第90話 追放という前科
その古い裁定書が束の奥に、ただ挟まっているだけではない、と分かったのは、翌朝だった。
ミレアは再審査の本文と、その裁定書とを卓に並べて、読み比べていた。監査部にいた頃の手つきで、どの一行がどの一行を裏づけに使っているかを指でたどっていく。
「引かれています」
やがて、ミレアは本文の一節を爪の先で押さえた。
「〈現管理者は過去に職務不適格と裁定され、組織を離れた者である〉。この一文に注がついています。その注の先が、あなたのこの裁定書です。あなたが追われたという事実が、そっくりそのまま資格なしの土台に据えられている」
「昔の紙が、今の俺の首を絞めに来たか」
ユークはその裁定書をもう一度端から読んだ。
戦果なし。討伐適性なし。保全部の落伍者。現場偏重で昇進不適。何度読んでも、そこに並んでいるのは、使えない男を切ったという体裁だった。実務には使えるが、目立つ成果なし――その一行だけがわずかに彼を惜しんでいるように見えなくもない。だが、全体としては無能を整理したという顔で書かれていた。
この紙を受け取った日のことは、今でも妙にはっきり覚えている。上役はろくにこちらの顔も見なかった。書式どおりに一枚を読み上げ、署名の欄を指で示して、それで終いだった。半年、いや、それ以上かけて積み上げてきた現場の記録は、その場ではただの一冊も開かれなかった。壊れる前に直し、乾く前に配る――そういう数字にならない仕事の束は、裁定の卓には載せる場所すらなかった。裁定は彼が何をしてきたかではなく、彼が何を"しなかったか"だけで静かに組み上げられていた。討伐をしなかった。手柄を立てなかった。ただ、それだけで。
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だが、ユークにはその裁定が下りるまでの本当の道筋が分かっていた。
彼は追放の少し前、ある会議で灰環のような迷宮を切り捨てる判断に異を唱えた。配分を持つ迷宮は数字の上では赤字でも、周りの村の水や街道を目に見えない形で支えている。それを「低価値」の一言で帳簿から落とせば、迷宮だけでなく、その裾野の暮らしごと落ちる――そう、記録を積んで、食い下がった。
聞き入れられはしなかった。むしろ、その一件のあと、彼を見る目が変わった。面倒な男。処理の決まった案件を蒸し返す男。査定の席で、彼の名前の横に扱いにくいという見えない札が貼られたのを、ユークは肌で感じていた。追放の裁定は、それから半年もしないうちに討伐適性なしという、まるで別の顔をして下りてきた。
「本当は討伐がどうこうじゃなかった」
ユークは低く言った。
「切り捨てちゃいけない迷宮があると言い張ったのがうるさかったんだ。その理由じゃ紙にしにくい。だから戦果がない討伐ができないっていう誰にでも分かる無能の顔に書き換えられた。――そういうことだと俺は思ってる」
足元で幻尾狐のフェズが片耳をぴくりと動かした。パス越しにちりっと刺すような気配が伝わってくる。腹を立てているのはこの皮肉屋の狐のほうかもしれなかった。
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叫べば、楽になる。
この裁定は無能を切ったのではない。正しい運用を言い張った者を、都合の悪い口を黙らせただけだ――そう審査の席でぶちまけてしまえば、胸の内はいくらか軽くなる。
だが、ユークはその誘惑の先を冷めた目で見ていた。
過去を蒸し返された側が感情的に、あれは不当だった、俺は嵌められた、と喚けばどう見えるか。追放された腹いせに、組織を逆恨みしている男。灰環にしがみつくための見苦しい言い訳。相手が欲しいのは、まさにその絵だった。こちらが激すれば激するほど、無資格という札はいよいよ据わりがよくなる。
「乗らない」
ユークは自分に言い聞かせるように、言った。
「あの追放は不当だったって叫んだ瞬間、俺は"逆恨みの落伍者"になる。相手は、それを待ってる。声を荒げた分だけ、向こうの紙が正しく見えるようにできてるんだ。……だから、昔の話は昔の言葉じゃ返さない」
ミレアはその横顔をしばらく見ていた。それから、静かに頷いた。
「賢明です。わたしも、当時の運用監査の控えをいくつか覚えています。あなたが異を唱えた案件の、その後の数字を。切り捨てられた迷宮の周りで、井戸が濁り、街道が荒れ、村が縮んだ。北の街道ぞいに小さな村がありました。あの迷宮を切り落とした翌年、井戸が濁って、半分の家が町へ出ていった。台帳にはただ、〈人口減〉と一行あるきりで、なぜ減ったかはどこにも書かれていません。あなたの言い分があとから正しかったことは、数字のほうが知っています」
「その数字は出せるのか」
「一部は。ただ、それを"あなたの正しさの証明"として出すと、また逆恨みの顔になります。使うなら、別の顔で使うべきです」
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その日の午後、ラスティアからの荷に、また一通紛れ込んでいた。
エルリオの几帳面な走り書きだった。前より字が硬い。危ない橋をまた一歩渡っている手つきだった。
――裁定書の元になった記録を、触れる範囲で見ました。会議で先輩が何を言ったかの控えは、要点が削られて、ずいぶん短く丸められています。〈職務不適格〉の四文字に押し込められている。元はもっと長い意見でした。それだけは確かです。
ユークはその一枚を二度読んだ。丸められているという後輩の一言が、自分の記憶ときっちり噛み合った。感情ではなく、記録がそう言っている。
「方針が決まった」
ユークは便りを置いて、ミレアを見た。
「追放を晴らそうとはしない。無実だ、と証明する戦いはやらない。やるのは、逆だ。――あの追放の理由が"職務不適格"なら、その職務不適格の男が回してる灰環が現に村の水を守り、街道を戻してることを記録で見せる。あの裁定が正しかったなら、灰環は今ごろとっくに死んでるはずだ。死んでない。だったら、あの裁定のほうが間違っていたことになる」
「過去を弁明するのではなく、現在で問い返す」
「そうだ。晴らすんじゃない。今の実績で、"あの追放は本当に妥当だったのか"を向こうに考えさせる。証明はしない。問いだけ突きつける」
ミレアの目に、久しぶりに監査官らしい光が戻った。過去の泥仕合ではなく、記録で組める戦いなら、この女の領分だった。
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方針が立つと、卓の空気が少しだけ軽くなった。
だが、エルリオの便りには走り書きの隅に、もう一行、ためらいがちに付け足された文があった。ユークが最初に読んだときは、記録の話に気を取られて見落としていた一行だ。
――先輩の裁定に判を押した決裁筋を、名前で追っています。ひとつ気になることが。まだ確かめきれていないので、次の便りで。
ユークはその一行を指でなぞった。追放の裁定に判を押した者たち。その名前を後輩は、いま一つずつたどっている。何が気になったのかは書かれていない。だが、几帳面なエルリオが確かめきれないうちに、わざわざ一行だけ残したということは――そこに放っておけない何かの影が差したということだった。
古い裁定書の一枚から始まった戦いは、追放の理由を問い返すだけでは済みそうになかった。その判を誰が押したのか。そして、几帳面な後輩をわざわざ危ない橋の上まで引き返させたものは何なのか。ユークは便りをそっと畳んだ。次の一通が何を運んでくるのか。足元のフェズが尾の先で床を一度とんと打った。狐の醒めた気配が、いつもより少しだけ静かだった。嫌な予感が腹の底で静かに尾を引いていた。




