第94話 急がせる負荷
卓を離れて中枢へ下りるまでの短い間に、ユークは、頭の中で、盤の数字を並べ直していた。
水位が偏りはじめたのは、第五沈殿槽から西へ伸びる、クルン村の飲用へ落ちる枝だった。よりによって、いちばん割を食わせてはいけない枝だ。じわりと水位が下がりかけ、そのぶん、別の枝が、決まりより多く飲みはじめている。放っておけば、村の井戸が、また濁る。かつて、この村から人を減らしていった、あの濁り方に。
「まず、止める。原因は、あとだ」
ユークは、階を下りながら、そう決めた。焦って原因を追えば、村の水が先に涸れる。順番を、間違えてはいけなかった。
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中枢近くの運用区画に着くと、灯苔精のルーメが、壁面いっぱいに、魔力流を映し出していた。
いつもは静かな緑の灯りが、西の枝のあたりだけ、ちりちりと、赤みを帯びて明滅している。魔力の偏りを、そのまま色にして見せているのだ。どこが詰まり、どこへ流れが逃げているか。ルーメの灯りは、盤の数字より、ずっと早く、それを教えてくれた。
ユークは、赤みの走る一点を、指でたどった。
「ここだ。分岐の手前で、流れが片側へ寄ってる。寄ったぶんが、村の枝から吸い上げられてる」
パス越しに、ルーメの静かな気配が返ってくる。感情の薄いこの苔精が、それでも、環境の乱れにだけは、いつも真っ先に反応する。灯りの赤みが、ひとつ、また明滅した。ここを見ろ、と念を押すように。
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ユークは、順に、群れへ役割を割った。
まず、掘角竜のグランを、分岐の手前へ回した。偏りの起きている流路を、物理で締める。片側へ寄った流れを、地形のほうから押し戻し、村の枝へ、決まりの量を通し直す。無骨で頑固なこの掘削竜は、こういう地味な流路の手当てを、いちばん確実にこなす。ぬかるみは苦手だが、乾いた分岐の岩を組み替えるのは、お手のものだった。
次に、泥食い獣のモルトを、村の枝の下流へ置いた。偏りで一度濁りかけた水が、村へ届く前に、モルトの区画を通る。腐敗も瘴気もないが、撹拌で舞った濁りを、こいつが黙々と食って、澄ませていく。食べすぎると眠るのが玉に瑕だが、量さえ見てやれば、水質の最後の一枚は、モルトが受け持てる。
「グランで、流れを戻す。モルトで、濁りを漉す。ルーメで、戻ったかどうかを、色で見る」
ユークは、割り振りを口に出して、自分でも確かめた。誰か一体で片づく話ではない。流れを押し戻す者、澄ます者、直ったと教える者。三つが噛み合って、はじめて、村の枝が、決まりの量に戻る。
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半刻ほどで、壁面の赤みが、少しずつ、緑へ戻りはじめた。
グランが分岐の岩を組み直し、片寄っていた流れが、村の枝へ、じわりと戻っていく。下流でモルトが濁りを食い、ルーメの灯りが、赤から緑へ、順に鎮まっていった。水位表の針も、村の枝が、決まりの線へ、ゆっくりと上がってくる。
「戻った。……村の水は、涸らさずに済んだ」
ユークは、ひとつ、息を吐いた。だが、安心は、そこまでだった。
流れを戻しながら、ずっと引っかかっていたことがある。この偏り方は、おかしい。自然に起きる偏りなら、雨や地脈のむらで、もっとだらしなく、あちこちが同時に乱れる。だが今日のは、違った。よりによって、村の枝ひとつを、狙って撫でたような、妙に行儀のいい偏り方だった。決まりどおりに配れなくなる、その一歩手前を、正確に突いてきていた。
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流路が落ち着くと、ユークは、糸巡りの小蜘蛛のシルクスへ、別の役を振った。
「この三日、分岐の区画に、誰が入った。網に、かかってるか」
シルクスは、区画の要所という要所に、細い網を張り巡らせている。人が通れば、糸が震える。その震えを、シルクスは、余さず覚えている。せわしなく脚を動かしながら、この小蜘蛛は、ここ数日の出入りを、順に、パス越しに返してきた。
自分たちの出入りが、まず、いくつか。ミレアが記録を取りに下りた震え。グランが定検で通った震え。そのどれもが、いつもの動線だった。だが――ひとつ、いつもと違う震えが、混じっていた。
「分岐のいちばん奥。人の背丈の高さじゃなく、床すれすれに、震えが残ってる」
ユークは、シルクスの返してきた感触を、言葉に置き換えた。
「人が屈んで、通ったか。……いや、人じゃないかもしれん。何か、小さいものを、床を這わせて、分岐まで送り込んだ痕だ」
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あとから下りてきたミレアが、その痕を、一つずつ、記録帳に書き取っていった。
偏りが始まった刻限。ルーメの灯りが赤む前に、シルクスの網に残った、床すれすれの震え。分岐の岩に、グランが組み直す前からあった、わずかな組み替えの跡。ミレアは、それらを、感情を交えず、順に並べていく。監査部にいた頃の、あの醒めた手つきだった。
「断定は、しません」
書き終えて、ミレアは、顔を上げた。
「これが仕組まれたものだ、と、今、証拠立てて言うことは、できません。自然の偏りにも、こういう起き方が、絶対にないとは、言い切れない。……ですが、痕は、残しておきます。誰が、とは書かない。ただ、こういう痕があった、と。あとで、二度、三度と同じことが起きたとき、この記録が、点をつなぎます」
「それでいい」
ユークは、頷いた。
「今、犯人探しをするのが、いちばん危ない。仕組まれた、と騒げば、こっちが被害者の顔で暴れてる、って絵にされる。逆に、事故だ、と認めれば――」
言いかけて、ユークは、口をつぐんだ。認めれば、どうなるか。それは、言うまでもなかった。
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その、言うまでもないことを、ザグレスが、引き取って言った。
「事故だ、って認めた瞬間、向こうの思う壺だ」
ザグレスは、卓に肘をつき、低い声で続けた。
「野良の運用は危ない、仮の管理者じゃ、水ひとつ、まともに配れねえ――そう言いたい奴からすりゃ、今日の偏りは、願ってもねえ証拠だ。灰環が事故を起こしました、やっぱり登録して、国の管理下に置くべきです、ってな。登録を急がせるのに、これほど都合のいい話はねえ」
「だから、事故にはしない」
ユークは、静かに言った。
「人の被害は、出さなかった。村の水も、涸らさなかった。群れで押さえて、決まりどおりに戻した。――これは、事故が起きたんじゃない。仕掛けられかけたのを、防いだんだ。記録に残すのは、そっちだ。灰環は、揺さぶられても、決まりを守り抜いた、って事実のほうを、書く」
ミレアの手が、また、動きはじめた。何を最優先で守り、群れがどう噛み合い、村の枝を、どう決まりの線へ戻したか。事故の始末書ではなく、防いだ運用の記録として。同じ出来事が、書き方ひとつで、こちらの弱みにも、こちらの実績にもなる。ミレアは、それを、実績のほうへ、締めていった。
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村の枝が完全に落ち着いたのを見届けて、ユークは、ようやく卓へ戻った。
偏りは、押さえた。痕も、残した。事故ではなく、防いだ記録に、書き換えた。手は、ひととおり、打った。だが、腹の底の冷えは、消えなかった。
問題は、この先だ。今日、床を這わせて送り込まれた、あの小さな何か。あれを、誰が仕込んだのか。登録を急がせたい者――あの勘定方の焦りか。それとも、余剰枠を後回しにされて、上へ働きかけているという、商人モルガンの筋か。どちらとも読めた。どちらとも読める、というのが、いちばん厄介だった。
「痕は残った。だが、痕をたどれば、こっちが探りを入れてる、ってことにも、なる」
ユークは、記録帳を閉じるミレアの手元を、見ながら言った。
「うちが、外の誰かの動きを、細かく掴んでる。それが向こうに知れれば――今度は、どこから漏れてるんだ、って話になる」
ミレアの手が、一瞬、止まった。
どこから漏れているか。その問いが、向けられる先を、この場の誰もが、口には出さなかった。だが、思い浮かべていた。監督院の中に、ただ一人、灰環へ記録の重なりを流してくれている、あの危うい後輩の顔を。
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その晩、ラスティア経由で、一枚の走り書きが届いた。
差出人の名はない。だが、筆跡に、ユークは覚えがあった。几帳面で、少し気弱に角の丸い、あの字だ。走り書きには、短く、こうあった。
――院の中で、灰環に有利な記録を、誰が流したか、探しはじめた者がいる。近く、生態維持課にも、聞き取りが回る。
ユークは、その一行を、灯りの下で、二度読んだ。
外からの負荷は、群れで押さえられる。だが、この一行が指しているのは、群れでは押さえられない場所だった。配分の枝を撫でた手が、都合よく事故を演出しようとしたその裏で、別の手が、静かに、内側へ――記録を流した人間そのものへ、伸びはじめていた。ユークは、走り書きを畳みながら、次に押さえなければならないのが、水でも岩でもなく、一人の後輩の身の上だと、はっきり悟った。




