第89話 再審査の通告
その封書はエルリオの便りとはまるで手触りが違った。
几帳面な後輩の走り書きは、ラスティアの荷にまぎれてこっそり届いた。人目を避けた内緒の耳打ちだ。だが、この日、砦の受付に置かれたのは、監督院の正規の使いが馬を乗りつけてまっすぐ手渡していった一通だった。厚い紙。崩れのない封蝋。監督院の印。差出人も、宛先も、日付も隠れようのない字で刷られている。エルリオの一報が下からそっと差し込まれた影なら、こちらは真正面から卓に置かれた、記録に残る通告だった。
ユークはミレアと二人でそれを開いた。
「灰環迷宮 管理実態 再審査通告」
表題を読み上げてミレアは束をめくりはじめた。監査部にいた頃、こういう書式を何百と捌いてきた手つきだった。項目を目で追い、指で数え、頭の中で仕分けていく。その手が途中で止まった。
「妙です」
ミレアは通告を卓に伏せて顔を上げた。
「審査項目の並びが、前の照会とはまるで違います。水質の記録、事故の有無、配分の安全――迷宮がちゃんと回っているかを問う項目は、末尾に申し訳程度に載っているだけ。前のほうにずらりと並んでいるのは……」
「管理者の経歴か」
「ええ。現管理者の資格。登録の有無。過去の職歴と、その処遇。同じ言葉が何度も出てきます。……これは迷宮を審査する紙ではありません。迷宮を回している人間を審査する紙です」
ユークは伏せられた通告を裏返して端から眺めた。
前の照会のときは、まだ迷宮そのものを問うてきた。無資格の者に重要な迷宮を任せておけるのか、と。あのときは撥ね返せた。開いて、書いて、見せる。配った先も、量も、順番の理由も全部記録にある。回っている実物の前では、無資格という言葉は宙に浮いた。
「迷宮は崩せなかったわけだ」
ユークは低く言った。
「回り方にもう文句のつけようがない。記録も、実績も揃ってる。査察に来たって、荒探しのしようがなかったはずだ。……だから、迷宮を攻めるのをやめたんだろう。回してる人間のほうを崩しに来た。迷宮が正しくても、それを回してる男が"資格なし"なら、まとめてひっくり返せる――そう踏んだんだ」
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「あなたを認めているのは、コアです」
ミレアは通告の一項を指でなぞった。そこには、灰環迷宮の正規の管理者を記す欄が監督院の台帳には存在しない、とそっけない一文で書かれていた。
「コアが仮の認証を出している。それはこの砦の中では、何より確かなことです。あなたが下りていけば、扉は開くし、盤は応える。でも――監督院の台帳にはその欄そのものがない。制度の紙の上では、あなたは」
「どこにもいない管理者だ」
ユークは後を引き取った。
コアに選ばれ、迷宮に認められ、村に頼られている。だが、監督院の帳面の上にはその事実を書き込む場所が一行も用意されていない。灰環を回している男は、制度から見れば、いるはずのない、宙に浮いた誰かだった。無資格という札はその空欄になら、いくらでも貼れる。何を積み上げても、貼る場所が空いているかぎり貼られ続ける。
足元で幻尾狐のフェズが尾の先をとんと床に打った。パス越しにひやりと醒めた感触が返ってくる。面白がるでも、案じるでもない。ただ、また面倒が来たな、と見透かすような皮肉屋らしい気配だった。ユークの気の重さを、この狐はとうに嗅ぎ取っているらしい。
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ユークは綴じられた運用記録の一冊を卓の端から引き寄せて指で叩いた。ミレアがこの間ぶんを清書して綴じた、あの一冊だ。
「運用のほうは心配してない」
「守れると」
「ああ。開いて、書いて、見せればいい。それはこれまでどおりだ。文句が来たら、記録で返す。うちがいちばん得意なやり方だ。査察の目が何度来たって、この一冊がある。……だが、資格はそうはいかない」
「記録では守れない」
ミレアの声が少し沈んだ。監査の書式なら、どんな難物でも仕分けてきた人間が、この一点だけは勝手が違う、と分かっている顔だった。
「ああ。資格ってのは、俺が信用に足る人間かどうかって話だ。それはこの紙束の外にある。何冊記録を積んでも、"追放されたやつ"って一言の前じゃ紙は紙だ。迷宮がどれだけ綺麗に回ってても、それを回してる男が信用ならなきゃ意味がない、と言われたら――記録じゃ返せない」
「では、何で返すんですか」
ミレアの問いは責めるものではなかった。次の手を一緒に探そうとする問いだった。
「人だろうな」
ユークは少し考えてからそう言った。
「紙が信用ならないなら、人に言ってもらうしかない。クルン村の連中でも、グニェルでも、ザグレスでもいい。この男は水を止めなかった。約束を守った。逃げなかった。――そう言ってくれる人間がどれだけいるか。今度の戦いで効くのは、記録の厚みじゃなくて、そっちだ」
言いながらユークは自分でも意外なほど腹の底が据わっているのに気づいた。追放歴を蒸し返される、と聞いたときは正直胃が縮んだ。だが、資格は人が証すもの、と口に出してみると、それはこの半年地味に積み上げてきたものと、そう遠くなかった。壊れる前に直し、乾く前に配る。その積み重ねを見ていた人間なら、いる。監督院の帳面には無い欄が、村の井戸端にはちゃんとあった。
「ただ」
ミレアはそこで現実家の顔に戻った。
「監督院は村の声をそのままには受け取りません。身内びいき、口裏合わせ――そう言って、値引きしてかかります。現地が管理者をかばうのは当たり前だ、とね。ですから、証言はただ、集めるだけでは足りません。誰が、いつ、どの事実について、何を言ったのか。記録と同じ体裁で、外の目にも崩せない形に組んでおく必要があります」
「……結局、そこでも記録か」
「記録は人の声を値引きされにくくするための器です。中身は人、器は紙。今度は、その両方が要ります」
ユークは小さく笑った。監査部にいた女は、こういうときいちばん頼りになる。追放されたときの自分には、こうして横で書式を組んでくれる人間は一人もいなかった。それだけでも、あの頃とは状況が違う。
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ミレアが通告のいちばん最後の一枚をめくった。
そこで手が止まった。
「……ユークさん。これは」
束の末尾に添付資料として、古い一枚が綴じ込まれていた。数年前の日付。監督院の見慣れた書式。ユークにも覚えのある紙だった。忘れようとして忘れきれなかった紙。
自分が監督院を追われたときの裁定書だった。
それが今、「現管理者に資格なし」を裏づける証拠として、再審査の束のいちばん奥に綴じ込まれている。かつて一度彼を切り捨てた紙が、もう一度彼を切り捨てるために、わざわざ引っぱり出されていた。
ユークはその古い裁定書をしばらく見下ろした。戦果なし。討伐適性なし。保全部の落伍者。かつて彼に貼られた札が色褪せもせずに、そこに並んでいた。灰環を回して見せても、この古い紙は一枚も書き換わってはいなかった。ただ、仮管理者という新しい札がその上に薄く一枚重なっていただけだ。審査で下を剝がされれば、いちばん底の落伍者の札がまた表に出てくる。
「……ずいぶん大事に取っておいてくれたもんだ」
乾いた声でそう言うのが精いっぱいだった。
迷宮は放っておけない場所になった。その迷宮を回す資格を、これから、この古い一枚と、並べて問われることになる。記録では守れない戦いが、追放の裁定書の角から静かに始まろうとしていた。ユークはその紙の角を指の先でそっと押さえた。剝がれかけた古い糊の匂いが、指の先にうっすらと立った気がした。




