第86話 コアは配分を誰に託すか
翌朝、ユークはコアが開いた配分の分岐を初めて自分の手で動かしてみた。
やることは難しくなかった。むしろ、これまで頭の中だけで組んでいた優先順位を、そのまま手応えに移すだけだった。クルン村の飲用と畑の枝をいちばん太く。前砦の生活用水をその次に。商人へ回す余剰の枝はいちばん細く、いちばん後ろに。
ルーメが配分の魔力流を淡い光で壁に描き出す。光の筋はユークが太くした枝へ素直に流れ、細くした枝できちんと細くなった。どこにも無理な滞りや逆流の兆しはない。
「素直なもんだな」
ユークは半分は感心して、呟いた。第五沈殿槽の配分はこれまで「勝手にどこかへ流れていくのを後から追いかける」ものだった。それが今は、こちらが「ここへこれだけ」と決めた通りに流れている。
とはいえ、いいことばかりではなかった。制御が手に入っても、配れる水の総量が増えるわけではない。クルン村の枝を太くすれば、その分どこかの枝が細る。前に坑区方面へ回そうとして別の枝が乾きかけた、あの一件をユークはまだ覚えていた。
「結局、配るってのは増やすことじゃない」
ユークは光の筋を見ながら、半ば自分に言い聞かせた。
「足りないものをどこから先に満たすか、順番をつける仕事だ。コアが手綱を寄こしてくれても、そこは変わらん。むしろ、決める責任がこっちに回ってきただけだ」
壁際で腕を組んでいたザグレスが低く応じた。
「手綱を握るってのは、そういうこった。どの馬に先に水をやって、どの馬を待たせるか、恨まれる役ごと引き受けるってことだ」
ミレアがその様子を一つひとつ記録に落としていく。
「ユークさんの差配で、配分が現に安定して回っています。これは今、残しておくべきです」
「記録するのか」
「コアが配分の制御をユークさんへ開いた。そして、ユークさんの差配で、水が止まらず回っている。この二つを日付と一緒に残します。後で『コアの気まぐれ』と言われたとき、気まぐれではなく、現に維持できている事実だ、と見せるために」
「それと、エルリオさんの便りにあった、あの食い違いにも繋がります」
ミレアは別の帳面を引いた。
「移管の手続きには『現に誰が管理しているか』の欄がある。ユークさんの差配で配分が回っている記録があれば、その欄に『管理者なし』とはもう書けません。コアが開いたという話だけなら、向こうは『機械の気まぐれ』で流せます。けれど、現に回っている記録は流せない」
「コアが選んだ、を現に回ってるで裏打ちするわけか」
「はい。選好だけでは、弱い。実績と組み合わせて、初めて向こうの手続きの中で崩せない一点になります」
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その記録がさっそく要ることになった。
昼過ぎ、ラスティア街道から監督院の一団がまた現れた。先頭にいたのは、前に査察へ来た、あの痩せた中年――ヴェッセルだった。今度は査察ではない。手にしているのは、配分機構の制御移管をその場で確認するための文書だった。
「フェルド殿」
ヴェッセルは相変わらず物腰だけは丁寧だった。だが、目は前砦の隅々を値踏みするように動いていた。
「移管の文書はお読みいただけましたな。本日は、配分機構の制御を本院の指定する者へお引き渡しいただく。その確認に参りました」
「引き渡す前に、見てもらいたいものがある」
ユークは卓の上の台帳の山をそのままにして、応じた。
「今、この配分がどう回ってるかだ」
ユークはルーメの描く配分の光をヴェッセルへ示した。クルン村の枝が太く、商人の枝が細く、どこにも滞りなく流れている、その図を。
「この流れを誰が決めてる、と思う」
「コアの自動制御でしょう」
「半分はそうだ。だが、どの枝を太くして、どの枝を後ろに回すかは、俺が決めてる。コアがそれを俺の手に開いた」
ヴェッセルの目が初めてわずかに細くなった。
「コアがあなたに開いた」
「ああ」
「フェルド殿。それはこちらにとっては何の意味も持ちません」
ヴェッセルの声から、丁寧さの底にある硬いものが覗いた。
「機械が誰を好むかは、管理権の根拠になりません。本院の台帳に『コアが選んだ』などという欄はございません。制度の上では、無効です。あなたがコアにどれだけ気に入られていようと、正式な管理者は本院が指定します」
ザグレスが昨夜、釘を刺したまさにその一点を、ヴェッセルは正確に突いてきた。ユークは慌てなかった。そう来ることは分かっていた。
「だろうな。コアが選んだから、俺のものだ、なんて言うつもりはない」
ユークはルーメの光からヴェッセルへ視線を戻した。
「俺が言ってるのは、選好の話じゃない。事実の話だ。コアが配分を開いた相手の手で、現にクルン村の畑に水が届いてる。前砦の暮らしが回ってる。商人の余剰も後回しにはしたが、止めちゃいない。これは機械の気まぐれか。違う。現に回ってるんだ」
ミレアがヴェッセルの前に二つの記録を並べた。
「監督院の手続きでは、管理権を移管する際、『現に誰が管理しているか』を確認する欄があります」
ミレアの声は淡々としていた。
「灰環迷宮をここに『管理者なし』と書けますか。配分が現に回り、水が現に届いている、この施設を。書けば、放棄記録と食い違う。書かなければ、移管は進まない。どちらをお選びになりますか」
ヴェッセルは並んだ二つの記録を長いこと見ていた。痩せた指が文書の縁を一度、二度と叩いた。
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「本日の引き渡しは見送ります」
ヴェッセルはようやくそう言った。
「ですが、フェルド殿。誤解なさらぬよう。これはあなたの主張を認めたという意味ではありません。本院の手続きに確認すべき食い違いが見つかったというだけのことです」
ヴェッセルは文書をゆっくりと畳んだ。
「私はこれを持ち帰り、上に諮ります。配分機構の扱いは本院だけでなく、より上の評価に委ねられることになるでしょう」
「上ね」
「ええ。野良の迷宮が地域の生命線を握っている。この事実は、もう本院だけで抱えておける話ではなくなりました」
ヴェッセルは一団を率いて、来た時と同じ静けさで街道を戻っていった。即時の接収は退けた。だが、退いた手はもっと上へ、この件を運ぼうとしていた。
ザグレスがその背中が見えなくなってから、口を開いた。
「上に上げるってのはな。次は配分の話だけじゃ済まなくなるってことだ」
「どういう意味だ」
「机の上で迷宮の値踏みを始めたら、必ず管理者の値踏みも始まる。お前が何者か。どこから来て、なんで監督院を出たのか。そこを向こうは穿りにくるぞ」
ユークはすぐには答えなかった。追放されて、ここへ流れ着いた身だということは隠してはいない。だが、それを蒸し返されるのがいちばん面倒な戦い方になることも薄々分かっていた。
ユークは遠ざかる一団の背を見送りながら、掌に残る配分の手応えを確かめた。今日は、コアの選択と、現に回る水とで机の上の建前を押し返せた。守ったのは、今日の一日だ。明日も、明後日も同じ水を同じ順番で配り続けなければならない。それを淡々と続けられるかどうかが、たぶんいちばんの正念場だった。次に来るのは、監督院の机ではなく、その向こうにいるもっと大きな手かもしれない。配分を誰に託すか――コアはもう選んでいる。だが、その選択を外がどう扱うかは、ラスティアの机よりもさらに遠い場所で問われることになりそうだった。




