第87話 配分は、独り占めできない
監督院の一団が街道の向こうへ消えても、前砦の空気は、すっきりとは晴れなかった。
即時の接収は、退けた。だが、退いたのは監督院の手だけだ。配分を巡って絡まった、ほかの手は、まだ一本も解けていなかった。
翌朝、受付の前には、いつもの顔ぶれが、いつもより難しい顔で並んでいた。
クルン村の使いは、畑の水が今年は切れずに済んだ礼を言いに来て、ついでに「来年も、同じだけ回してもらえるのか」と、不安げに尋ねた。常連の採集者は、自分たちの枠が、坑区の復旧やクルン村の畑のせいで後ろに回されたことに、まだ納得しきれていない。そして、商人のモルガンが、いちばん奥で、腕を組んで立っていた。
「フェルド殿」
モルガンは、ユークの顔を見るなり、口を開いた。
「監督院は、退いたそうですな。けっこうなことだ。だが、私の枠は、相変わらず、いちばん後ろのままだ。金を積んだ私が後回しで、銭も払わん村の畑が先、というのは――どうにも、腑に落ちませんな」
ユークは、その不満を、突っぱねなかった。
「腑に落ちないのは、分かる。あんたは、ちゃんと金を払った。その分の枠が欲しい。商人として、まっとうな言い分だ」
「ならば」
「だが、順番は、変えない」
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ユークは、受付の卓の脇に、皆を見渡せるように立った。クルン村の使い、採集者、モルガン。配分の一滴を、それぞれの場所で待っている顔だ。
「ちょうどいい。今、全部まとめて、はっきりさせておく」
ユークは、ルーメが壁に描く配分の光を、背にした。
「この配分が、誰のものか、って話だ。コアが俺に手綱を開いた。だからって、これは俺のものじゃない。監督院が管理権を主張した。だからって、向こうのものでもない。モルガン、あんたが金を積んだ。だからって、買えるもんでもない」
「では、誰のものだと、おっしゃる」
「皆のものだ。ただし、条件付きでな」
ユークは、光の筋の、いちばん太い枝――クルン村の畑へ伸びる一本を指した。
「水が、維持できる形で、地域に配られ続ける。その限りでだけ、これは皆のものだ。誰か一人が独り占めしようとした瞬間に、配分は壊れる。村が干上がって商人だけが潤う形も、商人を締め出して村だけが太る形も、長くは保たん。皆のもの、ってのは、皆が少しずつ我慢して、初めて回るって意味だ」
ミレアが、その言葉を、すぐに帳面へ移していった。
「ユークさんの言ったことを、運用の形にまとめます。今は、配分の優先順位も、利用枠も、契約も、その場その場の判断で回しています。これを、一本の決まりにします」
ミレアは、三つの柱を、卓に書き出した。
「一つ。配分の優先順位。生活に要る分が先、止まっていた地域の復旧が次、商いの余剰が最後。なぜその順なのかの理由も、必ず添えます。二つ。利用枠の契約。余剰の枠は、期間を区切って、誰にでも同じ条件で。三つ。記録の公開。誰に、どれだけ配ったかを、全部開く。隠れて誰かを優遇する余地を、なくします」
クルン村の使いが、おずおずと手を挙げた。
「あの……来年も、同じだけ、回してもらえるんで?」
その問いに、ユークは、すぐには「ああ」と答えなかった。
「約束は、しない。その代わり、無茶もしない」
ユークは、ルーメの光の、流れの細い枝を指した。
「配れる水の総量は、増えない。ここで俺が『来年も倍にする』なんて見栄を切ったら、どこかの枝を、無理に絞ることになる。無理して回した配分は、一年か二年で、必ずどこかが破れる。そうなったら、いちばん細い綱で渡ってる、あんたの村が、最初に乾く」
「じゃあ……」
「だから、増やすとは言わない。維持できる範囲で、同じ順番で、配り続ける。来年も、再来年も。派手じゃないが、その方が、村の畑は、長く枯れずに済む。配分が皆のものでいられるのは、誰も無理してないあいだだけだ。無理した瞬間に、それは、誰かから奪った水になる」
クルン村の使いは、しばらく考えてから、深く頷いた。倍にする、という景気のいい約束より、無理をしない、という地味な答えのほうが、長く水を待つ村には、信じられるものらしかった。
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「それで、いい」
声を上げたのは、常連の採集者をまとめる、グニェルだった。
「俺たちの枠が後ろに回されたのは、正直、面白くねえ。だがな、その理由が、紙に書いて、誰でも読める形で貼り出されてるんなら、文句のつけようがねえ。こっそり誰かが得してるんじゃねえ、ってのが見えるだけで、呑める話だ」
その隣で、ドーランも、ゆっくり頷いた。
「ルールがあって、それが皆に、同じだけかかる。だったら、俺たちは、そのルールの中で、ちゃんと使う。順番を守って使うやつが、いちばん得をする――そういう決まりなら、守る甲斐があるってもんだ」
モルガンは、しばらく黙っていた。公開された決まりの前では、金を積んだから先にしろ、とは、もう言いにくい。言えば、自分一人が、皆の見ている決まりを、金で曲げようとした商人になる。
「……余剰の枠は、期間を区切って、誰にでも同じ条件で、と言いましたな」
モルガンは、ようやく、そう確かめた。
「ああ。あんたも、その枠でなら、堂々と取れる。早い者勝ちでも、金額勝ちでもない。決まった条件で、決まった分を。それなら、誰にも文句を言わせずに、商いができる」
「……いいでしょう。その枠で、やらせてもらう」
モルガンは、不満を顔に残したまま、それでも、引いた。腕の組み方が、少しだけ、ほどけていた。
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その日のうちに、ミレアは、三つの柱を清書し、「灰環式 配分運用」と表書きして、受付の壁に貼り出した。まだ初版で、穴も多い。だが、配分を、その場の勘ではなく、皆が読める決まりで回す――その骨格が、初めて、形になった。
ザグレスが、貼り出された紙を、横目で読んでいた。
「立派なもんだ。だが、フェルド」
ザグレスは、いつもの低い声で、釘を刺した。
「こういう、よく出来た決まりってのはな。必ず、外へ漏れる。野良の迷宮が、村の水も、商人の枠も、ちゃんとした決まりで配ってる――その話は、いい噂にも、悪い噂にもなる。監督院は『そんな立派なものを、無資格者に任せておけるか』と、また理由にするだろうよ」
「上の連中は、ますます欲しがる、か」
「そういうこった。よく回ってる仕組みほど、欲しがられる。お前が配分を、ちゃんとした形にすればするほど、それを横から取りたい手は、増えるぜ」
「だろうな」
ユークは、意外なほど落ち着いていた。
「だが、隠して回すよりは、ましだ。隠れて配ってりゃ、いつか『何を隠してる』と疑われる。全部開いて配ってりゃ、疑いようがない。欲しがられるのは厄介だが、後ろ暗いところがないってのは、いざってときの、いちばん固い盾になる」
「ふん。追い詰められても、ちゃんと盾を数えてやがる」
ザグレスは、呆れたように、しかしどこか満足げに、鼻を鳴らした。
ユークは、壁の紙を見上げた。配分は、独り占めできない。今日、それを、決まりの形にできた。だが、その決まりが立派であるほど、独り占めしたい手を、外から呼び寄せてしまう。守るものが、迷宮から、地域の配分そのものへ広がった分だけ、それを狙う手も、遠くまで届くようになっていた。次に伸びてくるのは、ラスティアの監督院よりも、もっと上――この水の値打ちを、まだ見たこともない場所で聞きつけた手かもしれなかった。それでも、ユークは紙を貼り替えるつもりはなかった。隠して守る砦より、開いて守る砦のほうが、たとえ狙われても、最後まで崩れにくいと、もう知っていたからだ。




