帳面の上ではどうしても書けない。回り方が立派なのは認めます。ですが回している手がかつて不適格の判を押された手なら――その一点でこの運用は資格を欠いています」
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叫べば楽になる。あの裁定は不当だった。討伐云々は口実で本当は灰環を守れと言い張った口を都合よく黙らせただけだ――そう卓を叩けば胸の内はいくらか軽くなる。
だがそれは相手の待っている絵だった。追放の腹いせに逆恨みしている男。灰環にしがみつくための言い訳。声を荒げた分だけ無資格の札はいよいよ据わりがよくなる。
ユークは乗らなかった。過去の紙を過去の言葉で言い返すことはしなかった。
「その裁定が正しかったかどうかは今日は脇に置きます」
ユークは静かに切り出した。
「弁明はしません。あの日私が何を言ったかなぜ追われたか――それをこの場で叫ぶ気はない。叫んでも水は一滴も増えないので」
「では何を」
「見てほしいものがあります」
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ミレアが卓の上に二枚を並べた。
一枚は監督院の帳簿から抜き出した灰環を「低価値」として管理対象から落としたあの決裁の写し。もう一枚はこの砦で綴じてきた直近の配分の運用記録。
ミレアの手つきは監査部にいた頃のあの醒めた速さだった。並べたのはそれだけだった。院の内側からしか出てこない決裁筋の重なり――あの鋭い一枚は卓には出さなかった。抜けば危ない橋の上の後輩が焼かれる。鞘に戻したまま公開できる二枚だけをヴェッセルの前に置いた。
「この一枚が言っているのは灰環は価値がないという監督院の判断です」
ミレアは左の写しを指で押さえた。
「数年前この判断で灰環は帳簿から落ちました。落ちて周りの村は井戸が濁り街道が荒れ人が減った。……そしてこちらが」
ミレアは右の運用記録へ指を移した。
「その落とされた迷宮がいま配っている水の記録です。クルン村の飲み水。止まっていた坑区の枝。決まった量が決まった順で途切れずに届いている。日付も量も理由もすべて書いてある。――低価値と判じられた迷宮が現にこれだけの暮らしを支えています」
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ヴェッセルは二枚を長いこと見ていた。
痩せた指が右の記録の縁を一度二度と叩いた。反論を探しているというより内側で何かを量っているあの沈黙だった。前の査察のときにもこの男は同じ黙り方をした。
「見せたい実物はまだあります」
ユークは腰を上げた。
「紙だけなら書き換えられたと言われて終わりだ。回っているというのを目で見てもらう」
ユークは一団を中枢近くの運用区画へ通した。
壁面いっぱいに灯苔精のルーメが配分の魔力流を映していた。第五沈殿槽から伸びる枝の一本一本が緑の灯りで脈打っている。クルン村へ落ちる枝は太く坑区の枝はほどよくどこにも滞りがない。赤みは一点も走っていなかった。ルーメの静かな灯りは盤の数字よりも雄弁にこの配分がいま安定して回っていることを色で示していた。
「これが動いている実物です」
ユークは壁の光を示した。
「私が屈んでいじっている蛇口じゃない。決まりのとおりに水がそれぞれの枝へ落ちてる。低価値と判じられた迷宮の今の姿です」
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ザグレスが光を背に口を開いた。
「役所の紙はあんたらが握り替えられる。だが村が身体で覚えてることは握り替えようがねえ」
ザグレスは束ねてきた証言の綴りを卓に置いた。
「クルン村のオドルとリクが言ってる。灰環が落とされた翌年井戸が濁って家の半分が町へ出たと。そして今その井戸に決まった量の水が戻ってきてると。……昔と今をいちばんよく知ってるのは村の井戸端だ。ここにそれが書いてある。手前味噌じゃねえ。外の声だ」
ヴェッセルはその綴りを受け取り二三枚をめくった。めくる手が途中でわずかに遅くなった。
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ユークはそこで初めて静かに筋を通した。
「あなたはその古い裁定書を私が無資格だという決め手として持ってきた」
ユークは卓の上の追放裁定書を見た。
「あれを書いたのは監督院です。そして灰環を低価値だと切り捨てたのも監督院です。……その切り捨てた判断がいま目の前の実物に否定されている。灰環は死ななかった。死ぬどころか村の水を守って回ってる。だったらあの切り捨ては間違っていたことになる」
ユークは声を荒げなかった。ただ絵の輪郭を指で確かめるように続けた。
「同じ組織が同じ頃に灰環を切り捨てその裾で私を追い出した。切り捨ての判断が誤りだったなら――その傍らで下りた私の追放の裁定だけが間違いなく正しかったとどうして言い切れるんですか」
「……それは」
「証明しろとは言いません」
ユークは遮った。
「私は無実だとも言わない。ただ問いだけ置いておきます。切り捨てを誤った目が私を測った目です。その目が下した札をそのまま資格なしの決め手に据えていいのか。――それはそちらでもう一度考えてもらうことだと思う」
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卓が静かになった。
ヴェッセルはすぐには言い返さなかった。返せなかったというほうが近かった。灰環が回っているという一点はこの男自身前の査察で自分の目で確かめている。低価値の判断が誤りだったという筋を頭から否定できる立場にこの男はもういなかった。
「面子の話をしているのではありません」
やがてヴェッセルはそう言った。守りの言葉だった。
「監督院が過去の判断の誤りをそうやすやすと認められないという事情はあります。……ですがあなたの言う筋がまるきり通らないとも言いにくい」
ヴェッセルは追放裁定書を束の奥へそっと戻した。表に出したときよりいくらかためらいのある手つきだった。
論点が動いたとユークは思った。無資格かどうかの一点で押し切るはずだった照会が灰環を切り捨てた判断は妥当だったのかという監督院自身の古傷のほうへずれはじめている。攻めていた側が守りに回りかけていた。
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ヴェッセルはしばらく壁の緑の灯りを見ていた。
「持ち帰ります」
ようやくそう言った。
「この照会だけで資格なしと結論づけるのは……無理があるようだ。灰環が回っているという実物をなかったことにはできない。上へはそのように報告します」
即時の資格剥奪はこの場では退けられた。前の査察のときと同じだった。だが退いた手がそのまま消えるわけでないことも前と同じだった。ヴェッセルは一団を率い来た時と同じ静けさで街道を戻っていった。
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その背が見えなくなってからユークはようやく息を吐いた。
刃は抜かずに済んだ。決裁の重なりを一度も卓に出さずに公開できる二枚と村の声と動いている実物だけで押し返した。あの後輩の背中はまだ誰にも見られていない。
「うまくいきましたね」
ミレアが記録帳を閉じながら言った。だがその声は喜んでいなかった。
「うまくいきすぎたのが少し怖い」
「……ああ」
ユークも同じことを感じていた。監督院は面子と制度で動く相手だ。追い詰められれば守りに回り持ち帰り時間をかけて次の理屈を組んでくる。その回り方はこちらにもまだ読める。
だがこの件を欲しがっている手はもう一つあった。制度でも面子でもなくただ灰環を自分のものにしたいと算段しているあの丁寧な差配の後ろの格の高い誰か。監督院が言葉で押し切れないと分かれば――その手は言葉を待たないかもしれなかった。
その晩シルクスの網が砦の外縁で細く震えた。
パス越しに返ってきたのは正規の動線ではないいくつもの足の震えだった。夜のうちに街道の脇に荷を降ろした一団がいる。監督院の静けさとは違う供を連れた格を示す一団の気配。ユークは盤の前で指を止めた。あの差配の筋がこちらの返事を待たずに配分槽のほうへ――記録でも照会でもなく人を静かに近づけはじめていた。次に来るのは言葉ではないのかもしれなかった。




