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第93話 登録すれば、安定するのか

 差配の男が去って三日、その置き土産は、思っていたより早く、二の矢を放ってきた。


 ラスティアの町へ物資を引き取りにやったザグレスが、荷とは別に、一枚の書付を持って戻ってきた。折り目のきちんとついた、上等な紙だった。差出は、国の勘定方。あのフェンウィックの名で、灰環迷宮の正式登録を勧める、丁寧な口上が並んでいた。


「町中に、話が回ってた」


 ザグレスは、書付を卓に置きながら言った。


「灰環が近く国に登録される、後ろ盾がつく、供給も安定する――ってな。まだ決まってもいねえ話が、もう決まったみたいな顔で、先に流れてる。ラスティアの商人連中は、早いとこ縁を繋いどこうって腹だ」


「順番が、逆だな」


 ユークは、書付を手に取った。こちらが受けると言ってから話が動くはずが、受ける前から、外堀のほうが先に埋まりはじめている。


「登録の話を、まず外で既成事実にする。周りが、もう決まったつもりで動きだせば、断りにくくなる。……こういう回し方をする相手だ、と覚えておく」


---


 ミレアは、その書付を、監査部にいた頃の手つきで、端から読み解いていった。


「文面だけなら、非の打ちどころがありません」


 やがて、ミレアは顔を上げた。


「正式登録すれば、監督院の資格問題は消える。灰環は国の管理下に入り、供給は国が保証する。周辺の村や坑区へも、途切れなく届く。……ここまでは、本当のことです。嘘は、一つもない」


「嘘がない、ってのが、いちばん厄介なやつだ」


「ええ。ですから、嘘を探しても仕方ありません。探すべきは、書いていないことです。――この文には、登録したあと、配る量と順番を誰が決めるのか、そこだけが、きれいに抜けています」


 ミレアは、書付の余白を、指の先で、とん、と押さえた。何も書かれていない、その白いところを。


「供給は保証する、とは言っています。ですが、何を、どれだけ、どの順で保証するかは、一言もない。保証するのは国。決めるのも、国。登録した瞬間、配分の手綱は、この砦から、勘定方の卓へ移ります」


---


 ユークは、綴じられた配分の運用記録を、卓の上に開いた。この間、ミレアが清書して綴じた一冊だ。


 最初の頁に、優先順位の決まりが書いてある。まず、クルン村の飲み水と畑。次に、水が止まって困っている地域の復旧。余った分だけを、取引の枠へ。この順は、灰環を回すうちに、井戸端と現場のやり取りから、少しずつ固まってきたものだった。


「うちの決まりは、生きるのに要る分が、いちばん上だ」


 ユークは、その頁を、指で叩いた。


「クルン村の飲み水が最優先。それが割を食う配り方だけは、しない。今は、それを決めてるのが、俺たちだ。開いて、書いて、村に見せて、文句が出たら直す。……登録すると、この頁を書く人間が、入れ替わる」


「勘定方の順に、書き換わる、と」


「そうだ。あの差配が、何を先に置くと思う。財を生む枠だ。国の兵站だ。飲み水が"余剰"の下に回されても、書き換える権利は、もうこっちにない。国の保証、って紙が一枚あるだけで、蛇口は、遠くの卓の上だ」


 ミレアが、静かに頷いた。


「安定するか、で測ると、この話は良く見えます。国が後ろ盾なら、確かに、途切れはしにくい。ですが、測る物差しが、違います。問うべきは、安定するか、ではなく――配る順番を、誰が決めるのか、です」


---


 その日の午後、クルン村から、オドルとリクが、砦へやってきた。


 登録の噂は、村にも届いていた。オドルは、いつもの井戸端の顔とは違う、硬い表情で、受付台の前に立った。


「ユークさん。国が後ろについてくれるって、本当かね」


「まだ、決まっちゃいません」


 ユークは、正直に答えた。


「勧められてる、ってだけです。受けるかどうかは、まだ、こっちで抱えてる」


「そりゃあ、国が守ってくれるなら、心強い。街道も、水も、途切れねえって言うんだろう」


 オドルは、そう言いかけて、しかし、言葉の途中で、自分で首をひねった。長く水番をやってきた男の、勘のようなものが、引っかかったらしい。


「……だがな。国が守るって話は、昔にも聞いた気がするんだ」


 リクが、横から、ぼそりと口を挟んだ。まだ若い、村の働き手だ。


「じいさんたちが言ってた。昔、灰環が"低価値"だって、帳簿から落とされたときも、国の判断だったって。あのとき、うちの井戸が濁って、街道が荒れて、村が半分になった。……国が決めた、って言葉、俺は、あんまり、いい思い出がない」


---


 その一言に、卓の空気が、少し止まった。


 ユークは、リクの顔を見た。若い働き手が、思いつきで言ったのではないのが分かった。村の年寄りから、井戸端で、何度も聞かされてきた話だ。灰環を切り捨てたのも、国の判断だった。そのとき、暮らしがどうなったかを、この村は、身体で覚えている。


「その話は、覚えておいたほうがいい」


 ユークは、低く言った。


「灰環を落として、村を縮ませたのも、"国が決めた"だ。今度、灰環を守るって言ってるのも、"国が決める"だ。同じ言葉が、あのときは切り捨てに使われて、今度は囲い込みに使われてる。国が決めるのが、いつも村のためになるとは、限らない」


「じゃあ、断るのかね」


 オドルが、探るように聞いた。


「野良のまんまじゃ、いつまでも危なっかしい、って言うやつもいる。仮の管理者だ、追放されたやつだ、ってな。国に入っちまえば、そういう文句も、消えるんだろう」


「消えます。それは、本当です」


 ユークは、そこで、断りきらなかった。


「登録すれば、資格の話は片づく。俺が無資格だ、って突かれることも、なくなる。……そこだけ見りゃ、渡りに船なんです。だから、単純に、いやだ、とは言えない。言えないから、面倒なんですよ」


---


 オドルとリクが村へ戻ったあと、ザグレスが、腕を組んだまま、口を開いた。


「野良のままじゃ守れねえ、ってのは、正論だ」


 ザグレスは、めずらしく、慎重な言い方をした。


「あの差配は、悪党じゃねえ。仮の管理者のまま突っ張ってりゃ、いつかどこかで足をすくわれる。国に入っちまえば、後ろ盾がつく。理屈としちゃ、間違っちゃいねえんだ。断るなら、その正論に、返せる筋がいる。ただ嫌だ、じゃ、通らねえぞ」


「分かってる」


 ユークは、頷いた。


「登録が要らない、とは言わない。いつまでも仮のまま、ってのが危ういのも、そのとおりだ。……だから、丸ごと断るんじゃない。切り分ける」


「切り分ける」


「登録は、受けてもいい。後ろ盾も、資格の片づけも、いる。だが、配る順番だけは、渡さない。生きるのに要る分が最優先――この一枚だけは、こっちが握ったまま、登録する。それができるなら、乗る。できないなら、乗らない。安定と引き換えに、蛇口まで渡すのは、断る」


 ミレアが、その言葉を、記録帳に書き取りはじめた。


「登録の可否ではなく、条件を問う、ということですね。受けるか断るか、の二択に、乗らない。――配分の決定権を現地に残す形なら受ける、と、条件のほうを、こちらから先に立てる」


「そうだ。向こうは、安定するかしないか、の二択を突きつけてくる。乗った瞬間、蛇口まで持っていかれる。だから、二択には乗らない。俺たちが問うのは、順番を誰が決めるか、だ。その一点を、条件の真ん中に据える」


---


 方針が立つと、ミレアは、記録帳の新しい一枚に、条件の骨組みを書き並べはじめた。


 配分の優先順位は、現地の運用記録に従う。順位の変更は、公開の場で理由とともに記録する。登録後も、生活必須分を最優先とする一項は動かさない。――監査部にいた頃の、崩れない書式だった。あとでどう読まれても、言い逃れの余地が残らないように、言葉を一つずつ、締めていく。


「これを、向こうへ返します」


 ミレアは、ペンを止めて言った。


「登録を断る、のではなく、この条件でなら登録に応じる、と。向こうが、順番だけは渡せ、と押してきたら――そこで初めて、この登録話が、"安定"の顔をした収奪だった、と、はっきりします」


「相手に、正体を言わせる、ってわけか」


「ええ。安定のためだ、と言うなら、この条件を呑めるはずです。飲み水を最優先に残す一項を、拒む理由は、安定の話には、ありません。それを拒むなら、狙いは安定じゃなく、蛇口です。……こちらが騒がなくても、向こうが、自分で線を越えます」


 ユークは、うっすらと笑った。足元で、幻尾狐のフェズが、尾の先を、とん、と床に打った。パス越しに返ってきたのは、静かに凪いだ、待ちの気配だった。牙を剝くより、相手が自分から動くのを待つ――この皮肉屋の狐も、その利きどころを、心得ているらしかった。


---


 条件を書き上げたその矢先だった。


 中枢の運用盤を見ていたルーメの、灯りの色が、ふ、と揺れた。パス越しに、ちりっと、細い違和が伝わってくる。ユークは、卓から腰を上げた。


「――配分の、枝だ」


 第五沈殿槽から伸びる配分の枝、その一本で、水位が、じわりと偏りはじめていた。急な崩れではない。だが、放っておいて自然に起きる偏り方とも、どこか違った。まるで、決まりどおりに配れなくなる寸前を、狙って撫でられたような、そんな偏り方だった。


 登録を急がせるように、とミレアが言った、その言葉が、ユークの頭をよぎった。野良運用は危ない――そう裏づけたい誰かがいるなら、今この偏りは、いかにも都合がいい。ユークは、盤の水位表から、目を離せずにいた。条件を返す前に、まず、この枝を、押さえなければならなかった。誰が撫でたのかは、まだ、読めなかった。


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