第88話 放っておけない迷宮
その朝、受付の卓には、いつになく紙が集まった。
クルン村からの水報告。畑の用水路が、今年は切れずに春を越した、という一枚。ラスティアの商人たちから届いた、余剰枠の精算書が数枚。ミレアが清書した、昨日ぶんの配分記録。そして、契約個体たちの巡回報告――シルクスの索敵網が拾った、外縁に異常なし、の走り書き。
ユークは、それを一枚ずつ、卓の上に並べていった。並べ終えると、そこには、灰環迷宮という一つの拠点が、今朝どう回っているかが、紙の重なりで見えた。
半年前には、考えられない光景だった。
この迷宮に初めて入ったとき、卓の上にあったのは、風化した封鎖勧告札の断片と、回収もされずに放られた古い調査票の残骸だけだった。ハズレの野良迷宮。誰もが、そう呼んで通り過ぎた場所だ。それが今は、水の便りと、商いの精算と、暮らしの配分の記録が、朝いちばんに集まってくる場所になっている。
紙に目を通しているあいだにも、砦は動いていた。掘角竜のグランが、外縁の崩れかけた通路を、朝のうちに一本、直しに出ている。低い地響きが、時おり足の裏に伝わってきた。泥食いのモルトは、配分槽の下流に溜まった澱を、のそのそと平らげて回っている。ルーメの苔明かりが、通路の湿り具合を、淡い濃淡で映す。誰が号令をかけるでもなく、それぞれが、それぞれの持ち場で、昨日と同じ仕事をしていた。
回っている。ユークは、そのことに、いまだに少し、不思議な気持ちになる。追放されるまで、彼が監督院でやっていたのは、まさにこれだった。誰にも褒められない、地味な保守。壊れる前に直し、乾く前に配る。目立つ戦果は、一つもない。だが、その地味な仕事の積み重ねが、いま、卓の上に、暮らしの紙束になって返ってきていた。
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ミレアが、この間ぶんの運用記録を、一冊に綴じ終えた。
「配分の優先順位、利用枠の契約、記録の公開。この三つが回りはじめてから、揉め事の帳面が、目に見えて薄くなりました」
「揉め事が減ったのは、いいことだ」
「ええ。ただ」
ミレアは、綴じたばかりの一冊を、卓に置いた。
「うまく回っているぶん、この記録そのものが、値打ちを持ちはじめています。誰が、どれだけ水を配れるか。それを一冊に握っているのが、今のこの砦です。回りが良くなるほど、この一冊を、外から欲しがる手も増える。大きくなるというのは、そういうことなんだと思います」
「隠すつもりは、ない」
ユークは、綴じられた一冊を、指で軽く叩いた。
「この一冊が欲しけりゃ、中身は、いつでも読ませる。配った先も、量も、順番の理由も、全部書いてある。欲しがられて困るのは、後ろ暗いことを隠してる砦だけだ。うちは、隠してない。だから、欲しがられても、そう簡単には崩れない」
「その理屈が、通じない相手も、います」
「わかってる。通じない相手が、そろそろ来る。それも、たぶん、この紙束が呼び寄せた」
その言葉を裏づけるように、夕方、ラスティア経由で、一通の便りが届いた。差出人は、監督院に残ったユークの元後輩――エルリオだった。
ユークは、その几帳面な字を、二度読んだ。
「監督院が、また動くとさ」
「今度は、何を口実に」
「灰環の管理実態を、改めて審査し直す、だそうだ。前は『無資格者に任せておけるか』だったが、今度はもう一歩踏み込んでる。――俺の、追放歴を蒸し返すつもりらしい」
ミレアの手が、止まった。
「あなた個人を、狙うと」
「迷宮の回り方には、もう文句のつけようがない。開いて、記録して、揉め事も減ってる。だったら、迷宮じゃなく、それを回してる男のほうを崩す。落伍者として追い出したやつが、なぜ管理者を名乗ってるのか――そこを突く気だ」
エルリオの便りは、事実だけを淡々と並べていた。派手な警告はない。ただ、内部で審査の話が持ち上がっている、という一報。表立って逆らえない後輩が、それでも外へ流してよこした、精いっぱいの一報だった。
追放歴、という言葉を、ユークは口の中で転がした。戦果なし。討伐適性なし。保全部の落伍者。監督院が彼に貼った札は、どれも、今も剥がれてはいない。迷宮を回して見せても、その古い札の上に、仮管理者という新しい札が、一枚重なっただけだ。審査で下を剝がされれば、いちばん底の落伍者の札が、また表に出てくる。
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入れ違いに、ザグレスが顔を出した。外の噂は、いつもこの男が、いちばん無遠慮に運んでくる。
「フェルド。妙な話を聞いたぜ」
「灰環の水の話か」
「察しがいいな。そうだ。野良の迷宮が、村の水も、商人の枠も、きっちり決まりで配ってる――その噂が、ラスティアを、とうに越えてる。監督院の耳どころじゃねえ。もっと上、貴族筋だの、国の勘定方だのが、聞き耳を立てはじめてるってよ」
「値打ちが、見えたわけだ」
「そういうこった」
ザグレスは、壁に貼られた「灰環式 配分運用」の紙を、顎でしゃくった。
「価値のねえうちは、誰も見向きもしねえ。だが、回りはじめた途端、みんなが自分のものにしたがる。お前の砦は、放っておかれる格から、放っておいてもらえねえ格に、上がっちまったのさ。めでたいような、厄介なような話だ」
ユークの足元で、幻尾狐のフェズが、尾をゆらりと揺らした。人の話を、どこまで解しているのか。皮肉屋の狐は、面白がるような目で、卓の紙束と、難しい顔をしたユークを、代わる代わる見上げている。厄介事の格が上がった、というのが、まるで可笑しくてたまらない、とでも言いたげだった。
ユークは、卓に並んだ紙を、もう一度見渡した。水の便り、精算書、配分記録、巡回報告。守るものが、いつのまにか、迷宮のコアから、地域の暮らしそのものへ広がっていた。灰環は、もう、ハズレの野良迷宮ではない。放っておけば、村の畑が乾き、街道が寂れ、坑区がまた枯れる――放っておけない地域のインフラに、なっていた。
だからこそ、放っておいてはもらえない。
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その夜、ユークは中枢近くへ下りた。
ルーメの淡い光が、壁の一点で、いつものように「配分」の語をなぞっていた。だが、今夜は違った。その語の隣で、光がもう一度、揺れる。コアが、「配分」の先に、もう一文字を灯そうとしていた。
滲んで、まだ読めない。輪郭だけが、うっすらと壁に浮かんで、すぐに引く。
「配分の、その先か」
ユークは、揺れる光を見つめた。第五沈殿槽が、なぜ閲覧を制限されていたのか。配分の機構が、本当は何のために作られたのか。その答えらしきものを、コアは、まだ見せ切らない。だが、見せようとしはじめている。それは確かだった。
配分を、決まりの形にした。地域へ、無理なく配れるようになった。そこまでたどり着いて初めて、コアは次の一語を見せる気になったらしい。まるで、ここまで来られたなら、その先も託せるかどうか、確かめようとするように。灰環迷宮が本来何をする施設だったのか――その核心が、「配分」の一語の、すぐ隣まで来ている。
ユークは、光が消えたあとの壁を、しばらく見ていた。
迷宮の回り方は、決まりの形にできた。配分は、開いて守れるようになった。だが、その先には、まだ読めない語が一つと、蒸し返される追放歴が、待っている。次に問われるのは、灰環迷宮の回り方ではない。それを回している、ユーク・フェルドという男が、そもそも管理者を名乗る資格を持っているのか――その一点だった。
迷宮は、放っておけない場所になった。その迷宮を回す自分もまた、これから、放っておいてはもらえない。ユークは、消えた光の壁に背を向けて、地上への導線を、静かに上りはじめた。




