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第99話 滲みが一字ぶん晴れる

 夜が明けても、旧流路は何事もなかったように静まり返っていた。


 昨夜五人の足を止めた泥は底へ引き、締めた岩は元の位置へ戻り、隠した道はまた見分けがつくようになっている。ただ、古い水がいつものように低く流れているだけだった。ミレアの帳面にだけ、越権の一夜が消えない形で残っている。


 ユークは朝いちばんに中枢へ下りた。ルーメを一体だけ連れて。


 昨夜、暗がりの奥でコアの示す一語が一画ぶんだけ濃く浮かんだ。あのときユークは読み解きを止め、表示の形だけを記録に、とルーメへ念を送った。荒れた夜に、あれ以上明るませるのは危うかった。だが朝の静けさなら、もう一度あの一語を落ち着いて見ておける。


---


 中枢のいちばん深い暗がりで、その一語はまだうっすらと灯っていた。


「配分」の隣に浮かぶ、もう一文字。昨夜よりほんの少しだけ輪郭が濃い。夜のうちに、コアが自分でまた一画ぶん書き足したかのようだった。ユークはその滲みの前に立って、じっと目を凝らした。


 読めそうで読めない。


 最初の「配分」は、はっきりと読める。水を配り、資源を配り、乾いた土地へ回す――第五沈殿槽でさんざん向き合ってきた機能だ。だが、その隣の一語はまだ半分霧に沈んでいる。守る、と読めた気もした。隔てるとも。あるいは、鎮めるとも。どれもしっくり来て、どれも確かめきれない。


 ただ一つだけ、伝わってくるものがあった。


 その一語が指しているのは、「配って余った水を分ける」よりもずっと大きな何かだった。土地を潤すのではなく、土地そのものを支える。水を回すのではなく、水の下で眠るもっと深い流れを抑えている。ユークにはまだ言葉にならなかった。だが、灰環という迷宮がただの「配分装置」ではなく、この地面のもっと根の深いところに手をかけている――その気配だけは、背筋を通って伝わってきた。


---


 パス越しに、ルーメが静かな感触を返してくる。


 灯苔精のルーメは、その一語の表示を光でなぞっていた。文字の意味を読むのではない。文字を灯している魔力の脈の形を、そっくりそのまま記録に写し取っている。どういう波で、どういう間でその光が明滅しているか。解釈はしない。ただ、形だけを正確に。


「それでいい」


 ユークは低く言った。


「意味はまだ読み解かなくていい。……いや、読み解かないが正しい。形だけ残してくれ」


 ルーメの光が、こくりと応えるように一度揺れた。


 ユークはその慎重さの理由を、昨夜のうちに腹の底で決めていた。この一語がもし余さず明るみに出れば。灰環は地域を潤す迷宮であることをやめてしまう。もっと大きな何かを握る資産として、今度こそ国そのものが本気で手を伸ばしてくる。昨夜、弁ひとつをあれだけの手で奪いに来た相手だ。この一語の値打ちを知れば、彼らが何をするかは考えるまでもなかった。


---


 地上へ戻ると、ミレアが記録帳を広げて待っていた。


「昨夜の越権の分は綴じました。時刻も経路も持ち物も、シルクスの網が辿ったとおりに」


 ミレアは羽根ペンの尻で、こめかみを軽く押さえた。それからユークの顔を見て、少し声を落とした。


「……中枢のあの一語ですね。また濃くなったんですか」


「一字ぶんな」


 ユークはうなずいた。


「読めそうで読めない。だが、『配分』のずっと先を指しているのは分かった。……たぶんこの地面ぜんたいに関わる、もっと大きな機能だ。それが灰環の本当の姿なんだろう」


「ならなおさら」


 ミレアがペンを置いた。


「隠さないといけませんね。……いえ、隠すというより。誰にどこまで見せるかを決める。台帳と同じです。配分の記録は公開する。回っている事実は隠さない。でもこの一語は――『まだ読めていない』という形で伏せておく」


 ユークはその言い方に、少し目を細めた。ミレアはいつも、自分より一歩早く言葉を見つける。


「開示の範囲を管理するか」


「はい。……皮肉なものです。私たちは隠さないことで資格を守ってきました。全部記録に残して、越権のほうを暴いて。……でもこの一語だけは、隠すことが守ることになる。全部を明るみに出したら、それこそ収奪を急がせてしまう」


「線引きははっきりさせておこう」


 ユークは卓の帳面を引き寄せた。


「配分の記録は、これまでどおり誰にでも見せる。どの土地へ、どれだけ、なぜ配ったか。優先順位の理由も全部だ。……そこを隠したら、逆に『私物化』を疑われる。回っている事実こそが、俺の資格のいちばんの証だからな」


「ええ。そこは開いたままで」


 ミレアがうなずいて、帳面の項を順に指でなぞった。


「でもコアが本当は何を握っているか――この一語だけは、別の綴りに鍵をかけてしまいます。表の帳面には『中枢表示読み取り保留』と、それだけ。……読めたとすら書きません」


「読めたと書くとどうなる」


「その一行が狙われます。『読めたなら教えろ』と。……知っているという事実そのものが、次の値踏みの種になりますから」


 ユークはその用心深さに、小さくうなずいた。隠すのではない。開くものと伏せるものを、自分の手で選び分ける。それも灰環を回すという仕事の一部になっていた。


---


 ユークはしばらく黙って、卓の木目を見ていた。


 知りたいという気持ちが、ないわけではなかった。灰環が本当は何なのか。なぜコアが自分のような追放者を託し先に選んだのか。その一語が読めれば、たぶん全部が繋がる。喉の奥に、その渇きは確かにあった。


 だが、とユークは思う。


 読めた瞬間に、それは自分だけのものではなくなる。ルーメが記録した魔力の形は、いつか誰かに読み解かれるかもしれない。監督院に。貴族筋に。国の勘定方に。読めたことが漏れれば、灰環は地域のインフラから国家の資産へと一夜で書き換えられる。昨夜の五人が、今度は正式な旗を立てて堂々とやってくる。


「……今はいい」


 ユークは静かに言った。


「この一語が何かは、次の宿題だ。急いで読む必要はない。今片づけなきゃならないのは、あっちだ。俺が管理者を名乗れるか。灰環を誰が担うか。……そっちの決着が先だ。この滲みは封をしたまま抱えていく」


 ミレアがうなずいて、帳面の隅に一行書き足した。中枢表示、一字ぶん濃くなる。読み解きは保留。開示、灰環内に限る。――知ったということ自体を、記録の外へそっと逃がす一行だった。


---


 その日の昼、ザグレスが外縁から渋い顔で戻ってきた。


「妙な風向きだ」


 老いた元冒険者は腰を下ろすなり、低く言った。


「昨夜の越権は上にも伝わった。監督院は強引な手をしばらく引っ込めるだろう。……だが、勘定方の使者が去り際に妙なことを聞いてきやがった。『あの迷宮は水を配るほかに何をしている』とな」


「……もう嗅ぎつけたのか」


「値踏みってのは、こういうもんだ。目の前の実りを数えて、それだけじゃ済まなくなる。この畑はもっと採れるんじゃないか、とな。……昨夜あれだけの手で弁ひとつを狙った連中だぞ。『配分の先』なんて言葉を一度でも耳にしたら、放っちゃおかん」


 ユークは盤の手を止めた。中枢の暗がりで、あの一語を記録の中へ封じたばかりだった。封じても、匂いは漏れる。読めていなくても"何かある"という気配だけで、上の手はもう動き始めている。


「今は資格の決着が先だ」


 ユークは自分に言い聞かせるように繰り返した。


「あの一語に手を伸ばされる前に、灰環を誰が回すかを決めきる。……順番を間違えるな」


「そいつは賛成だ」


 ザグレスが髭を撫でた。


「ただな。連中の目は、もうそっちへ向き始めてる。急いだほうがいい。……お前が一字ぶん読めたようにな。向こうも一字ぶん近づいてる」


---


 ユークはもう一度、中枢の暗がりのほうへ目をやった。


 あの一語はまだ一字ぶんだけ濃いまま、それ以上は晴れる気配がなかった。読ませないようコアが封をしているのか。それとも、託した相手が自分から読むのを止めるかどうか試しているのか。ユークには判じられなかった。


 ただ、確かなことが一つあった。昨夜、弁ひとつのためにあれだけの手が動いた。もしこの一語の値打ちが外に知れたら。動くのは弁を狙った検分方や、焦った商人どころではない。もっと上の、もっと大きな手が――国そのものが、この滲みの一字に本気で食いついてくる。


 その気配だけを暗がりに残して、ユークは監督院の再審査が待つ地上へと階を上っていった。滲みは晴れ切らないまま、それでもほんの一字ぶん、確かにこちらへ近づいていた。

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